第3章 大正デモクラシーと新しいメディア

レコード文化の発達

大正時代は明治時代に日本に入ってきたレコードや映画といった新しいメディアが大きく成長した時代でした。レコードでは日本蓄音器商会(後の日本コロムビア)と日米蓄音機製造が合併し、映画では日本活動写真協会(後の日活)が営業を開始しています。
このように大正時代は、新しいメディアを扱う業界が形成されていく成長期であり、大衆の中に新しい文化として浸透していきました。本章では、主にレコードと映画を題材に、新しいメディアと社会、政治の関わりを取り上げます

レコードについて

明治36(1903)年に、一般的によく知られる円盤型のSPレコードが天賞堂から発売されました。それまでの蝋管型に比べ、円盤型は収納しやすく、原盤を用いた複写がしやすいという利点があり、レコードの主流になっていきます。最初は片面盤でしたが、その後大正元(1912)年ごろから両面のSPレコードが発売され、一般に広まっていきます。
その後、日本蓄音器商会は明治45(1912)年2月に日米蓄音機製造と合併し、大正4(1915)年に製品を全て両面版へ切り替え、レーベルをニッポノホン(ワシ印)に統一しました。

スターと流行歌の誕生

復活

大正3(1914)年、劇作家の島村抱月が主宰する芸術座が、トルストイの「復活」を上演し、京都や長野、横浜などで巡業され、いずれも大盛況でした。カチューシャ役の松井須磨子が歌う「カチューシャかはいや」という劇中歌は大流行となり、その歌を吹き込んだレコードが東洋蓄音器から発売されました。島村抱月は各地での上演の前に講演会を行い、その際に必ずレコードで「カチューシャの唄」(当初は復活唱歌として知られていた)を流しました。当時SPレコードの価格は1円50銭(現在の価値で約7,500円)でしたが、レコードは約2万枚売れ、松井須磨子は大正を代表する大スターになりました。また「カチューシャの唄」はその後日本のポピュラー・ソングの主流となる流行歌の嚆矢となりました。

政治とレコード

第2次大隈内閣の司法大臣、尾崎行雄は、大正4(1915)年2月に総選挙に備えて、東洋蓄音器商会によってSPレコードに演説を吹き込みました。これは、尾崎の選挙区である三重の有権者に聞かせるためで、5枚組7円50銭(現在の約37,500円)で販売されました。

普通選挙について(一~六) / 尾崎行雄 : コロムビア(戦前), 昭和3(1928) 商品番号(レコード番号)25288~25290

前述の大正4(1915)年に東洋蓄音器から発売されたそのものではありませんが、昭和3(1928)年に日本コロムビアから発売されたSPレコードをデジタル化したものです。同年2月20日に日本で最初の普通選挙法による男子普通選挙が行われました。尾崎行雄は日本放送協会から依頼されて、議会の解散、選挙民に求められる心構えについて語りました。
尾崎に続き、大正4年3月に日本蓄音器商会によって首相、大隈重信の吹き込みも行われ、発売されました。ちなみに価格は3枚組で5円(現在の約25,000円)でしたが、『コロムビア50年史』によると、大隈重信のレコードは「箱を封切らずに売っちまった」ほど、売れに売れたということです。

憲政に於ける世論の勢力(一~六) / 大隈重信 : ニッポノフォン, 大正11(1922)※ 商品番号(レコード番号)510~515(※このレコードは大正4(1915)年に発売されたレコードを、大隈重信が亡くなった大正11(1922)年に再発売したものです。)

大隈侯一言一行

この大隈の演説レコードは歴史的音源の中に残されており、大隈の肉声を聞くことができます。
大隈は、「憲政は複雑な政治であり(中略)世論が盛んにならなければ、憲政が充分に運用されない。」また、「帝国議会が設立されて25年ほど経っているのに、選挙が不完全なままであるのは憂慮に堪えない事態である」と述べています。

ニッポノホン音譜文句全集

本書はニッポノホンレーベルで出していたレコードの歌詞、台詞を文字におこして一冊にまとめたものです。この中に大隈の演説の全文も収録されています。
また、この演説レコードは、大隈伯後援会によって、蓄音器の使用場所や正しい聞き方の通知状(下記資料「厄介な蓄音器-下手をすると選挙違反」参照)とともに各地に発送されました。

ニッポノホン音譜文句全集

この記事では、大隈重信の演説レコードが頒布されることと、それに伴い、蓄音器は設備を荘重にし、大隈重信が臨席している時と同様の態度で謹聴せよなどの聞き方の指導や、演説レコードの他に落語や義太夫などのレコードをかけると饗応の疑いで選挙法違反になるので注意せよ、などという通達が大隈の後援会から出されたと報道されています。

映画(活動写真)

日本映画黎明期

明治29(1896)年に神戸でキネトスコープが公開されたことから 、日本での映画の歴史が始まります。その当時は、活動写真と呼ばれていました。
その後、大正元(1912)年に、横田商会、吉沢商会、福宝堂、エム・パテー商会の4つの会社が資本金1千万円で合併し、日本活動写真株式会社(日活)が創立されました。日活は大正2(1913)年に現在の墨田区に日活向島撮影所を開業させました。
第一次世界大戦後には、日活から独立した映画人たちが天然色活動写真株式会社(「天活」)、国際活映株式会社(国活)、大正活映株式会社(大活)、といった映画会社を設立しました。また、歌舞伎の興行を行っていた松竹が大正9(1920)年に松竹キネマ合名会社を設立して本格的に映画に進出し、映画産業はますます活発になります。
映画雑誌も次々に創刊されました。現在分かっているだけでも、大正2(1913)年には、4タイトルの映画雑誌が発行されていましたが、大正14(1925)年には56タイトルに増えています。

