宗教学者、評論家。号は嘲風。京都府出身。帝国大学文科大学哲学科卒。大学院にて宗教学を専攻。明治31年(1898年)帝国大学文科大学講師。同37年教授となり、翌38年宗教学講座を開設。大正2年から同4年にかけハーバード大学に招へいされ日本文明講座を担当するなど、海外での活動も多かった。昭和3年にフランス政府からレジオン=ドヌール勲章を授与。著作に『宗教学概論』(1900年)、『切支丹宗門の迫害と潜伏』(1925年)など。
第3回公開実験。
第3回公開実験を報じた新聞に、「井上博士が「道徳天」と出たからには……視覚が無関係だとは言へない、統一が出来ると所謂佛教の無我一念になるので形而上から言ふと……」と述べて来ると何處からか「我田引水」と云ふ聲が聞こえる――井上博士に對座した姉崎嘲風博士が黙ってニツと大人しさうに笑む――」(出典:「十四博士の驚嘆」『朝日新聞』(東京)1910.9.18,朝刊,p.5【Z81-1】)とあるが、見解は不明。
嘲風会編『姉崎正治先生書誌』嘲風会,昭和10【684-89】
動物学者、進化論啓蒙家。江戸出身。外国語学校、開成学校予科、東京大学生物学科に学ぶ。卒業後、同大学助教授。明治18年(1885年)からドイツに留学し、ワイズマンに学ぶ。同23年から帝国大学農科大学教授として動物学を講義。東京帝室博物館長、帝国学士院会員等を務める。恩師モースの講義筆記を『動物進化論』としてまとめる。著書に『進化新論』(1891年)、『動物学講義』(1913年)など。
不参加。
(馬尾蜂の生態を紹介して)「千里眼は普通人間なら神のやうに思はれるのだが、私は決して不思議ではないと思ふ。前にも云ふ通り動物や蟲の持つて居る五感の作用は原始時代に遡ると矢張り人間も持つて居たのであつた。だから人間も太古は木の皮を透して見る感覚がもとよりあつたものかと思はれる。」(出典:石川千代松「少年理科 不思議な動物の五感と千里眼」『少年倶樂部』6(5) 1919.4【Z32-387】)
石川千代松全集刊行会編『石川千代松全集 第1』興文社, 1935【693-62】
哲学者。明治13(1880)年東京大学哲学科卒業。同15年東大助教授。同年共著『新体詩抄』(1882年)を刊行。新体詩運動の先駆者となる。同17年ドイツ留学。同23年帰国後、教授に任ぜられ、大正12(1923)年に退職するまでドイツ観念論哲学を講じる。また、国家主義の立場からキリスト教を排撃、国民道徳を主張し、晩年は日本の儒教研究に力を注いだ。
第1回及び第3回公開実験、丸亀出張実験。
明治29(1896)年、東京帝国大学文科大学哲学科に入学した福来を指導した教官の一人であり、福来の著書『催眠心理学』(1906)に序文を寄せている。千里眼事件に際しては、第1回及び第3回の公開実験に参加したのみならず、自ら丸亀に赴き長尾邸を検分するなど強く関心をもっていた。メディアでも積極的に発言しており、透視及び念写には概ね肯定的であった。井上は、千里眼を物理現象としてではなく、倫理や哲学の問題ととらえる傾向が強く、その見解には、物理学者や加藤弘之から批判も寄せられた。井上自身の発言を引くと、(研究の必要性を指摘した上で)「或は純然たる化学、物理学の方から研究し得られぬかも知れぬ。丸で範圍が違ふからであります。ドーしても其方の實驗法は應用のきかないものかもわからぬ。兎に角此は哲学、心理学、若しくは宗教学の方面から云へばいろいろ重大なる問題を解決するのに關係のある事であります。」また、紛失物、失踪者、逃亡犯、鉱脈、沈没船、海洋資源の発見や戦争への利用など、千里眼の実用面の効用にも言及しているのが面白い。(出典:井上哲次郎「丸亀の千里眼婦人長尾郁子に就いて」『東亜の光』6(2) 1911.2【雑55-26】)
