コラム<東京>
9 明治時代の芝居と劇場(三)演劇改良運動と「国立劇場」の建設論
明治19年(1886)、イギリスから帰国した末松謙澄は、「猥褻野鄙」な日本の演劇を改良し、「学者名士」の脚本により「優美高尚の趣」を持たせ、劇場を社交場とすることを主張して、演劇改良会を結成した。時は鹿鳴館時代。政府も条約改正の道具と考え、伊藤博文、井上馨、西園寺公望、渋沢栄一など政財界の大物が参加した。
末松の改良論は具体的である。『演劇改良意見』によれば、劇場は3階建の煉瓦石造とし椅子席を配置。幕間に茶や酒を飲む芝居茶屋は廃止して休憩室を置く。花道は無くともよく、チョボ(義太夫語り)は廃止。幕間の物売も全廃して「西洋の通り幕の間はマルで音楽ばかり奏して人の心を清く鎮め」る。その音楽も「三味線鼓でドンチャンポンポンやられては困り者」なので、「西洋の音楽なら極めてよろしい」と、いささか過激である。女優養成や、脚本の筋や台詞にも意見を示し、とどまる所を知らない。
この改良論は実現しなかったが、演劇改良会員であった福地桜痴らにより、現実的な形で建設されたのが歌舞伎座であった。桜痴は改良芝居の脚本作成にも奮闘した。また、市川団十郎の熱意は格別で、「何事にも改良」という時代でもあり、盛んに改良芝居が喧伝された。だが、全体としては、掛声の割に「学者側の議論家も、口で改良を唱えても、(中略)理屈を盛んに述べているに過ぎないし、(中略)旧劇の方では、歯牙にもかけていなかった」(篠田鉱造『明治百話』)ともいわれる。岡本綺堂も「知識階級に喜ばれるような狂言では一般の観客が来ない。したがって昔ながらのお家騒動や白浪物でお茶を濁して」おり、はかばかしい改良も進歩も見えずにいたと回想した。
時は移って日露戦争後、外国の賓客の来訪が増え、しかるべき大集会堂や娯楽場を選定するのに少なからず当惑したことなどから、改良論は国立劇場の建設論に形を変えて、再び盛り上がりを見せる。斎藤信策(高山樗牛の弟)「国立劇場と紀念像とを建設せよ」、上田敏 「国立劇場の話」等の理念的な主張から、「窮屈なる紅葉館に口に適せざる日本料理を饗せられ、怪し気なる手踊をみせられ」た「外国の貴賓或ハ名士」は、「茫然」とするだろうという新聞社説まであった(読売新聞 38年10月19日付朝刊)。
こうしたなか、国立ではないものの、44年(1911)、ルネサンス式の外観を持つ帝国劇場が建てられる。この帝国劇場は、まさに、末松や演劇改良論者の望んだ西洋式の劇場に他ならなかった(帝国劇場については別コラムをご覧いただきたい)。
引用・参考文献
- 読売新聞 【YB-41】
- 伊原敏郎『歌舞伎年表.第7巻(安政元年-明治31年)』岩波書店,1962 【774.032-I157k-K】
- 上田敏「国立劇場の話」『文芸講話』金尾文淵堂,明治40(1907) 【74-360】
- 岡本綺堂『ランプの下にて:明治劇談』(岩波文庫)岩波書店,1993 【KD487-E43】
- 岡本綺堂,今井金吾校註『風俗明治東京物語』(河出文庫)河出書房新社,1987 【KH465-E2】
- 鏑木清方,山田肇編『明治の東京:随筆集』(岩波文庫)岩波書店,1989 【KC19-E9】
- 篠田鉱造『明治百話.下』(岩波文庫)岩波書店,1996 【GB415-G7】
- 末松謙澄『演劇改良意見』文学社,明治19(1886) 【25-286】
- 嶺隆『帝国劇場開幕:きょうは帝劇明日は三越』(中公新書)中央公論社,1996 【KD11-G10】
- 山本笑月『明治世相百話』改版.(中公文庫)中央公論新社,2005 【GB415-H47】
- 『歌舞伎座百年史.本文篇 上巻』松竹,1993 【KD11-E21】
- 『演劇百科大事典』平凡社,1960-62 【770.33-E742-W】
- 『国史大辞典』吉川弘文館,1979-97 【GB8-60】