第6章 エピローグ 和算の終焉

コラム 明治以降の和算史研究(難易度0)

和算が歴史的研究対象となったのは明治前期からのことです。明治政府が西洋数学を教育の対象と決め、大学ではもっぱら西洋数学が教えられるようになると、和算の継承がなされなくなります。しかし、西洋数学を学んだ人にも和算の優秀さに気付く人があり、和算の資料を保存し、歴史記述が試みられるようになります。

日本人が幕末にヨーロッパの数学を受け入れるようになると、和算と洋算の体系の違いが明らかになりました。「和算」という言葉は、西洋算術、すなわち「洋算」に対応する言葉として生まれたものです。明治に入ると、明治5年(1872)に「算術九々数位加減乗除但洋法ヲ用フ」という文部省布達が出され、小学校で洋算を採用することとなります。この布達はすぐさま、和算を教えてもよいと変わりますが、高等教育では欧化政策のもと、西洋数学が教えられます。明治10年(1877)は、菊池大麓(1855-1917)が英国留学から帰国した年で、彼は同年設立された東京大学の数学教授となり、西洋数学を教えました。この年、日本で最初の数学会である東京数学会社も創立されましたが、会員の半数以上は和算関係者でした。この学会でまず行われたのは数学用語を決めることでしたが、和算家と洋算家で意見が一致せず、学会としてまとめることができませんでした。菊池に続いて留学から帰国して帝国大学(改称)の数学教授となった藤澤利喜太郎(1861-1933)が英和対訳の数学用語集Vocabulary of mathematical terms in English and Japanese(数学用語英和対訳字書)を刊行したのは明治22年(1889)のことでした。

菊池大麓の和算資料保存計画

菊池が早くから東京大学で和算の講義を考えていたことが、当時の大学の要覧The calendar of the Department of Law, Science and Literature にShort review of Japanese mathematicsという科目が載っていることからわかります。菊池は東京数学会社での交流で和算を知り、明治14年(1881)に和算家萩原禎助(1828-1909)を数学教室嘱託として和算書を集めさせています。またその頃、東京数学会社会員であった遠藤利貞(1843-1915)が『大日本数学史』を書き始めます。菊池は遠藤の仕事を知り、明治28年(1895)に遠藤を帝国大学数学教室嘱託に迎え、和算資料の収集を続けます。翌年には三井財閥の援助で『大日本数学史』は刊行されました。そして、同じ年に菊池は東京数学物理学会(前身は東京数学会社)の雑誌に和算を紹介する英語論文を書き始めました。

その後、菊池は文部次官、帝国大学総長、文部大臣などを務めますが、定職についていなかった明治39年(1906)、彼は帝国学士院で和算史編纂のための調査を提案し、可決されます。菊池が担当となり、彼は遠藤や三上義夫(後出)を帝国学士院の嘱託として和算資料の調査・収集に当たりました。菊池の目的の一つは遠藤の『大日本数学史』を増補・改訂することでした。遠藤は作業を続けましたが大正4年(1915)の死去により未完のまま残され、大正7年(1918)に三上の編集で『増修日本数学史』として刊行されました。菊池はこの刊行の前年(1917)に急逝し、帝国学士院の事業は後任の藤澤利喜太郎が引き継ぎました。

藤澤利喜太郎と『和算図書目録』刊行

菊池の後任となった藤澤利喜太郎は日本にドイツの数学を持ち込んだ数学者で、もう一人の天才数学者高木貞治(1875-1960)を育てたことでも知られます。明治3年(1900)に、ドイツの数学者D.ヒルベルト(1862-1943)がのちに「23の問題」として有名となる講演を行った国際数学者会議(パリ)に出席した藤澤は、'Note on the mathematics of the old Japanese school'という題で講演(国際数学者会議ウェブサイト)をしています。
藤澤が帝国学士院の和算史調査担当となった大正6年(1917)には、すでに7,500点の資料が集まっていました。大正15年(1926)、藤澤は和算家岡本則録(1847-1931)を嘱託として和算資料の目録作成を依頼し、岡本は昭和5年(1930)に目録を完成させましたが、翌年に死去し、刊行は昭和7年(1932)のことでした。そして、帝国学士院の和算史調査事業は終了となりました。