電子展示会「近代日本人の肖像」井上哲次郎
精神医学者。石川県出身。帝国大学卒。明治33(1900)年ウィーン留学。帰国後、同36年京都帝大医科大学教授。精神医学教室を創設し、妄想性精神病、神経症などを研究。遺著に『精神病理学論稿』(1948年)。
福来と共同実験。第1回及び第3回公開実験、丸亀出張実験。その他、各地で実験。
福来と並行して千里眼実験を開始し、その存在を確信した今村は、京都医学会の講演で次のように述べている。「此透見ナル能力ノ存在ハ信ズ可キノ事實ニシテ、透見ハ一ノ特殊ナル感覺的心象ナルベク、其對照ハ物質的實在ト認ムベキモノナラント述ベ。續テ此種ノ能力ハ常人ノ正常的精神生活ニ於テモ存ズ可ク、唯他ノ明確ナル感覺ノ爲メニ壓服セラレ、意識ニ上リ來ルノ明度ヲ達セズシテ不明ノ中ニ了ルモノナラン」(出典:今村新吉「透見二就テ」『京都医学雑誌』7(2) 1910.4【雑28-29】)
京都帝国大学医学部精神病学教室編『今村教授還暦祝賀記念論文集』 京都帝国大学医学部精神病学教室,昭11【53-386】
内科医、医史学者。越後国(新潟県)出身。明治22(1889)年帝国大学医科大学を卒業し、ベルツの助手となる。翌23年、ドイツ留学。同27年帰国。同34年東京帝国大学医科大学教授、内科学を担当。東京帝国大学医学部長、宮内省御用掛、大正天皇の侍医頭、日本内科学会会頭、日本医史学会理事長、日本医学会会頭等を務める。脚気、寄生虫病など多方面に業績がある。
第1回及び第3回公開実験。
第3回公開実験の際に、千鶴子は腹を壊して体調がすぐれなかったため、実験終了後に入沢の診察を受けている。耳が少し遠いのとトラホームの後遺症で結膜炎を起こしているほか、「體格上から見た千鶴子には少しも異常は認めない」としている。また、千鶴子が千里眼を用いて病気の診断を行うということについて、「透視と病氣の診斷とは全く別物であるから透視に依て病氣を治するとか之を治療上に應用する抔と云ふ事は全く不可能の事と思ふ成程透視に依て肝臓が肥大して居る位の事は判るであらうけれども肝臓が肥大したから死ぬとか生きるとか云ふ事は解る筈はない」と医師らしい見解を述べている。(出典:「透視の實驗と諸博士」『心の友』6(10) 1910.10【雑5-21イ】)
宮川米次編『入沢達吉先生年譜』入沢内科同窓会,1940.11【GK61-37】
生理学者。三河国(愛知県)出身。慶応2(1866)年江戸に上り医学所に入る。明治3(1870)年ドイツ留学。同7年帰国するが、同11年再びドイツ留学。同15年帰国し、東京大学医学部教授。同23年帝国大学医科大学長。学士院会員。わが国の近代生理学の基礎を築く。
第1回及び第3回公開実験。
「私の考へでは人體を透覺せしめたら好からうと思ふ、之はX光線だの膀胱鏡だの言ふ物があつて醫者にも判る事であり且其手段方法等に關して疑念を挟むべき點が最も少いものだらうと思ふから一應勧めて置きました。」(出典:「見えぬものを透覚する頗る珍な女の実験」『朝日新聞』(東京)1910.9.15,朝刊,p.5【Z81-1】)
大沢謙二『冷水浴と冷水摩擦』文星堂[ほか],明44.7【61-102】
動物学者、進化論啓蒙家。遠江国(静岡県)出身。帝国大学選科に学ぶ。明治24(1891)年からドイツに留学し、ワイズマン、ロイカルトらに学ぶ。同28年山口高等学校教授、同30年から東京師範学校教授。ホヤ、コケムシ等の発生・形態を研究する一方、生物進化論の啓蒙に尽力。活発な文明批評を行う。帝国学士院会員。著書に、『進化論講話』(1904年)、『生物学講話』(1916年)、『猿の群れから共和国まで』(1926年)など。
