第2部 近現代

第8章 文芸家(1)

三遊亭円朝(さんゆうてい えんちょう) 1839-1900

三遊亭円朝肖像落語家。本名は出淵いずぶち次郎吉。7歳のとき小円太と名乗り初高座、のちに円朝と改め、人情噺や怪談噺で人気を博した。近代落語の祖ともいわれる。落語の創作にも力を入れ、代表作『真景累ヶ淵しんけいかさねがふち』、『怪談牡丹灯籠』をはじめとする新作落語は、現代でも演じられている。速記術普及のために刊行された『怪談牡丹灯籠』は、言文一致体の確立に大きな影響を与えた。

84 三遊亭円朝書簡 〔明治29(1896)年頃〕2月28日【柳原前光関係文書2-8】「三遊亭円朝書簡」

円朝から博文館の担当者へ送った書簡。書面では、『椿説蝦夷なまり』の出版届を博文館へ送ったことや、回送してもらった『名人長次』(『名人長二』)の口絵が上出来であることが述べられている。円朝は明治29(1896)年3月に博文館から両書を出版しており、その頃の書簡と考えられる。なお、絵画の腕前も知られた円朝が上出来と評した『名人長次』の口絵は、当時の人気画家、水野年方が描いたものであった。

「三遊亭円朝書簡」
「三遊亭円朝書簡」の翻刻

尾崎紅葉(おざき こうよう) 1867-1903

尾崎紅葉肖像小説家。大学予備門在学中に硯友社を結成。明治23(1890)年帝国大学を中退、創作に専念する。代表作は『多情多恨』、『金色夜叉』など。37歳の若さで没するが、明治文壇の大家として、泉鏡花、徳田秋声など多くの門人を育てた。江戸っ子気質の親分肌で、友人、門弟らによく好かれたという。

泉鏡花(いずみ きょうか) 1873-1939

泉鏡花肖像小説家。明治23(1890)年に尾崎紅葉の小説を読んで作家になることを志し、翌年、19歳で玄関番として紅葉宅に住み込む。父親が死去し、経済的に困窮した際にも紅葉に励まされて執筆を続けたという。紅葉が亡くなった際には弔辞を書き、それ以降も師の追憶談を幾度か発表している。代表作は『高野聖』、『歌行燈』など。

85 此ぬし〔明治23(1890)年〕【WA22-2『此ぬし』の外箱

紅葉自筆原稿の一部と、鏡花の識語(写本・刊本などで、本文のあと、または前に、書写・入手の由来や年月などを記したもの)。『此ぬし』は明治23(1890)年、『新作十二番』という叢書の2冊目として春陽堂から刊行された。この年、紅葉はまだ帝国大学の学生であり、試験前の7日間程で原稿を書き上げたという。この時の「試験の結果は余りよくなかッた」と後年回顧している(紅葉「作家苦心談(其七)」明治30(1897)年)。
鏡花は、『此ぬし』が書かれた翌年に紅葉に弟子入りした。紅葉の死から16年後の、大正8(1919)年6月付の鏡花の識語からは、師への深い思慕が感じられる。

『此ぬし』の尾崎紅葉自筆原稿及び泉鏡花識語
『此ぬし』の翻刻

山田美妙(やまだ びみょう) 1868-1910

山田美妙肖像小説家。尾崎紅葉らと共に硯友社を結成。代表作『武蔵野』などを発表し、二葉亭四迷と並んで言文一致体小説の先駆者とされる。のちに紅葉と反目し、硯友社を去る。20歳前後で文壇の寵児となったが、晩年は認められず不遇であった。歴史小説に佳作が多い。

86 白拍子祇王【本別3-67『白拍子祇王』上冊の表紙

自筆原稿。美妙の生前には出版されず、昭和9(1934)年に『祇王ぎおう』の書名で刊行された。執筆時期は明らかではないが、晩年の作ではないかと考えられている。美妙には、『平清盛』『平重衡』など、平家の人々を題材とした歴史小説がいくつかあり、高い評価を得ている。この『白拍子祇王』も、清盛の寵愛を受けた祇王という白拍子(平安時代末に多く見られた男装の遊女)と清盛の周辺を描いた作品。冒頭で美妙は、清盛のことを「凝り性」で「飽き易」く、「情に脆い」、「要するに一個可憐の正直物である。」と評している。

『白拍子祇王』上冊の巻頭

正岡子規(まさおか しき) 1867-1902

正岡子規肖像俳人、歌人。本名は常規つねのり。第一高等中学校にて夏目漱石と親交を深める。帝国大学を中退後、日本新聞社に入社。新聞『日本』に連載した「獺祭だっさい書屋俳話」、「歌よみに与ふる書」で俳句・短歌の革新運動を興した。7年間の病床生活の末、36歳で息を引き取る。

