洋画家。日本女子大学在学中から油絵を習い、太平洋画会研究所に通う。青鞜社に参加し、雑誌「青鞜」創刊号の表紙を描く。大正3(1914)年に彫刻家で詩人の高村光太郎と結婚。昭和6(1931)年頃から統合失調症に悩み、療養生活を送る。療養中に多くの紙絵を制作した。命日は光太郎の詩「レモン哀歌」にちなみ、レモン忌という。