第1回及び第3回公開実験。
「他の方面ではどうしても分らないと云ふやうなことが生物学的の見かたに依て幾らか見当が付くと云ふやうなことはいろいろありませうが、一つ例を挙げてみれば、先頃中新聞で喧しく唱へた所の千里眼のことであります。」「生物界にさう云ふことがあつて見るとさう云ふことは先づ行はれ得る範囲内であつて、普通の人にそれが出来ないのは詰り、其方面には格別必要がなかつたために発達せなかつたのである。」(出典:丘浅次郎「生物学的の見かた」『東亜の光』6(1) 1911.1【雑55-26】)「又馬尾蜂に就ても此と酷似した事實を余は研究の結果確かめたこともある。所謂千里眼なるものも之等の事項より推侈して或は有り得べきものかとも考へてゐた。所が千鶴子が大橋氏方で實驗の折余は頗る怪しき一事實を發見した」と述べ、鉛管のすり替えについて言及し、「されども婦人なるを以て此際は特に赦して當座の花を千鶴子に持たせたに過ぎぬ」としている。(出典:「千里眼の有無」『グラヒック』3(4) 1911.2【雑53-13】 )
丘浅次郎講述・菊地暁汀編『人類進化の研究』大学館,大正4【360-124イ】
法医学者。遠江国(静岡県)出身。明治12(1879)年東京大学医学部卒。同14年東京大学助教授。同17年裁判医学修学のため渡欧。同21年帰国後、帝国大学医科大学教授。翌22年わが国最初の法医学講座を開設し、同30年から精神医学講座を兼担。東京府巣鴨病院長、海軍軍医学校医学教授等を務める。晩年は禁酒運動に尽力した。著作に『最新法医学講義』(1900年)など。
第1回及び第3回公開実験。
特にコメント等は伝わっていない。
東京帝国大学医学部法医学教室五十三年史編纂会編『東京帝国大学法医学教室五十三年史』東京帝国大学医学部法医学教室,昭和18【60-1809】
政治学者。父は出石藩士。佐久間象山、大木仲益(のち坪井為春)らに入門、蘭学を学ぶ。蕃書調所教授手伝となりドイツ学を研究。明治維新後政府へ出仕、外務大丞等を歴任。明治10(1877)年東京大学法・理・文学部綜理、同14年東京大学綜理。元老院議官、帝国大学総長を歴任し、同23年貴族院議員勅選。同33年男爵。帝国学士院長、枢密顧問官。著書は前期に『真政大意』(1870年)、『国体新論』(1874年)、天賦人権論から社会進化論に転向後の後期に『人権新説』(1882年)。
不参加。
(井上哲次郎の講演「哲學上より見たる進化論」に対する批判の中で)「評者又曰ところが先頃來所謂千里眼なるものが透覺をなしたことに就て諸學者間にも種々の説が出て其中でも井上博士の如きは右は到底哲學若くは宗教的問題であつて自然科學抔で研究の出來るものでないと言はれたやうに聞くのである、若し果して左樣であれば博士の主張される不可思議的なる神秘的なる超自然的なる大意思大心靈若くは靜的實在の領域に入り込んで研究せねばならぬ譯であるけれども余は何分にも、それに服することが出來ぬ、尤も余とても何の考もつかぬのであるけれども右等の頗る罕れなる珍現象は或は所謂(Atavismen)(余は譯字を知らねども再現又は復現と譯してよからん)の類で人間の祖先なる動物時代に於ける視覺の復現したのであるまい乎と臆測するのであるが是れは全く臆測に止まるのであるから決して主張するのではないけれども併し兎に角此の如きことは決して人間界に就てのみ研究すべきものでなくて必ず動物界に迄研究を及ぼさねば到底解らぬことではなからう乎と考へるのであるから序ながら一寸述て置く」(出典:加藤弘之「進化學より見たる哲學」『哲学雑誌』 25(285) 1910.11【Z9-253】 )と述べている。
