長崎海軍伝習所に学び、長崎で知り合ったグラバーの斡旋で慶応元(1865)年イギリスへ密航。英語や数学を学ぶ傍ら、蒸気機関車や電信機、造船所等を見学して見聞を広めた。帰国後は有田焼の技術開発等を行い、私塾を開設して英語や数学を教える。明治4(1871)年工部省に出仕、電線の架設に必要な磁気碍子の国産化に成功し、電信頭として日本の電信組織の創設に努めた。後年、大阪造幣局長、小浜造船所長、元老院議員を務めた。