林鶴一と『東北数学雑誌』

林鶴一(1873-1935)は帝国大学で菊池大麓に学んだ数学者ですが、菊池の影響により和算を西洋流で論じる仕事を行いました。学生時代の明治29年(1896)に『東京数学物理学会記事』に発表した'Some extensions of "Iwata's theorem"'という論文には、冒頭に'Note by Prof. D. Kikuchi'という文章が付けられています。この論文は『東京数学会社雑誌』第1号に和算家岩田好算(1812-1878)が載せた問題を西洋流で解いたものです。
林は徳島中学時代には武田丑太郎、第三高等学校(京都)では河合十太郎という和算をよく知る師の影響を受けており、和算を洋算と比較することに関心がありました。大学卒業後は京都帝大、松山中学、東京高等師範学校などで教え、明治44年(1911)に東北帝大教授となりました。そのころ和算史の研究に傾倒していた彼は自費で『東北数学雑誌』 (Journal@rchive)を刊行し、和算関係の論文の発表の場を提供しました。創刊号の冒頭にはアメリカの数学史家David Eugene Smith (1860-1944)が'How the native Japanese mathematics is considered in the West'という論文を寄稿しています。
林は狩野文庫などの和算資料を多数買い集め、東北帝大を和算研究の中心地としました。彼の没後も藤原松三郎(後出)、蓑田高志、加藤平左エ門(1891-1976)、平山諦(後出)などの和算史研究者が出ています。

三上義夫による海外への和算の紹介

三上義夫(1875-1950)は日本の数学史を中国数学の影響を土台に記述して、英語で紹介しました。彼が和算史に本格的に取り組むようになったのは明治38年(1905)のことで、8年後にはDevelopment of mathematics in China and Japan をドイツの出版社から刊行しました。翌年には上記D. E. Smithとの共著でA history of Japanese mathematicsをアメリカの出版社から刊行しました。こうした準備をしていたことは明治41年(1908)菊池大麓の知るところとなり、三上は帝国学士院の和算資料調査嘱託となります。上記の英文著作刊行後の大正4年(1915)からは全国を回って和算資料の調査を行いました。しかし、大正11年(1922)に発表した「文化史上より見たる日本の数学」が帝国学士院の不興を買い、翌年、帝国学士院の嘱託を解かれています。
三上は国際的に通用する日本数学史を開拓し、昭和4年(1929)に国際科学史委員会の通信会員に選ばれています。『東北数学雑誌』にも多数の論文を英文・和文で発表し、昭和24年(1949)には東北大学から理学博士号を授与されました。

藤原松三郎と『明治前日本数学史』の刊行

藤原松三郎(1881-1946)は明治44年(1911)に林鶴一と共に新設の東北帝大教授となり、解析学などを講じました。同僚の林が昭和10年(1935)に亡くなると、藤原は彼の和算研究を継承する必要があると考え、翌年には『林鶴一博士和算研究集録』を刊行しました。また昭和13年(1938)からは和算や中国数学に関する論文も発表し始めます。
帝国学士院は昭和15年(1940)に日本科学史に関する調査研究事業計画を立て、紀元二千六百年奉祝会の事業として『明治前日本科学史』という叢書を刊行することが決まります。その数学部門の執筆を任されたのが藤原でした。彼は昭和20年(1945)までに8,000枚の原稿を書き上げています。この原稿の清書を行ったのが藤原の弟子平山諦(1904-1998)でした。この原稿は藤原の没後、『明治前日本数学史 1-5』(1954-60)として刊行されました。

小倉金之助の数学史研究

小倉金之助(1885-1962)は東北帝大の設立時に林鶴一の助手となった数学者で、微分幾何学を専門としました。大正6年(1917)には大阪へ移り、数学教育論に関心を持ちます。昭和2年(1927)にはカジョリのA history of elementary mathematics ...(1924) の邦訳を井出弥門と行い、三上義夫に校閲を依頼した関係から数学史に関心を移しました。昭和4年(1929)、雑誌『改造』に発表した「算術の社会性」が最初の数学史論文でした。翌年から和算書や中国の古典数学書の収集が始まります。小倉の関心は和算や明治以降の日本数学を世界の数学史の中に位置づけることで、その社会性・歴史性を論ずるため、多数の原典を集めました。昭和14年(1939)にラジオで講演し、翌年に岩波新書『日本の数学』として刊行された小倉の和算史は、今でも読み継がれています。

戦後の和算史研究

以上が戦前期の和算史研究のおおまかな流れでした。戦後になると『東北数学雑誌』には和算関係の論文が載らなくなり、代って算友会という団体が刊行する『和算研究』(1959-62)という雑誌が発表の舞台となりました。昭和37年(1962)には算友会は日本数学史学会となり、『数学史研究』という雑誌が刊行されています。これらの雑誌には、前出の平山や小倉のほか、その次の世代である大矢真一(1907-1991)、松岡元久(1918-2008)、萩野公剛(1927-1992)、下平和夫(1928-1994)といった人たちが多くの論文を寄稿しています。

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