天然痘はウィルスによって引き起こされる感染症で、医学界では一般に痘瘡と呼ばれています。強い伝播力と高い死亡率、また、命を取り留めても顔や体に跡が残ることから、古くから恐れられてきました。 1796年イギリスの医師ジェンナーが開発した牛痘法が世界に広まり、1980年5月WHOは天然痘の世界根絶宣言をしました。以来これまでに世界中で天然痘患者の発生はありません。人類によって根絶された唯一の感染症です。
天然痘は、6世紀に日本に伝わったといわれています。江戸時代には日本にも定着し、幾度となく流行を繰り返しました。徳川幕府の将軍が何人も天然痘にかかっています。天然痘の特徴的な症状を記載した資料や種痘についての資料が残されています。
天然痘にかかると、高熱の後、主に顔や手足に特徴的な発疹ができます。発疹はやがて膿を持ち、かさぶたとなってはがれおちます。治癒しても顔に跡が残るため、「疱瘡はみめ定め」といわれました。酷くなれば顔中に天然痘の跡が残るため、軽く済むように人は祈りました。
本書は天然痘患者の顔に現れた症状を記録したものです。広範囲にわたってさまざまな跡が残ることがわかります。
嘉永2(1849)年に長崎出島の蘭館医モーニッケによって牛痘の種痘が日本へもたらされました。モーニッケの接種の成功によって、牛痘法種痘は全国に広まり始めました。著者、楢林宗健はそれを日本で広めた人物です。本書には種痘の成功に至る体験談と種痘の方法が詳しく書かれています。
天然痘は擬人化されて、疱瘡神と呼ばれました。「軽く済むように」「すぐよくなるように」と祭って機嫌をとったり、苦手なもので追い払ったりしようとしました。
古来、赤には魔よけの効果があり、呪力をもつと考えられてきました。疱瘡神もまた赤い物を苦手とするという伝承があるため、子どもに赤い着物を着せています。また、布団や身の回りの小物も赤い物づくしとなっています。
源為朝は平安時代末期の武将です。武勇で知られ、保元の乱では崇徳上皇側について敗北。伊豆大島に流されますが伊豆諸島を支配し、討伐を受けて自害しました。"八丈島に天然痘が流行らないのは為朝が疱瘡神を寄せ付けないのだ"として、疱瘡神を追い払う姿が描かれています。この絵の解釈には諸説あり、白い紙は疱瘡神の詫び証文という説や、左上の3人とも疱瘡神という説、手を広げているのは疱瘡神で後ろの2人は人間という説もあります。
実際には八丈島にも天然痘が流行ったことはありますが、為朝にすがる気持ちからか、その神威が傷つくことはなかったようです。
疫神とその周辺 / 大島建彦著 東京 : 岩崎美術社, 1985.9 【GD33-576】
疱瘡神からの詫び状や、天然痘を逃れるもしくは軽く済むお守りも知られています。証文や守り札を鴨居や戸口に貼って、天然痘にかからないように、また天然痘が軽く済むようにと願いました。
この札は疱瘡神の力に恐れ入った安倍晴明が「人々の疱瘡が軽く済むようにしてほしい」と、疱瘡神に頼んで、もらった札だといわれています。札には安部晴明の封印が加えられています。
元来ネズミなどの感染症であるペストは、人間にも感染します。過去ヨーロッパで何度も大流行しました。特に14世紀には全ヨーロッパで猛威をふるい、当時のヨーロッパの人口の3分の1から3分の2が失われたといわれています。
ペストには抗生物質がよく効くために早期に適切な治療をうければ昔のように恐ろしい病気ではありませんが、医療が満足に受けられない地域、とくにアフリカでは今も命にかかわる病気です。
最近では1994年にインドでペストが発生し、大きな混乱を招きました。
対応遅れて全国に拡大 発生地の住民、大量脱出 インドのペスト禍 (朝日新聞 1994.10.01 夕刊 【YB-2】)
専門医は、緊急対策を提言しましたが、グジャラート州政府は「急性肺炎の可能性が高い」として、ペスト発生の宣言をためらいました。それが不安を呼び、一時は医師までもが逃げ出すパニックに陥りました。
ペスト / ダニエル・デフォー著 ; 平井正穂訳 東京 : 中央公論新社, 2009.7 【KS154-J74】
1665年にロンドンを襲ったペストはそれ以前にロンドンを襲ったものとは比較にならないほど多数の死者を出しました。1722年に発表されたこの本は小説ではありますが、さまざまな文献や当時の人の記憶を元にしたのでしょう、ペストに襲われた際のロンドンの街や市民の個々の行動がジャーナリスティックに書かれています。
ペスト / カミュ著 ; 宮崎嶺雄訳 東京 : 新潮社, 1969.10 【KR153-J15】
この小説の舞台は1940年代のアルジェリアの町オランです。この町を不意にペストが襲います。あまりに不条理なこの天災に対して、さまざまな立場の人々が立場を超えて協力し、人を救うべく出来る限りの抵抗を続けます。
1899年に、海外から持ち込まれたとみられるペストが日本で初めて流行します。その後、大小の流行を繰り返しますが、検疫やネズミの駆除などの防疫に努めたおかげか、今日まで80年以上もの間、日本国内で感染・発症したペスト患者は出ていません。
ペストを媒介するネズミの駆除を目的として、1900年1月には東京でネズミの買い上げが始まり、一匹が5銭になりました。
この絵は猫が取ったネズミを人が横取りして、金に代えておでんを食べるというものです。明治30年当時は、もりそば・かけそばが1~2銭、天どん(並)が5銭でした。
ペストの研究に取り組んだ日本人のひとりに、北里柴三郎がいます。
北里柴三郎はドイツに留学し、コッホのもとで細菌学を学びました。破傷風、ジフテリアの研究で世界的に名の知られた北里は、ペスト、コレラ、狂犬病、赤痢など様々な病を研究し、近代日本の衛生医学に大きく貢献しました。
黒死病調査の派遣員(北里 青山) (朝日新聞 1894.05.31 朝刊 p.1 【YB-2】)
北里柴三郎と帝国大学医科大学教授の青山胤通がペストの蔓延する香港に派遣されました。北里はペストの原因菌の発見に力を尽くし、青山は自らもペストに感染しながら、感染経路や病状、経過を報告しました。
この記事は北里、青山の他、内務省衛生局から技手の岡田善行と帝国大学付属医院から助手の宮本叔が派遣されることが決まったことを知らせています。
二人の報告書が当館の国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧できます。一部ご紹介します。
虎狼痢/コレラ
労咳/肺結核