87 俳諧十六家 明治26(1893)年【WB12-23『俳諧十六家』の表紙

子規を中心とする俳人16人の代表句を子規が書き、各俳人の肖像を下村為山しもむらいざん(牛伴)が描いたもの。子規が選んだ句は一人につき4句、春夏秋冬の句となっている。為山は子規と同じ松山出身の友人。のち、俳画の画家として大成する(俳画は、俳味のある、略筆の淡彩もしくは墨絵)。
掲載箇所は、左頁に為山画の子規肖像、右頁には、子規の友人である当時19歳の高浜虚子たかはまきょし(掲載資料116に含まれる)の句が子規の筆で書かれている。

『俳諧十六家』の下村為山画の正岡子規肖像及び子規筆の高浜虚子の句
『俳諧十六家』の翻刻

88 子規手製俳句カルタ【WB41-55「子規手製俳句カルタ」の外箱

子規が100人の俳人の作品から各1句ずつを選んでつくった俳句カルタ。同郷の友人である河東碧梧桐かわひがしへきごとうの回想によると、制作は明治27、8(1894、 5)年頃で、子規の母と妹のりつ薬袋紙やくたいしを貼って作った札に、子規が句を書いたという(『子規居士真筆俳句歌留多帖』【158-118-77】)。
遊び方は、百人一首のように、読み手が読んだ句の札を取るが、和歌と違って上の句・下の句がないため、読まれた句そのものが書かれた札を取ることになる。この遊び方はあまり面白くなかったのか、「この歌留多をひろげたことは甚だ稀であつた」らしい(同前)。

「子規手製俳句カルタ」のうち「傍らに大なる石や女郎花」(月居)「子規手製俳句カルタ」のうち「南大門たてこまれてや鹿の聾」(正秀)「子規手製俳句カルタ」のうち「あら海や佐渡に横ふ天の川」(芭蕉)
「子規手製俳句カルタ」の翻刻

夏目漱石(なつめ そうせき) 1867-1916

夏目漱石肖像小説家。本名は金之助。明治22(1889)年頃より正岡子規と交際し、互いの創作を批評し合うなどして親交を深めた。帝国大学卒業後、英語教師となり、英国へ留学。帰国後、東京帝国大学講師を務めながら小説を発表した。明治40(1907)年朝日新聞社に入社。『行人』、『こゝろ』(初出時は『心』)などの名作を次々と新聞に連載した。日本の近代文学を代表する作家。

89 漱石書簡 〔明治25(1892)年〕【本別3-85「漱石書簡」の外箱

漱石から正岡子規へ宛てた葉書。明治25(1892)年6月19日消印。この頃2人は帝国大学に在学していた。漱石は、哲学の試験が済んだことに触れ、「君の平生点があれだから困る訳だけれど」、「後から受る事も出来るだらう」から教師に談判するように、と成績の悪かった子規に追試験を受けることを勧めている。しかし、子規は追試験を受けず、学年試験に落第して退学した。後年、子規は随筆「墨汁一滴」(明治34(1901)年)で当時を回顧して、試験準備を始めるとしきりに俳句が浮かんでくるので、いつも試験はそっちのけになった、と書いている。

「漱石書簡」のうち明治25年6月19日付け葉書本文「漱石書簡」のうち明治25年6月19日付け葉書表書き
「漱石書簡」の翻刻

島崎藤村(しまざき とうそん) 1872-1943

島崎藤村肖像詩人、小説家。本名は春樹。北村透谷らと『文学界』を創刊。詩集『若菜集』により浪漫主義詩人として出発したが、長野県小諸町にあった私塾の小諸義塾に赴任したころから小説が中心となり、『破戒』は自然主義小説の先駆となった。その他の代表作は『春』、『家』、『新生』、『夜明け前』など。

90 島崎藤村書簡 明治44(1911)年5月27日【立川雲平関係文書1-7】「島崎藤村書簡」の封筒

明治時代に長野を地盤として活躍した民権政治家立川雲平宛に藤村が送った書簡。立川は藤村の『破戒』に登場する市村代議士のモデルといわれている。書簡の中で藤村は、共通の知人である長野の小諸義塾の関係者たちの消息について触れている。小諸義塾とは、藤村の恩師であった木村熊二牧師によって開かれた私塾で、書簡の中で木村は「木村老師」と呼ばれている。藤村は木村に招へいされて同塾の英語・国語の教師として過ごした明治32(1899)年からの6年間に代表作『破戒』や『千曲川のスケッチ』を起稿した。

「島崎藤村書簡」