東京外国語学校(後の東京外国語大学)専修科仏語卒。高橋新吉の影響で詩作をはじめ、富永太郎を通じてフランス象徴詩に触れる。大正14(1925)年上京し、小林秀雄を知る。昭和9(1934)年、第1詩集『山羊の歌』を刊行して認められ、『四季』『歴程』『文学界』等の雑誌に作品を発表した。第2詩集『在りし日の歌』(1938)の刊行を待たず、結核性脳膜炎のため死去。