電子展示会「近代日本人の肖像」加藤弘之
法学者。肥後国(熊本県)出身。熊本藩の儒者の家に生まれ、大学南校、司法省明法寮を経て、フランスに留学。明治12(1879)年パリ大学卒。東京大学教授、第一高等中学校長、文部省専門学務局長を経て、同30年京都帝国大学初代総長となる。貴族院議員。
不参加。
明治42(1909)年8月、病気療養中に千鶴子の治療を受ける。その際、封入した名刺を透視させた。また、会見前に自身の名刺を大坂にいた千鶴子に渡しておいたところ、年齢・容貌や病状について言い当てたため、「兎に角奇と云ふべし」と漏らしている。医科大学の今村教授に千鶴子の研究を勧めた。治療そのものは患部を撫でさする程度のもので、「病気の方は左まで著るしき効験を見るに至らず」と述べており、翌年8月に死去している。
大阪朝日新聞社編『人物画伝』有楽社,明40.7【76-244】
精神医学者、医史学者。江戸出身。明治23(1890)年帝国大学医科大学卒、精神病学教室に入る。同30年渡欧し、クレペリンらに師事。同34年帰国後、東京帝国大学医科大学教授。東京府巣鴨病院長等を務める。樫田五郎との共著『精神病者私宅監置ノ実況及ビ其統計的観察』(1918年)において、座敷牢を容認する精神病者監護法を批判。医史学の分野の著書に『シーボルト先生其生涯及其功業』(1826年)など。
第1回及び第3回公開実験。
「病的なヒステリー性の人抔には精神が亢奮して些細な事までが分る事がある、夫れに千里眼は多少催眠状態に陥つて精神が尋常の塲合を放れる事があつて此塲合瞬間の作用に由つて透視が出来ぬとは限らぬが今日の千里眼はまだまだ充分ではない」(出典:「千里眼の有無」『グラヒック』3(4) 1911.2【雑53-13】)(千鶴子、郁子が実験物や部屋に条件をつけることを批判して)「到底能力の確實を認めることが出来ない。尤も人の脳力は那邊まで發達するか測り知れないもので、千里眼はその脳力の異常に發達したものであると云ふかも知れないが、脳力の発達には順序があり、階梯が有る。今日人間普通の脳力の水準を格段に飛離れて、俄に千里眼の如きものゝ現出する理由は無いのである。丸木舟から一足飛びに幾萬噸〔トン〕の汽船は出来はしない」(出典:呉秀三「丸木舟から一足飛に大汽船は出来ない」『実業少年』5(2) 1911.2【Z32-B247】 )
呉教授莅職二十五年祝賀会編『呉教授莅職二十五年記念文集』呉教授莅職二十五年祝賀会,昭和3【493.7-Ku59ウ】
理科教育指導者。三河国(愛知県)出身。慶應義塾に学び、明治9(1876)年東京師範学校の中学師範科創設に参加。以後、同教授。理化学教育における実験重視を唱え、簡易な実験装置を工夫。熱心なローマ字論者として知られた。
第3回公開実験。
千鶴子が実験物の封に関して、糊付けやこよりのみを許し、封蝋やはんだ付けを認めないことを問題にして、「自分は此封を開いて元の通りにするに要する時間を試して見た。幅一寸五分の日本紙の端に四分の深さにしようふ糊を付け居たに貼つて乾かして紙と板との界に朱肉で認印を押したものを作つて試して見たが唾でぬらして紙をへがすのに四十二秒を要し認印を合せるのに一分半を要し肌にあてて乾かすのに四分を要し合計凡そ六分半の時間を要した」として、「かような封じ方では實驗が實驗とならない千鶴子の能力について斷定を下すに足るほどの實驗とわならない」と懐疑的な見方を示している。(出典:後藤牧太「千里眼婦人の実験について」『東洋學藝雜誌』27(350) 1910.11【雑55-24】)ちなみに、千鶴子が透視の際に手元を見せないこと、透視に数分程度を要すること、透視に成功した実験物が糊封によるものがほとんどであることを考えると、後藤の指摘は、懐疑論の有力な根拠と言える。
