コラム<関西>
5 大阪砲兵工廠
誕生―明治3年
大阪砲兵工廠は、明治3年(1870)、大阪城内に創設された官営の兵器製造工場である。発足直後の明治政府にとって、軍備の近代化と兵器の国内自給体制の確立は最優先課題の一つだった。大阪城の軍事拠点としての優位性に着目した兵部大輔大村益次郎は、軍の中枢機関を大阪城に集中的に配置することを構想した。首都東京への設置を主張する意見も少なくない中、大村は刺客に襲われ、2年(1869)11月5日死去する。しかし、「海陸四達の要地」である大阪に「海陸兵学寮」「砲銃火薬製造局」などを置くべきであるとした大村の上申(兵部省軍務ノ大綱ヲ上陳ス 明治2年11月18日 兵部省上申)は、ある程度実現することになった。
3年(1870)2月、造兵司が兵部省に置かれ(参考:兵部省中ニ造兵司ヲ置ク 明治3年2月2日(沙))、同3月、大阪城の北東地区に当たる三ノ丸米蔵の跡が造兵司の地と定められた。これが大阪砲兵工廠の始まりである。徳川幕府の経営していた長崎製鉄所から機械と職工が、東京関口製造所(後の東京砲兵工廠)からも機械の一部が移され、操業が始まった。
発展への道
「我砲兵工廠ノ事業タル、当初予メ一定ノ方針ヲ建テ終始之ニ拠リテ経営拡充セシニ非ズ、多クハ軍需ノ要度及時運ノ趨勢ニ伴ヒ、専ラ当下ノ用務ヲ充タスガ為メ企画実施シタルモノニ係ル......」と大阪砲兵工廠編『大阪砲兵工廠沿革史』(明治35年(1902)刊)の序文に記されているように、揺籃期の大阪砲兵工廠は組織も事業も未完成だった。名称の変遷も目まぐるしく、4年(1871)に大阪造兵司、5年(1872)に大砲製造所(参考:鹿児島県集成館ヲ大砲製造所ト同県火薬製造所ヲ火巧所ト改メ造兵司管轄トス 明治5年3月8日 陸軍省)、8年(1875)に砲兵第二方面内砲兵支廠(参考:砲兵本廠ヲ元造兵司同支廠ヲ大阪元大砲製造所ニ置ク 明治8年2月5日 陸軍省布第35号達)、12年(1879)にようやく大阪砲兵工廠(参考:砲兵本支廠廃止砲兵第一第二方面東京大阪砲兵工廠設置 明治12年10月10日 陸軍省達乙第76号達)と称されるようになる。この間、10年(1877)の西南戦争では、「兵器ノ製造繁劇ヲ極メ、昼夜ヲ兼テ全力ヲ尽シテ猶ホ及バザルヲ恐ル」るほどであったといい、これが発展への一つの契機となった。
「砲兵工廠条例」(明治12年10月10日 陸軍省達乙第79号達)は、第1条で東京と大阪に砲兵工廠を置くこと、第2条で東京砲兵工廠に小銃製造所、銃砲製造所、火工所、大砲修理所、火薬製造所を、大阪砲兵工廠に製砲所、製弾所、製車所、火工所、小銃修理所を置くことを定めている。大阪砲兵工廠は、特に大砲と砲弾を中心とした兵器の製造拠点として発展していくことになる。
戦争が兵器工業の発展を促す。西南戦争を序章として、日清戦争(1894-1895)、日露戦争(1904-1905)が大阪砲兵工廠を名実共に大きくした。敷地も広がり生産設備の拡充も進んだ。前掲『大阪砲兵工廠沿革史』には、創立時、10年(1877)、20年(1887)、31年(1898)の各時期の詳しい見取り図が掲載され、発展の推移をたどることができる。当初大阪城の北東の一角のみだった敷地は、日露戦争期の拡張を経て明治末年には、城の南端の玉造門に至る大阪城の東側全域に広がった。生産技術も次第に向上し、それが民間工業の発展を促す原動力となった。
一方で、戦争による発展には、労働者にとって厳しい側面もあった。戦争特需による大量雇用と戦争終結後の大量解雇が繰り返される中、大規模な労働争議も起こっている。日露戦争後の39年(1906)12月には、結局挫折したものの16,000人が参加するストライキが計画された。第一次世界大戦後の大正8年(1919)10月にも大規模なストライキがあり、労働組合「向上会」が結成されている。その頃の大阪砲兵工廠の労働者の暮らしぶりが、8人だけではあるが大阪市の調査報告の中で紹介されている。
終焉―昭和20年8月14日
第一次世界大戦後の軍縮の時期、陸軍造兵廠令(大正12年3月30日勅令第83号)により東京・大阪の両砲兵工廠が組織上統合され、大阪砲兵工廠は陸軍造兵廠大阪工廠と名を改める。昭和に入ると、日中戦争が本格化する中で、再び急速な生産増強に転ずる。戦時体制の下、陸軍兵器廠令(昭和15年4月1日勅令第209号)、陸軍技術本部令(昭和16年6月14日勅令第696号)、陸軍兵器行政本部令(昭和17年10月10日勅令第674号)などにより、頻繁に組織再編も行われた。この時期の名称は大阪陸軍造兵廠であった。
従業員数も60,000人強に膨れ上がった。軍の造兵廠の中でも最大規模である。巨大な工場は、しかし、戦争末期には要員不足、資材不足などのため生産能力が減退していく。徴用、学徒動員などでしのいでいたが、劣勢は覆らなかった。昭和20年(1945)になると、大阪市内もたびたび大空襲に見舞われる。だが幸い、大阪砲兵工廠の被害は軽微だった。
そして運命の日が訪れる。8月14日正午過ぎ、B-29の大編隊が大阪砲兵工廠を襲った。終戦前日のこの最後の大空襲は、大阪砲兵工廠を徹底的に爆撃し、設備の90%が破壊された。空襲警報により防空要員以外は退避したため、砲兵工廠構内での死者は382人だったと報告されている。だが、隣接地域を含めた犠牲者総数がどれだけの数に上ったのかはわからない。
こうして大阪砲兵工廠の75年の歴史は幕を閉じた。跡地はその後、高層ビルが林立する大阪ビジネスパークや大阪城公園などに生まれ変わった。かつての兵器製造の拠点は、今ではビジネスと行楽の拠点になっている。
注 | 引用文は旧字体を新字体に改め、句読点等を施した。 |
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引用・参考文献
- 『大阪砲兵工廠沿革史』大阪砲兵工廠,明治35(1902) 【83-171】
- 大阪市社会部調査課編『労働調査報告.第16号 常傭労働者の生活』大阪市調査課,大正11(1922) 【14.5-27】
- 新修大阪市史編纂委員会編『新修大阪市史.第5-7巻』大阪市,1991-1994 【GC163-E5】
- 三宅宏司『大阪砲兵工廠の研究』思文閣出版,1993 【PS131-E9】
- 『日本の技術.8 大阪砲兵工廠』第一法規出版,1989 【M32-E4】
- 久保在久編『大阪砲兵工廠資料集』日本経済評論社,1987 【PS131-E1】
- 大阪砲兵工廠慰霊祭世話人会編『大阪砲兵工廠の八月十四日:歴史と大空襲』新装版.東方出版,1997 【GB554-G744】
- 河村直哉『地中の廃墟から:《大阪砲兵工廠》に見る日本人の20世紀』作品社,1999 【GB554-G1122】
- 国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』吉川弘文館,1979-1997 【GB8-60】