第1部 歴史をたどる

3. 蘭学の興隆

(1)徳川吉宗と蘭学の萌芽

当初は貿易に限られていた交流も、しだいに知的な方面に進む。オランダ船で輸入されたものには、オランダ語の書籍もあった。これを通じて江戸時代の日本人は、西洋の学術「蘭学」を学ぶことになる。

蘭学の芽生えは8代将軍徳川吉宗の時代である。彼は、殖産興業、国産化奨励の方針から海外の物産に関心を示し、馬匹改良のため享保10年(1725)など数回オランダ船により西洋馬を輸入、ドイツ生まれの馬術師ケイズルを招いて洋式馬術、馬医学を学ばせた。また、享保5年(1720)禁書令を緩和してキリスト教に関係のない書物の輸入を認め、元文5年(1740)ころから青木昆陽、野呂元丈にオランダ語を学ばせるなど、海外知識の導入にも積極的であった。

これより先、万治2年(1659)にドドネウスの『草木誌』、寛文3年(1663)にヨンストンの『動物図説』が商館長から献上されていたが、解読できる者もおらず、空しく幕府の文庫に眠っていた。吉宗はこれにも関心を示し、翻訳を命じた。野呂元丈がオランダ人に質問し解読を試みた成果は、『阿蘭陀本草和解』などとして残っている。

この両書が、わが国の学術に広く影響を与えた最初の洋書といえよう。特に『草木誌』は、西洋植物学書の代表として、日本の本草・博物学にも大きな影響を及ぼした。松平定信や平賀源内もその翻訳を企てている。

(2)『解体新書』の翻訳

こうして蘭書により西洋の学術を取り入れる機運が開けた。まず、最も実用に適する医学から導入が進む。それまでも、長崎の通詞でオランダ商館の医師から医学を学び開業する者はあったが、画期となったのは、体系的な西洋解剖学書の最初の翻訳である『解体新書』の刊行である。

その翻訳事業の中心となった前野良沢は、最初青木昆陽に学び、長崎に赴いて通詞からも蘭語習得に努め、多くの著書、訳書を残した。その弟子大槻玄沢は、杉田玄白にも学び、江戸に最初の蘭学塾芝蘭堂を開く。玄沢は江戸の蘭学の中心的存在となり、幕府に出仕するとともに、多くの門弟を育成した。

これ以降、薬学、博物学、天文学、暦学、物理学、化学、地理学など各種の学問が蘭書を通じて学習され、著書、訳書が刊行されるものも多くなった。2-2を参照コラム 平賀源内と蘭学を参照

(3)蘭学の発展

こうして、長崎のオランダ通詞を通しての語学の学習から、蘭学塾による蘭書の学習に進み、多くの蘭学者が海外知識の導入と普及に功績を残した。蘭学はしだいに地方にも普及した。

なお、江戸時代の学問のあり方を反映して、儒学等と同様、蘭学も家の学として代々継承されることが多かった。杉田家、桂川家、宇田川家などはその代表的な例である。

オランダ語辞書の編纂も行われた。ハルマの蘭仏辞典をもとにした、稲村三伯の『波留麻和解』、ドゥーフの『ヅーフハルマ』、その改訂版『和蘭字彙』などが名高い。文法書の輸入、入門書の編纂も盛んであった。2-3を参照

19世紀になると、ロシア船、英国船がしばしば日本近海に来航し、北辺ではロシア人と日本官憲が衝突する事件も起こった。これによりロシア事情、海外地理、軍事学への関心が高まり、蘭学は実学としての性格が濃くなった。幕府も高橋景保の首唱により、公的な翻訳機関として文化8年(1811)「蛮(蕃)書和解御用」を設立、馬場佐十郎、大槻玄沢、青地林宗らがここに出仕し、ショメールの日用百科事典による『厚生新編』の翻訳事業等が行われた。

コラム 江戸幕府旧蔵の蘭書

国立国会図書館には、蕃書調所、開成所等が所蔵していた洋書が約3,600冊伝わっており、そのほとんどが蘭書である。これらは明治9年、東京書籍館時代に東京開成学校(現在の東京大学)から移管されたものを主とするが、当時すでに英語やドイツ語による学習の時代に移行しており、閲覧に供されることもなく忘れられた存在となっていた。戦後、上野図書館(現・国際子ども図書館)の倉庫から見出され、江戸時代の蘭学受容を示す貴重な資料であることが確認され、学界にも衝撃を与えた。蕃書調所や開成所が購入したもののほか、幕府の天文方や紅葉山文庫から継承されたものも含む。なお、江戸幕府旧蔵の蘭書は、徳川家の駿府移封に伴い移されたものが静岡県立中央図書館葵文庫にあり、東京国立博物館などにも所蔵されている。

シーボルトの来日もこの時期の特筆すべきことである。彼は前述のように日本事情調査という任務を帯びて来たのであるが、それと表裏をなす多くの日本人への学術指導は蘭学の水準向上に貢献した。しかし、文政11年(1828)の帰国に際し、その所持品には多くの禁制品を含むことが発覚、シーボルト事件を引き起こした。2-1を参照

さらに、天保10年(1839)には対外政策等の方針に知識人等が介入するのを嫌った幕府要人による、渡辺崋山らに対する弾圧(蛮社の獄)も発生した。2-2を参照

一方、蘭学による西洋の知識や、オランダ渡りの文物は一般庶民にも普及し、親しまれるようになっていく。2-4を参照

江戸時代を通じて多くの蘭書がもたらされたが、ドドネウス『草木誌』やヨンストン『動物図説』、ショメール『日用百科事典』などのほかにも、蘭学者に特に重視された蘭書はいろいろある。

たとえば、蘭学者にとって「ゼオガラヒー」といえば、地理学という普通名詞ではなく、ドイツ人ヒューブナーの世界地理書のことであった。彼の地理書のオランダ語訳は、世界地理の情報源として通詞や蘭学者に珍重された。翻訳、引用も数多くなされている。

同じくヒューブナーの時事用語便覧は、「コーランツトルコ」「コーランテントルコ」と呼ばれて活用された。

また、ボイス編の学芸百科事典も、多くの蘭学者の参考書となっている。

コラム 渡辺崋山の旧蔵書

江戸町奉行所から東京府に引き継がれ、帝国図書館に移管された「旧幕府引継書」の中に、「渡辺崋山旧蔵書」「崋山没収本」等と称される一群の書籍がある。これらは、天保10年(1839)の蛮社の獄で渡辺崋山が逮捕された際、幕吏が崋山宅を捜索、押収したものと伝えられる。崋山所持の確証のない本もあるが、20点ほどには崋山の蔵書印や書入れ等があり、伝えを裏付けている。ほとんどが海外事情、世界地理書で、崋山の関心の所在を示す重要資料である。本展示会では、本章や第2部第2章でそのいくつかを紹介するが、ほかにも「ゼオガラヒー」の部分訳『大貌利太泥亜誌だいぶりたにあし』『魯西亜志』、「コーランツトルコ」による『亜米利加志』「コウランツトルコ亜弗利加和解」(崋山書写。『海外事類雑纂』第2冊のうち)等があり、これらの書が蘭学者によく利用されていたことを示す。
崋山宅は半蔵門外の田原藩上屋敷内(今の最高裁判所付近)にあった。隣接地に位置する当館に、その蔵書が伝わったのも縁かもしれない。