三田商業研究会編『慶応義塾出身名流列伝』実業之世界社,明42.6【39-113】
物理学者。明治15(1882)年東京大学理学部卒。英国、ドイツに留学後、同24年帝国大学理科大学教授、理学博士。全国で重力や地磁気を測定し、同32年岩手県水沢に緯度観測所を設立。ほかにも航空学の研究や、メートル法、日本式ローマ字の普及に努める。同39年帝国学士院会員、大正14(1925)年貴族院議員。昭和19(1944)年文化勲章(地球物理学・航空学)受賞。
第1回及び第3回公開実験。
山川と並んで物理学者の中心であった。「話の中心は矢張名物の田中館博士、諸博士の中央に胡坐をかいて胡麻鹽角刈のサンドウイツチ髯を撫しつゝ金縁眼鏡を光らせて右手に陣取つた山川博士と論談中だ「成程見事な成功だ、併しエキザクト、サイエンスと言はれるものは一度では奈何も合點が行かぬ、疑ひはせんさ、併し僕は今一度試らして見たい、骰子を二つ取つて恁〔こ〕うカラカラスポンと伏せたのを當て貰へば夫で満足だ」と言ふと背後で莞爾々々〔にこにこ〕して居た。」(出典:「十四博士の驚嘆」『朝日新聞』(東京)1910.9.18,朝刊,p.5【Z81-1】)なお、この時田中館が述べたサイコロ実験は、後に福来によって実施されている。
電子展示会「近代日本人の肖像」田中館愛橘
物理学者、ローマ字論者。岩手県出身。第一高等学校から東京帝国大学理科大学物理学科卒。京都帝国大学助教授を経て、明治33(1900)年東京帝国大学助教授に就任。同35年から38年までドイツ留学。同40年教授。田中館らと「日本のローマ字社」を設立し、ヘボン式に対抗して日本式綴りを提唱。著作に『ローマ字国字論』(1932年)など。
不参加。
(新聞が千里眼のような不確かなことを報じるのは困ると述べ、)Yōsuruni, kono Koto wa rigakutekino Kenkyū no dekinai Mondai de aru ni kakawarazu, Sinbun ya Sinrigakusya no Huityō no tameni, sore wo sirabenakereba seken-ippanno Hito no Sin’yo ni warui Eikyō wo syōzuru to iu koto ni natte, hanahada komatta Koto ni natta node aru. (要するに、このことは理学的の研究のできない問題であるに関わらず、新聞や心理学者の吹聴のために、それを調べなければ世間一般の人の信用に悪い影響を生ずるということになって、甚だ困ったことになったのである。)(出典:田丸卓郎「Hasigaki」藤教篤・藤原咲平『千里眼実験録』大日本図書,明44.2【327-420】)
田丸卓郎『ローマ字国字論』岩波書店,1932【811.8-Ta656r2】
物理学者。長崎出身。明治20(1887)年帝国大学理科大学物理学科卒。同23年同助教授。同26年からドイツ留学を経て同29年同教授。大正15(1926)年の退官まで多くの物理学者を育てる。同6年の理化学研究所創設に関わり、長岡研究室を主宰して原子物理学に成果を挙げた。昭和6(1931)年大阪帝国大学初代総長。日本学術振興会理事長、帝国学士院長等を務め。文化功労者。同12年に第1回文化勲章を受章。
不参加。
