第2章 政治家・オピニオンリーダーと新聞・出版メディア

「大正デモクラシー」という時代風潮を振り返るにあたって、立役者としての政治家はもちろん、ジャーナリズム、あるいは女性解放運動・社会運動で大きな役割を果たした人々の存在を無視することはできません。第2章では、「大正デモクラシー」という時代の立役者として活躍した人々の足跡を、彼(女)らによるリアルタイムでの新聞・出版メディアの活用を中心に取り上げます。

議会政治家たちと新聞・出版メディア

第一次・第二次護憲運動で後世に名を残した議会政治家たちは、新聞や雑誌に論文を発表するとともに、たとえば普通選挙を求める集会を新聞社・雑誌社と共同で開催するなど、メディアを利用した政治活動も展開しました。その一方、そうした運動に対抗する側の政治家も、政府側の立場をとるメディアを活用しての世論操作を試みました。本節では、前者の代表的政治家として尾崎行雄を、後者の代表的存在として原敬を、両者の中間的存在として大隈重信をそれぞれ取り上げます。

尾崎行雄

尾崎行雄

安政5(1858)年-昭和29(1954)年。ジャーナリスト、政治家。「憲政の神様」と呼ばれた。

憲政擁護大会

大正元(1912)年12月5日、第二次西園寺内閣が退陣した後、17日に長州閥の桂太郎に組閣の大命が下りました。この動きに対し、東京・銀座の「交詢社」に集った政治家や新聞記者を中心に、「憲政擁護」を旗印とした運動が発生しました。紹介記事は、19日に木挽町歌舞伎座において開かれた「憲政擁護大会」の様子を伝えています。尾崎行雄は、桂内閣を「此(この)陣立たる実に国民に向って砲門を向けたると斉(ひと)しきなり」と非難し、『大阪朝日新聞』 の本多精一は、運動が目指すものについて「官僚派が西園寺内閣を破壊したる憲法上の責任を問はんとするが目的なり」と発言しています。

学堂政戦史

第一次護憲運動の直後、「大阪毎日新聞」に大正2(1913)年4月7日から連載された「学堂政戦史」の連載予告です。「憲政擁護の急先鋒にして民軍の首領たる尾崎行雄氏の自叙伝なり」「近来の一大読物をなす」と読者にアピールしています。後年刊行された『咢堂回顧録』【312.1-O982g】では、「あんなつまらぬものでも、これを載せることが、新聞の声価をますもととなるほどに、護憲運動の気勢はさかんだつたのである」と記されています。尾崎の名声と新聞メディアの発達が連動していたことを示す、興味深い事例です。

原敬

原敬

安政3(1856)年-大正10(1921)年。ジャーナリスト、官僚、政党政治家。大正7(1918)年首相となり、初の本格的政党内閣を結成するが、同10(1921)年東京駅で暗殺された。

首相記者招待(東京朝日新聞 大正7(1918).10.8 朝刊4面)【Z99-191】)

首相に就任した原敬が、新聞記者を招待して、内閣成立披露パーティを開催したことを報じた記事。「新聞記者側の出席者は一百名に達したり」とあります。自らも新聞記者の経験がある原敬は、新聞社・雑誌社を自らの味方につけるべくメディアコントロールを画策しました。たとえば、自らが社長を務めた『大阪新報』や、『中央新聞』を自らの属する政友会の機関紙化し、『東京毎夕新聞』などの系列紙とあわせて、情報発信のみならず情報収集にも活用しました。

影印原敬日記. 第14巻 / 原敬 [著] ; 岩壁義光, 広瀬順晧編 東京 : 北泉社, 1998.3. p.232-233 【GB411-G65】

第一次世界大戦の戦後処理を話しあうために開催されたパリ講和会議についての報道に、首相に就任していた原は不満を持っていました。そこで、腹心の新聞記者をパリに派遣します。紹介資料で、原は「巴里(パリ)に往きたる各社新聞記者の多数は我国の利害を考慮せずして徒に講和委員の悪口を事として通信し、国家の為めに甚だ妙ならずと信じ、夫是(それこれ)視察の為め吉植庄一郎(中央新聞)伊達源一郎(読売新聞)其他一両名彼地に出張せしむる事となしたり」と大正8(1919)年4月10日の日記に記しています。

大隈重信

大隈重信

天保9(1838)年-大正11(1922)年。政治家。明治31(1898)年憲政党を組織、首相に就任した。大正3年(1914)再び首相となる。

叙勲の御沙汰

大隈重信は、『報知新聞』を自派の系列新聞としていましたが、第二次大隈内閣の発足にあたって、「新聞記者倶楽部」と呼ばれる応援団的組織の支援を受けました。『日本新聞百年史』には、「大隈は新聞記者操縦の名人であり、(中略)長老記者のこの一団には特に丁重に処遇したから彼らのウヌボれをいよいよ増長せしめた」(314頁)と記述されています。 紹介記事は、大正4(1915)年11月、大隈内閣が自派の新聞人である『万朝報』の黒岩涙香をはじめ、『朝日新聞』の村山龍平、『大阪毎日新聞』の本山彦一、『国民新聞』の徳富猪一郎への叙勲を行ったことを伝える記事です。原敬は、このようなメディアコントロールを批判し、黒岩涙香に対する叙勲について「黒岩の如き悪徳の小新聞記者が大隈内閣を擁護せりと云ふのみを以て他の大新聞と共に叙勲あり、而(し)かも勲三等と云ふが如きは乱暴の至りなり」(『原敬日記』大正4(1915)年11月14日)と記しています。

