第2章 東京招致を目指して

世界の選手とのレベル差や資金の獲得に苦労しながらも、オリンピックへの参加回数を重ねるごとに、メダルの獲得数や参加選手数を伸ばしていった日本。この伸びにともない、徐々に国内でのオリンピックに対する関心も高まっていきました。
そのような状況の中、第12回大会が行われる昭和15(1940)年が、日本にとってある節目の年だったことをきっかけに、東京はアジアで初めてのオリンピック開催を目指し、招致活動を進めていくことになります。

永田秀次郎の思い

昭和4(1929)年、国際陸上競技連盟会長ジークフリード・エドストレームが来日し、日本学生競技連盟会長の山本忠興と会見を行いました。ここで2人は、昭和15(1940)年に開催される第12回オリンピック大会を東京に招致する可能性についても意見を交わします。

梅白し : 青嵐随筆
永田秀次郎

2人の意見交換を聞き、東京へのオリンピック招致の意向を初めて示したのは、翌年東京市長に就任した永田秀次郎でした。昭和5(1930)年6月、国際学生陸上競技選手権大会の日本選手団総監督としてドイツに出発する山本に対し、第12回大会の招致のため欧州スポーツ界の調査を依頼します。
なぜ、永田は東京にオリンピックを招致しようと思ったのか? それは、エドストレームと山本のやり取りの中で、東京招致の可能性が低くないことが分かったからという理由だけではありませんでした。昭和15(1940)年は、神武天皇の即位から2600年目(皇紀2600年)に当たるとされ、記念行事が盛大に行われる予定でした。オリンピックをその1つとして組み込めないか……永田は、そう考えたのです。

4) 『肇国の由来とオリムピックの概要』紀元二千六百年帝都観光会,昭和13【特241-127】

肇国の由来とオリムピックの概要

「肇国(ちょうこく)」とは、新しく国家を建てることを意味します。皇紀2600年記念事業の宣伝を目的に書かれた本書では、オリンピックの起源や意義についても触れられています。
この中で「五輪のマーク」は、「五といふ數は即ち歐洲、アフリカ、アジヤ、濠州及びアメリカの五大陸を示すもの」、「從来五輪のマークの兩端即ち歐洲とアメリカのみで行はれたオリムピツクを、始めて中央の輪たるアジヤに招致し、人類愛の權化たるオリムピツクの聖火が全地球に遍く端緒をなす東京大會をして、日本の民族獨自の方法に於て完成せしめることは、我等日本人の最大の責務」であると述べ、東京でオリンピックを開催する意義を説いています。

昭和7(1932)年7月、嘉納治五郎岸清一の両IOC委員により、東京招致の正式招請状が、ロサンゼルスで開催された第30次IOC総会に提出されました。この時点で第12回大会の招致に名乗りをあげていたのは、ヨーロッパや南北アメリカ大陸の全9都市。そこに東京を加えた10都市により、招致合戦が展開されていきました。
ここからは、熾烈な招致レースに立ち向かった日本のIOC委員たちの活動を見て行きましょう。

岸清一の見通し

岸清一訴訟記録集
岸清一

大正13(1924)年から、昭和8(1933)年に亡くなるまでIOC委員を務めた岸清一は、日本スポーツ界の発展に尽くした人物として知られています。本業は弁護士でしたが、帝国大学在学中からボート選手として活躍し、日本漕艇協会の初代会長に就任したほか、嘉納治五郎によって設立された大日本体育協会の第2代会長も務めています。また、大日本蹴球協会の国際サッカー連盟(FIFA)加入にも尽力するなど、スポーツの振興に関するさまざまな活動に携わっていました。

5) 岸清一述『第十回国際オリムピツク大会に就て』大日本体育協会,昭和7【特234-682】

第十回国際オリムピツク大会に就て
『第十回国際オリムピツク大会に就て』序文

多くの役職を兼任しながらIOC委員を務めていた岸は、昭和7(1932)年9月29日、大日本体育協会会長として天皇に招かれ、第10回ロサンゼルス大会に関する御進講を行いました。本書は、その内容をまとめたものです。
この中で岸は、第12回大会の招致について「厳しい状況」であるとの認識を示しました。その理由として、各種競技場をほとんど完成させ、熱心な招致活動を展開しているローマの存在を挙げています。
地理的・気候的な条件において劣勢であった日本は、それを挽回すべく「オリンピック開催地は欧米に限らずアジアでも開催すべき」との主張を掲げ、岸や嘉納が招致活動に奔走しました。この活動により、徐々に東京招致に賛成する有力者も増えてきたものの、未だ楽観を許さない状況であると説明されています。
また、ドイツにおいてオリンピック不要論を唱えるナチスが政権を握った場合には、ベルリンでの開催が予定されている第11回大会をローマに引き受けさせるという黙約が存在するらしいという情報を引き合いに出し、以下のような懸念を表明しています。
「此場合には日本が今日の勢を以て努力を惜まざれば案外樂々と第十二回の大會が東京に轉げ込むかも分りませぬ。併し之れ丈けの協定が兩者の間に存在して居ることに留意すれば、ローマを破りて東京に第十二回の大會を持ち来ることは獨逸の政變なき限りは非常に困難なりと存じます。」

