千里眼事件の特徴は、新聞等のメディアがブームに火を付け、科学者たちを巻き込んでいったことでした。社会の関心の強さは、当時出回った雑書からもうかがえます。第3章では、千里眼を取り上げた書物をいくつか紹介し、当時の世相をのぞいてみたいと思います。
当時の新聞は、連日各地に千里眼が現れたことを報じましたが、そうなると自分も千里眼の能力を身につけたいと思うのが人情でしょう。千里眼の練習法を具体的に紹介した資料も残っています。お手軽なハウツー物から本格的な精神修養を説くものまで、内容は様々です。
6)神秘術研究会編『実行自在千里眼独習』盛報館,大正2【特102-693】
さて、首尾よく千里眼を身につけたとしたら、あなたは何をしますか。科学への貢献に人助け、うまくすればお金儲けもできるかも知れません。千里眼の応用編です。
7)機外逸人『相場必勝千里眼』尚文館,明44.4【特49-50】
千里眼を用いて、相場でひと儲け……という本です。投資適格ならぬ「透視的確」と副題が付いています。内容は「宇宙精神」から説き起こし、「相場禅」を身につけることが推奨されます。何やら精神主義に偏っているように思われますが、附録として「本年の米に対する吾輩の千里眼観」が付いており、こちらは月毎の米相場予想もあり実用的です。さて、著者の千里眼は的中したのでしょうか。以下の資料に明治44年の米先物相場の統計が掲載されています。関心のある方は、検証してみてください。(大蔵省理財局編『金融事項参考書』大蔵省理財局,大正2-14【39-80】)
超能力を身につけるのは難しそう。でも、手品ならばマスターできるかも。千里眼に対して奇術であると批判した科学者がいましたが、逆手にとって(?)奇術で千里眼を実現しようという本も書かれました。
8)三洋堂編『最新秘法大奇術』三洋堂,明44.3【特53-527】
タイトルのとおり手品の種本です。全部で51の手品が紹介されますが、その最後を飾るのが、「人の書いた字を必ず當てる法(千里眼)」です。「此の法は近頃流行の千里眼とも云ふべきものにして最も面白きものにて多くの人の面前にて行ひて最も歡迎を受くべき斬新奇抜なる一大奇法なり」とあります。相手に字を書かせた紙を丸めて、東西南北天地左右と記した紙の上に投げ、どちらの方角に転がったかを記録させます。何度かこれを繰り返す間に、丸めた紙を別に用意したものとすり替え、ひそかに広げて中の字を確認します。再度、紙をすり替え、記録をもっともらしく講釈して、ひそかに確認しておいた字を言い当てるというものです。「やり方を人に知れぬ様即ち早くやる事に注意すべきなり」とあり、器用にやるのはなかなか難しそうです。手品本には他に、中田政吉編『千里眼』中田錦港堂,明44.7【特28-742】があり、こちらはページに並ぶ漢字の中から相手に選ばせた文字を当てるというもので、文字の配列に仕掛けがあるわけです。「本書の文字は某書道大家の筆法なれば習字手本代用として最も適すべし」との附言があり、一石二鳥の作りとなっています。
千里眼事件を題材にしたパロディ小説や演劇も書かれています。
9)八千代・弦月『我輩ハ千里眼』田中書店,明44.5【特13-204】
漱石の『吾輩は猫である』のパロディ小説で、「吾輩」の妻(猫)が千里眼であるという設定。「一輪咲いても牡丹は牡丹、四足でも猫でも千里眼は千里眼に違ゐはない 福来博士の有仰る通り國寶です」「吾輩はお馴染の夏目の猫の小指である、妃殿下〔みせす〕である」「近年千里眼が大流行に流行て猫も釋子も千里眼千里眼と名告り出るといふ大景気、吾輩も御多分に洩れず、出しやばることになつた」などと見えます。著者の岡田八千代(1883-1962)は、小説家、劇作家。新劇運動を率いた演出家・小山内薫の妹で、洋画家の藤田嗣治や舞踊評論家の蘆原英了は従兄弟に当たります。洋画家・岡田三郎助と結婚。平塚らいてうの青鞜社に参加。大正12(1923)年に長谷川時雨とともに『女人芸術』を創刊しました。
10)阪口幽斎『千里眼の由来』東京堂,明44.3【特22-784】
千里眼事件に材を取った戯曲です。小船千鶴子(御船千鶴子)、丸亀郁子(長尾郁子)、辻学士(藤学士)などが変名で登場します。実在の人物をモデルに面白おかしく脚色されており、千里眼事件をスキャンダラスに報じた新聞等の影響が見てとれます(副題に「学界の奇観」とありますが、同題で東京朝日新聞にスキャンダル報道が連載されました)。例えば、「小船千鶴子自殺の場」では、「時に、千鶴子、過日から、噺す通り、父さんも、熱心になつて、居るのぢや、どうか、早く、承知して、其何……相場の透視したり、又或は其……鑛山、炭脈の、透視など行つて、金儲けせんか」との台詞があり、千鶴子の自殺を親族に金儲けのための透視を強要されたためとした報道を元にしたことがうかがえます。最終場では、武道の心得がある丸亀郁子(これも、武芸師範の家に生まれた郁子に武道の心得ありとの報道の影響)が、千里眼を亡き者にしようとする悪者を捕らえます。本書が印刷された翌日(明治44年2月26日)、長尾郁子は病死していますが、刊行が遅ければ異なった結末となっていたかも知れません。
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