学者・ジャーナリストによる世論喚起

大正時代には、議会政治家による運動だけでなく、学者やジャーナリストによる民衆の政治参加や植民地政策の見直しを求める発言も活発化しました。こうした発言は、政治家や社会運動家による現実の運動と相まって、第一次世界大戦後の普通選挙運動などに大きな影響を及ぼしていくことになります。本節では、政治学者として「民本主義」を提唱した吉野作造と、『東洋経済新報』所属のジャーナリストとして日本の植民地経営批判や軍備縮小などを唱えた石橋湛山(のち首相)に焦点を当てます。

吉野作造

吉野作造

明治11(1878)年-昭和8(1933)年。政治学者。『中央公論』大正5(1916)年1月号の「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」以降、大正デモクラシー運動の代表的な論客となった。

憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず

「民本主義」の主唱者としての吉野作造の名声を決定付けることになった論文です。
それは、「democracy」の訳語として用いられる「民主主義」と「民本主義」の二つを区別し、「国家の主権が人民に在る」とする前者ではなく、主権が君主に在るか人民に在るかは問わず、一般人民の利福と民意を尊重することを方針とする後者を主張するものでした。

我等 創刊号 大正8(1919).2.11 / 法政大学大原社会問題研究所編 東京 : 法政大学出版局, 1983 (日本社会運動史料 機関紙誌篇) 覆刻 【Z23-489】

『我等』は、大正7(1918)年の米騒動の渦中に発生した、白虹事件で朝日新聞社を退社した長谷川如是閑や大山郁夫らによって創刊された雑誌です。創刊号掲載の論文「我憲政の回顧と展望」(p.51-58)で吉野作造は、フランスにおけるナポレオン没落(1814年)から二月革命(1848年)までの期間を「我国の憲政史と比較するに最も適当なもの」とした上で、日本ではフランスと異なり「国体の変更」(立憲王政から共和制への移行)を伴わずに憲政を発展させることが可能であるとして、「国民に自治的訓練を与へ」ることが必要であると論じています。

石橋湛山

石橋湛山

明治17(1884)年-昭和48(1973)年。ジャーナリスト、政治家。東洋経済新報社の記者としていわゆる「小日本主義」の論陣を張る。第二次大戦後政界入りし、昭和31(1956)年~32(1957)年首相を務める。

一切を捨つるの覚悟 / 石橋湛山 (東洋経済新報 大正10(1921).7.23 p.107-108 / 東洋経済新報社監修 東京 : 龍渓書舎, 1995 (復刻版) 【Z3-3027】)

大正10(1921)年、ワシントンにおける軍縮会議の開催を前に、日本政府の植民地政策・対外政策について行った批判的提言です。石橋は日本政府と国民に「小慾を去つて大慾に就く」聡明さがあったならば、日本から進んで軍縮会議の開催を提案し、事態の主導権を握ることも可能だったはずであると指摘します。具体的には、「例へば満洲を棄てる、山東を棄てる」「又例へば朝鮮に、台湾に自由を許す、其結果は何(ど)うなるか。(中略)其時には、支那を始め、世界の小弱国は一斉に我国に向つて信頼の頭を下ぐるであらう」と提案しています。当時としては極めて急進的な植民地放棄論といえます。

大日本主義の幻想(一)~(三) / 石橋湛山(東洋経済新報 復刻版 大正10(1921).7.30(p.139-141),8.6(p.171-173),8.13(p.203-204)【Z3-3027】)

「一切を捨つるの覚悟」に続き、石橋が自らの植民地放棄論を3回にわたって理論的に展開した記事です。石橋は、「我国が支那又はシベリヤを自由にしようとする、米国がこれを妨げようとする。或は米国が支那又はシベリヤに勢力を張らうとする、我国が之を然うさせまいとする。茲(ここ)に戦争が起れば、起る」(一)と、将来の日米戦争を危惧していました。

女性運動家・社会運動家によるメディア活用

大正時代は、明治末期から徐々に発展を続けていた女性解放運動や、大逆事件後のいわゆる「冬の時代」からの脱却を図っていた社会運動の分野で、活字メディアがそれぞれの役割を果たした時代でした。本節では、女性解放運動の分野から平塚らいてうを、社会運動の分野からは堺利彦と賀川豊彦を紹介します。