明治43(1910)年4月25日の心理学特別会において、福来の熊本出張実験の報告を聴き、「名刺の文字を讀むは、カーボンより一種の線來りて然るにあらざるか、今村君の携帯せる二重箱中の文字を讀み得ざるは、黒文字を黒天鵞絨〔ビロード〕にて包みありたる結果、文字より來る線が黒布の線と混雑したる爲めにあらざるか、若し果して然りとせば、赤色液にて書きたる文字は讀み能はざるべし」とコメントしている。これを受けて、福来は千鶴子に通信実験を行うが、結果はいずれの文字色の場合も成功であった。(出典:福来『透視と念写』)
岡谷辰治「長岡半太郎博士」人文閣編『近代日本の科学者 第3巻』人文閣,昭和17【769-183】
物理学者。越前国(福井県)出身。明治25(1892)年帝国大学理科大学物理学科卒。同33年同助教授。同36年から39年の独仏留学を経て同44年教授。帝国学士院会員。文化功労者。田中館に協力して地磁気・測地調査を行う。関東大震災時に学生を指導して火災調査を実施。照明、建築音響、古美術保存への物理学の応用を研究。『物理学実験法』(1934年)など。
不参加。
『東洋学芸雑誌』(28(356)、28(357)、28(358)【雑55-24】)上に福来との対談を公表し、藤、藤原の『千里眼実験録』に序文を寄せるなど、千里眼事件について多数発言している。そして、明治44(1911)年3月21日には、東京帝大内で講演後に千里眼手品を実演している。講演においては、賛否両説を俎上に乗せ、千里眼を否定する自説を述べている。「元来透視の出来る理論ありや否や。之に就て世人は催眠術と云ふ。井上博士も催眠術と透視と關係があるらしいと云はれた。然らが催眠術にかゝりし人の前に實見物を置けば如何にして知るを得るであらうかと問ふた。」(出典:中村清二「一理学者の見たる千里眼問題」『開拓者』6(4) 1911.4【Z190.5-Ka1】 、中村清二「千里眼の手品師としての私の体験」『物理学周辺』河出書房,昭和13【46-452】)
中村清二講述・富岡正重改訂編集『レンズ収差論』宗高書房,1957【425.91-N421r-T】
物理学者。大阪府出身。明治41(1908)年東京帝大理科大学講師。大正12(1923)年3月教授に昇任するも同月死去。電気魚(シビレエイ)の研究など。
丸亀出張実験。
丸亀へ出張し、山川、藤原とともに郁子の実験を実施する。念写実験の際に乾板紛失事件を引き起こす。藤原と共著で『千里眼実験録』を刊行。千里眼を最も強硬に否定したため、千里眼の信奉者からは目の敵にされた。「予は丸龜に實驗に行く以前より幾子夫人の念射なるものに疑ひを持つて居つた」「要するに予の調査したる所を以ていへば、夫人の念射なるものは全然疑はしい點ばかりであつて、その遣り方は手品を使つて居ると疑へば疑ふ餘地は沢山ある」(出典:藤教篤「研究の価値を認めず」『実業少年』5(2) 1911.2【Z32-B247】)
気象学者。明治42(1909)年東京帝国大学理科大学理論物理学科卒業後中央気象台に入る。大正9(1920)年音響の異常伝播の研究で帝国学士院賞を受賞。同年から欧州留学。同13年東京帝大教授を兼任。昭和16(1941)年中央気象台長に就任し、戦時下の気象事業を総括した。渦動研究に業績。啓蒙にも従事し「お天気博士」として知られた。
丸亀出張実験。
藤と共著で『千里眼実験録』を刊行。後年、千里眼実験について語ることは少なかったが、気象台の後輩で初代気象庁長官を務めた和達清夫に一夜語ったことがあるという。(出典:和達清夫「念写婦人―丸亀千里眼実験顛末―」『心』26(3) 1973.3【Z23-48】)
