第2部 近現代

第9章 芸術家

岡倉天心(おかくら てんしん) 1862-1913

岡倉天心肖像明治時代の美術指導者。本名は覚三。幼いころから英語や漢籍を学び、東京大学でフェノロサに師事。東京美術学校(のちの東京芸術大学)の設立に努め、のちに校長に就任した。明治31(1898)年、門弟の横山大観や菱田春草らと日本美術院を創立した。ボストン美術館の東洋部長となるなど、日本美術を海外に紹介することに尽力した。

97 岡倉天心書簡 明治29(1896)年8月27日【阪谷芳郎関係文書224】「岡倉天心書簡」の封筒

当時東京美術学校長であった天心から、大蔵官僚の阪谷芳郎に宛てた返書である。阪谷から写実的な鯉の絵の発注先について相談を受けたものと推測できる。橋本雅邦のものは大いに見るべきものがあるが、写実的なものということであれば川端玉章がよいと勧めており、他にも下村観山など有望な若手画家を数名挙げている。阪谷はのちに第1次西園寺内閣大蔵大臣・東京市長・貴族院議員を歴任した。

「岡倉天心書簡」
「岡倉天心書簡」の翻刻

横山大観(よこやま たいかん) 1868-1958

横山大観肖像日本画家。本名は秀麿。橋本雅邦、岡倉天心に師事し、東京美術学校を卒業後、日本美術院に参加。大正3(1914)年には、守旧派に押されて一時活動が途絶えた日本美術院を再興し、近代日本画の中心作家として活躍した。輪郭をぼかした画風は「朦朧体もうろうたい」と呼ばれる。

98 横山大観書簡〔大正11(1922)年頃〕10月7日【牧野伸顕関係文書(書簡の部)658】「横山大観書簡」の封筒

大観から宮内大臣の牧野伸顕に宛てた書簡である。川合玉堂の伝言により、大観から牧野に『天心全集』(岡倉天心著【507-28『天心全集』の表紙)を贈呈するという内容であり、この書簡は本と共に送られた送り状と考えられる。天心は東京美術学校の校長を辞するとともに美術団体の日本美術院を創設しており、大観と玉堂はともに創設時から参加している。2人の交流の様子が身近にうかがえる書簡である。

「横山大観書簡」
「横山大観書簡」の翻刻

竹内栖鳳(たけうち せいほう) 1864-1942

竹内栖鳳肖像日本画家。京都に生まれ京都府画学校(のちの京都市立芸術大学)を卒業。「東の大観、西の栖鳳」とも呼ばれ、京都画壇の中心として多くの弟子を育て、日本画の近代化に大きく貢献した。横山大観、幸田露伴らとともに、第1回文化勲章を受章した。

99 竹内栖鳳書簡 大正14(1925)年7月22日【関屋貞三郎関係文書693-8】「竹内栖鳳書簡」の封筒

栖鳳から宮内次官の関屋貞三郎に宛てた接待礼状の葉書である。書面には、東京出立後の東伊豆でのひとこまとして、吉浜の崖下の日蔭で煙草を一服している際、子供の釣り糸に蛸がかかり、蛸も子供も自分も驚いたことが、ユーモラスに記されている。釣竿にかかった蛸の絵も描かれており、簡素ながらも動物の描写に定評があった栖鳳らしい躍動感が感じられる。

「竹内栖鳳書簡」
「竹内栖鳳書簡」の翻刻

北大路魯山人(きたおおじ ろさんじん) 1883-1959

北大路魯山人肖像芸術家。初め書と篆刻で身をたてたのち、古美術や料理の研究に進んだ。会員制の高級料亭星岡茶寮の開設後には陶芸に本格的に取り組むなど、様々な芸術分野で活躍した。

100 北大路魯山人書簡 昭和初期6月17日【牧野伸顕関係文書(書簡の部)204】「北大路魯山人書簡」の冒頭

魯山人から牧野伸顕に宛てた書簡である。昭和初期の魯山人は永田町で高級料亭の星岡茶寮を運営する一方、北鎌倉に星岡窯せいこうようを築き作陶に励んでいた。この書簡は星岡窯への招待状であり、大根の煮ころがしなどの田舎料理でもてなしたいと述べている。便箋の左下には「星岡茶寮」と印刷されており、専用の便箋であることがわかる。

「北大路魯山人書簡」の2コマ目
「北大路魯山人書簡」の翻刻