キネマ旬報

当時学生だった田中三郎ら4名が大正8(1919)年に創刊しました。大正12(1923)年に関東大震災の被害を受けましたが、関西に拠点を移して刊行を続けました。『キネマ旬報』は昭和15(1940)年に一度休刊しますが、昭和21(1946)年に復刊し、現在に至っています。

スターの登場

尾上松之助自伝

尾上松之助自伝

日本映画初期のスターといえば、尾上松之助を挙げることができます。「目玉の松っちゃん」の愛称で知られ、おもに横田商会と後の日活で活躍し、1,000本以上の映画に主演しました。大正14(1925)年の主演1,000本記念映画『荒木又右衛門』では、従来の歌舞伎的な演技を排し、リアリズム溢れる殺陣を演じましたが、翌年に52歳で亡くなりました。本書では、横田商会時代から、日活時代までに出演した主な作品名が挙げられています。忠臣蔵の大石内蔵助や、四谷怪談、一心太助、宮本武蔵などの役名を見ることができます(該当箇所)。

為政者による規制

活動写真フイルム検閲年報

現在と違い、当時は映画の検閲がありましたが、演劇のための規則をもとに行われていました。大正6(1917)年に映画を規制する警視庁令「活動写真興行取締規則」が公布されました。これは興行場(映画館)、フィルムの検閲、説明者(弁士)、映画興行に関する規則を定めたもので、警視庁管轄の東京市内の映画館、映画興行が対象でした。各道府県はこれを参考にはしましたが、検閲はそれぞれの基準で行っていました。そのため大正10(1921)年には、文部省推薦映画『感化院の娘』が、神奈川県と大阪府で不許可になるというような事態も発生しました。このような混乱を受けて、内務省では検閲の基準などを統一する方策をとり、大正14(1925)年に内務省令第10号「活動写真「フィルム」検閲規則」が公布されました。
本書では、内務省検閲について検閲の内容や検閲の結果、不許可とされた事例が紹介されています。本書には検閲統一の理由として「活動写真が最近ますます発達流行し、民衆娯楽として他に比べるものがなくなるほど大きな勢力を持っている。娯楽のみならず、教育、宗教、産業、衛生、政治等の宣伝方法として使用されている。(中略)優良な映画の発達を阻害しないで社会に有害な映画を取り締まるためには、その判断を行うものが専門的な知識と経験が必要であり、今回検閲を中央に統一することにした。」と記されています。

映画の「教育」的利用

文部省は、映画が一般大衆に浸透してきたことを踏まえて、「通俗教育」に好都合な映画を奨励育成することにしました。「通俗教育」とは民衆教育、社会教育のことです。明治44(1911)年には文部省内に通俗教育調査委員会が設置され、大正2(1913)年には認定規定が公布されました。
文部省は続いて「推薦映画運動」をはじめ、大正10(1921)年には活動写真展覧会をお茶の水の東京博物館で開催しました。展覧会には、20日間の会期で一日一万人以上が来館します。この活動写真展覧会には摂政宮の行啓もあり、為政者側にも徐々に映画を文化として社会的に認めようという動きが強まってきました。

全国に於ける活動写真状況調査

全国に於ける活動写真状況調査

大正9(1920)年ごろの、全国の活動写真館の分布表や、日本地図上に常設館数が点によって示されています。東京、大阪がずば抜けて多いですが、映画産業が盛んだった京都が意外と少ないのも見て取れます。東京は62館、大阪は34館、日本全国では472館の常設館がありました。

民衆娯楽の改良と誘導

『社会と教化』は大正10(1921)年に文部省社会教育研究会が創刊した雑誌です。活動写真の工学的解説記事や、教育現場への利用方法が議論されました。記事の内容は規制よりもむしろ積極的に活動写真を活用し、社会教育に役立てようという主旨のものが多く、例えば文部省普通学務局課長、乗杉嘉寿は、社会教育の一環として活動写真などの民衆娯楽の改善指導をするべきとの論文を掲載しています。その論文の中で、優良なフィルムの「推薦映画」認定、弁士などフィルムの解説者の自覚修養、学校における趣味涵養などが必要であると述べています。

文部省製作映画

本書は文部省製作の映画を紹介する冊子です。例えば『東京見物』という映画では、東京見物をしながら、公衆作法を学ぶというストーリーになっています。国立国会図書館の前身のひとつである帝国図書館の閲覧室も登場しています(該当箇所)。冊子の序文の最後には、この映画を学校教育や社会教育として利用するのを奨励する、ということが記されています。

これまで見てきた通り、大正時代には映画やレコードなどの新しいメディアが、次第に成熟していく時代でした。この他に大正14(1925)年のラジオの登場も忘れてはいけません。国立国会図書館の第143回常設展示『日本の「美しき時代」 -大正時代に生まれたもの』で詳しくご紹介しています。

コラム戦前のレコード販売目録(大正時代)

レコードの販売目録とは、各レコード会社から定期的(月報及び年報)に出されていた新譜案内のことです。中にはレコード販売店などが独自に新譜情報をまとめて販売目録として出しているものもありました。販売目録には、レコード番号・発売年月日・歌手や演奏者等の情報が掲載されています。特にレコード番号から、当館での所蔵確認もできます。(リサーチ・ナビ「音楽・映像資料をさがす」には、当館所蔵の録音資料の検索方法や販売目録の詳しい説明がご覧いただけます。)

新音譜文句集

画像からは、東京蓄音器商会の富士山レコード、日本蓄音器商会の鷲印(ニッポノホン)の新譜が紹介されているのが確認できます。ちなみにこの他のページでは、オリエントレコードやスピンクス(スフィンクス)レコードが紹介されており、ここに紹介されているレコードはいずれも日本蓄音器商会かその傍系レーベルのものでした。

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参考文献



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