岡田武松「藤原咲平博士」『科学』20(12) 1950.12, 【Z14-72】
心理学者。上野国(群馬県)出身。東京帝国大学卒。大学院に進み、元良勇次郎の指導を受ける。米国イェール大学留学後、ドイツに転じヴントに学ぶ。帰国後、東京帝大講師として元良による心理学実験場の開設に尽力。明治38(1905)年京都帝大教授。大正2(1913)年、元良の急逝に伴い東京帝大教授に転じる。日本心理学会初代会長。多方面にわたる心理学の応用に努める。
不参加。
松本は、「京大光線」の命名者・三浦恒助の指導教官であり、三浦の実験に当たり指導・助言を行ったと思われる。ただ、実験結果には懐疑的であることがうかがわれ、「いく子の方は京都文科大学の三浦君が實驗して居るが同氏は千里眼に就て非常に趣味を持つて居る人で態々〔わざわざ〕研究の爲め理工科大学の人とも相談して諸種の材料を携へて丸亀に赴いた、實驗の結果はまだ判明して居らぬ」「京大光線ですかアレはまだ京大光線と命名した譯でも何でもない唯三浦君が坐談に先づ京大光線とでも名ければ宜いと云ふたのが端なくも傳へられたのだと同君の書面にも認めてあつた」「兎に角寫眞感光は不思議の現象であるが、私は實驗する暗室が完全のものであるか否かを疑ふ」(出典:「松本博士の意見」『朝日新聞』(東京)1911.1.6,朝刊,p.3)などと述べている。松本は元良の死を受けて東京帝大教授に転じ、助教授であった福来は東京帝大を休職(事実上の分限免職)させられている。福来の伝記によると、順当にいけば助教授の福来が元良を継いで教授に昇任するものと見られていたようである。
田中寛一・城戸幡太郎 [共]編『心理学新研究』岩波書店,昭和18【140.4-Ta84ウ】
京都帝国大学文科大学学生。松本亦太郎のもとで心理学を専攻。丸亀に赴き郁子の実験を行った。本籍は愛知県とあるが、丸亀出身との報道もあり。明治44(1911)年7月、文科大学を卒業。大正5(1916)年11月には医科大学を卒業している。その後の経歴は不詳。
丸亀出張実験。その他、各地の千里眼を実験したようである。
三浦は、医科大学や理工科大学の博士たちの助言も得つつ実験を行った。その結果を報告した論文において、理学実験を避けようとする福来を批判している。「文學博士大学助教授福來友吉氏の如きは無限のメンタルポスピリテーが縁に觸れて活躍するのであるとか根本識即識元の状態に復るのであるとか或は心眼だとか六大神通の一だとか乃至潜在的精神無我一念の状態に依るのであるとか説明を輿へて居られる。こんな説明なら甚だ容易である。けれどもこんな獨斷的な假定的な神秘的なことを云つた處で宗教か藝術ならそれも好からうが學問としてはあまり益がない。」(出典:三浦恒助「透視の実験的研究」『芸文』2(1) 1911.1【雑8-54】)また、透視を未知の光線の作用によるものと考え、これを「京大光線」として発表したが、後に「短時日とはいへ自分は一旦之れを事實として信じ輕々して新聞記者などに話したと云ふことは甚迂愚輕卒なる譏を免れぬ」とし、透視についても否定に転じている。(出典:三浦恒助「余が実験したる所謂千里眼」『芸文』2(4) 1911.4【雑8-54】)
医学者。江戸出身。文久3(1863)年幕府の遣欧使節に随行。明治3(1870)年から大学東校(のちの東京大学医学部)で教え、東京大学医学部長を経て、同19年帝国大学医科大学長。医学教育と医療制度の確立に尽力。わが国最初の医学博士となる。貴族院議員等を務める。
第1回及び第3回公開実験。
第3回公開実験には、長男で精神科医・医科大学教授の鉱一とともに参加した。特にコメント等は伝わっていない。