平塚らいてう

平塚らいてう

明治19(1886)年- 昭和46(1971)年。女性解放運動家。明治44(1911)年、雑誌『青踏』を創刊。「元始女性は太陽であつた」という「創刊の辞」は有名。大正8(1919)年には市川房枝らと「新婦人協会」を設立し、女性参政権や母性保護を主張。

女性同盟 創刊号 大正9(1920).10 / [東京] : [ドメス出版], 1985 (複製版) 【Z6-2056】

平塚が、市川房枝らとともに女性参政権を求めて創刊した、「新婦人協会」の機関誌です。創刊号には、平塚による「社会改造に対する婦人の使命-『女性同盟』創刊の辞に代へて」(p.2-11)が掲載されています。平塚は、以前は「人間としての立場から、男女の平等無差別を標榜」したが、「今日の私共は更にそれ以上、女性としての立場から婦人の権利であり、義務である母の生活を完うするための実生活上の必要から諸種の権利を要求します」として、母性を保護する観点からの「女性の権利」を主張している点で、性差を理由とする不平等を問題にした後年のフェミニズム運動と異なる立場をとっています。

堺利彦

堺利彦

明治3(1871)年※-昭和8(1933)年。明治~昭和初期の社会運動家・政治家。『万朝報』記者となるが、日露戦争に反対して退社。大逆事件後、文章代筆業・売文社を創立。
※明治3年11月25日生まれ、西暦では1871年1月15日にあたる。

新社会

堺が編集・発行した『新社会』第8号の表紙。堺自身のほか、山川均・高畠素之・荒畑寒村など、社会運動における著名人の原稿が掲載されています。堺は、大逆事件後に創刊した『へちまの花』では非政治的な内容構成に徹する慎重姿勢を取りましたが、大正4(1915)年9月に『新社会』と改題してからは、誌面を徐々に闘争的なものとして行きました。第8号収録の時事短評「蕾と芽」(p.16-19)では、第二次大隈内閣について「さすがに何か少しくらゐ眼ざましい事をやるだらうと云ふ希望は、大分多くの人が持つてきた。それが即ち大隈内閣の人気の基であつた。然しそれも今は全くの空頼みであつた事が分つた」と批判しています。

賀川豊彦

賀川豊彦

明治21(1888)年 -昭和35(1960)年。大正・昭和期のキリスト教社会運動家、社会改良家。大正9(1920)年、雑誌『改造』に連載した自伝的小説『死線を越えて』がベストセラーとなり、一躍脚光を浴びた。

労働

大日本労働総同盟友愛会(のちの日本労働総同盟)の機関誌『労働』(『労働及産業』から改題した初号)。賀川作の「労働歌」が表紙に掲載されています。歌詞は三番まであり、一番の内容は「眼ざめよ日本の労働者/過去の因襲打ちやぶり/世界改造遂ぐるまで/克己勉励努力せよ」というものです。当時の労働運動界における賀川の名声の高さが想像できます。

コラム政治家と新聞社での活動経験

「大正デモクラシー」期に活躍した政治家たちの中には、その経歴において、自らも新聞社に在籍した経験を持つ者が少なくありませんでした。この点は、現代の政治家と比較した場合、特徴的な傾向といえると思われます。
本文で項目を立てて紹介した人物では、たとえば原敬は前島密が創刊した『郵便報知新聞』に入社し、のちに藩閥系の『大東日報』に入社しました。また尾崎行雄は、福沢諭吉の推薦で『新潟日報』主筆となり『郵便報知新聞』を経て政界入りしています。
「大正デモクラシー」の立役者となった他の政治家にも、新聞社での活動経験を持つ人物は多く存在しました。たとえば、尾崎行雄とともに第一次護憲運動で活躍した犬養毅(安政2(1855)年 - 昭和7(1932)年)は、『郵便報知新聞』記者として西南戦争(明治10(1877)年)に従軍し、「熊本県御用掛」の肩書を得て戦況報告を送稿しました。
また、シーメンス事件で第一次山本権兵衛内閣を追及した島田三郎は、明治23(1890)年以降衆議院議員として活動するかたわら、日本最初の日本語日刊新聞である『横浜毎日新聞』の後継紙である『毎日新聞』(現在の『毎日新聞』とは別新聞)社長を務め、明治期には足尾鉱毒問題の追及などを行いました。あるいは、大正15(1926)年に労働農民党委員長に就任した大山郁夫も、大正6(1917)年『大阪朝日新聞』に入社するも翌年白虹事件で退社、『我等』の創刊に参加した経歴を持っています。
山本武利『新聞記者の誕生』で、「犬養毅はじめ政党幹部には記者経験者が多いため、記者の強味や弱点を熟知していた」(p.315)と指摘されているように、彼らの新聞社での活動経験は、大正時代におけるメディアの動向を敏感に把握し、それに対応した政治活動を行うことに役立ったと考えられます。

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新しいメディア



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