三宅秀『衛生長寿法』富山房,昭和4【61-377】
心理学者。播磨国(兵庫県)出身。同志社英学校で学んだ後、東京に転じ青山学院の創設に尽力。明治16(1883)年渡米し、ボストン大学、ジョンズ・ホプキンス大学に学ぶ。同21年帰国後は、帝国大学文科大学講師として精神物理学を講じた。同23年教授。わが国最初の心理学者として実験心理学研究の確立に努める。学説は、遺稿集『心理学概論』(1915年)にまとめられる。
第3回公開実験。
大学院における指導教官として、福来に変態心理学の研究を勧める。「元来西洋にては此種の問題に對し何處迄も緻密なる科學の力によりて解釋を試みんと努力する傾向あるに反し由來東洋にては超然的に唯だ不思議として之れを押し片付けんとする風あり即ち印度、支那、日本の全體に亘りて神通力とか天眼通とか不可思議力とか稱する信仰が古くより發達し居りて之が各種の事物に對しての精密なる研究を阻害せし趣きあり」「此の千里眼女清原千鶴子なるものが果して何れほど心理学研究に有力なる目的物となるかゞ疑問である」「私は千里眼女の如き心理學界に珍しからぬものを研究の目的としないで他の確實な方面から研究して見る考です」との談話。(出典:「透視の實驗と諸博士」『心の友』6(10) 1910.10【雑5-21イ】)なお、福来『透視と念写』の緒言には、「發表の遅延したる理由」として、他の学者の前で実験結果を再現できなかったこと、能力者が死んでしまったことと並べて、「余が義理合上、其の忠告に反くことの出來ざる或る人が發表を見合はせたが宜からうと言つて切に余に説いたこと」を挙げているが、これは前年に死去した元良を指すものと考えられる。
元良勇次郎『心理学概論』丁未出版社[ほか],大正4【356-126】
物理学者。父は会津藩士であり、山川自身も白虎隊士であった。明治4(1871)年イェール大学シェフィールド理学校に留学。帰国後、東京開成学校教授補を経て、同12年東京大学初の日本人理学部教授に就任。X線発生の追試実験を行うなど、物理学専門教育の草創期を支えた。同21年日本初の理学博士となり、同34年東京学士院会員。同年東京帝大総長に就任するも、同38年七博士建白事件の解決措置をめぐり辞任。以後、九州帝大総長を経て、大正2(1913)年再び東京帝大総長に就任、同3年から10カ月間は京都帝大総長も兼任し、教育行政に尽力した。明治38(1905)年貴族院議員。大正12(1923)年枢密顧問官。
第1回及び第3回公開実験、丸亀出張実験。
物理学界の大御所として、千里眼の解明に乗り出す。自ら実験物を用意して公開実験に臨んだほか、郁子の実験に当たっては、自ら丸亀に赴き、藤、藤原の協力を得て念写実験をおこなった。山川の不可思議な精神作用や透視への関心は、若年の頃に遡るものであったようで、米国留学中にも透視実験に立ち会ったことがあったようである(出典:花見朔巳編『男爵山川先生伝』故男爵山川先生記念会,昭和14【289-Y27ウ】)。千里眼研究のあり方について、①事実の有無と②(事実である場合は)現象の性質との2段構えで研究すべきであるとし、「右第二段の研究には物理學者よりは或は生理學者、心理學者、哲學者等が適任かと被存候場合も可有之候へ共第一段事實の有無を判定するは心理學者の壟斷して研究すべきものに無之寧ろ物理學者が最も適當なるかと拙生は確信罷在候」(出典:藤・藤原『千里眼実験録』所収の書簡)と述べている。
電子展示会「近代日本人の肖像」山川健次郎
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参考文献