その後、ドイツでは1933年にナチスが政権の座につきますが、ヒトラーはオリンピックを利用してドイツの優秀性を世界に広めるという考えに転じて、ベルリンでのオリンピック開催を受け入れました。この結果、第11回大会は予定通りベルリンで行われ、第12回大会の開催都市を争う招致レースから、ローマが消えることはありませんでした。

嘉納治五郎の招致活動

嘉納治五郎も、東京招致のため奔走しました。彼は、総会への出席・演説といった公式の活動だけでなく、IOC委員を招いた食事会への出席など、非公式な場でのロビー活動も数多く行いました。特に、非公式な宴席では「近代オリンピックは、それまでギリシャ人だけに参加が限られていたオリンピックを、広く世界の人々が参加できるようにするために始められたのだから、欧米だけのオリンピックであってはならない」「欧米以外の国では、日本ほど熱心にオリンピックに参加している国はない」と説明し、東京にオリンピックを招致する意義について力説しました。

6) 昭和8(1933)年6月12日付け永田秀次郎宛嘉納治五郎書簡【永田秀次郎・亮一関係文書201-2】

嘉納治五郎書簡 永田秀次郎宛
封筒や便箋には五輪マークが入っている

杉村陽太郎の追憶
杉村陽太郎

この手紙は、ウィーンで開かれたIOC総会に出席した嘉納が、昭和8(1933)年の6月に現地から永田東京市長に送ったものです。
IOC委員全員とウィーン名門家の公爵・伯爵等を招いて催した晩餐会が好評で、日本に好意を感じてくれる人が増えたと記されています。また、「今日では伊太利の競争よりは時日と費用が勝るといふ問題の方が心配になるまでに相成候」という記述からは、非公式な場で行ってきたロビー活動の結果に対する嘉納の自信が感じられます。
そのほか、日本のIOC委員を3人に増員することについてIOC会長に難色を示されたが、以前から懇意にしていた元トルコ大使や国際陸上競技連盟会長(前述のエドストレーム)が味方をしてくれたため、外交官の杉村陽太郎 関連電子展示会ボタン を第三委員にすることができた、との記述もあります。これは、東京への招致を後押ししてくれる有力者と嘉納の結びつきを示すエピソードとも言えるでしょう。

<翻刻(句読点は適宜補った)>
拝啓、東京出立の際は
態々(わざわざ)御見送り被下忝(くだされかたじけなく)
奉存(ぞんじたてまつり)候。去る三日維納(ウィーン)に着、
七日より三日間会合後
二日引続の寄合等にて
費し、昨十一日にてオリンピック
に関する仕事丈は終り候。
日本に招待の件、会長
の注意で三十五年の委
員会までは正式の会議
には持出さぬ事にいたし、
裏面の運動に止め候が、
有力なる委員を大分動
かす事出来、今日では伊太
利の競争よりは時日と
費用が勝るといふ問題の方が
心配になるまでに相成(あいなり)候。去る九日
国際委員全体と当地の名
門リーヒテンスタイン公爵夫妻・
キーンスキ公爵夫妻其他公爵伯爵等
有力者七十余人を晩餐会に招待致候
処、近来稀に見る盛会であったと
噂される程人気を得、日本に好意を
寄せ親みを感する人加はり、好都合にて候。
此度は日本の国際委員を三人にする
事を持出し候処、最初は会長に於て
日本に夫(そ)れ丈の待遇を与へてよいかといふ
辺に幾らか懸念ありし模様にて
候処、兼て懇親にして居候セリル
将軍(この間までトルコ大使)味方を
して呉(く)れ、又瑞典(スウェーデン)のエドストロム氏元
来の日本の味方、夫等の人の尽力で
会議の承認を得、引続き杉村陽太郎氏
を其第三委員に推薦いたし候処、満
場一致で可決いたし候。委員を三人に
して置く事は三十五年の会議の時、
日本に有利と存候。右大略御報申上候。
          草々不宣
  六月十二日  嘉納治五郎

副島道正とムッソリーニの密約

貴族院要覽. 昭和15年12月増訂 丙
副島道正

味方は増えていると言っても、ローマの存在はやはり大きな不安材料でした。東京招致を確実にするためには、ローマに辞退してもらうことが必要になる……。この難題に取り組んだのが、伯爵で実業家、貴族院議員の経験もある副島道正でした。彼は、岸の後任としてIOC委員に就任し、ローマと交渉することになります。
昭和9(1934)年、譲歩を依頼するためにローマを訪れた副島は、当時イタリアの首相であったムッソリーニとの会見直前、急病に倒れてしまいます。しかし、彼は病を押してムッソリーニと会見し、日本が皇紀2600年を迎える記念すべき年に東京でオリンピックを開催したいこと、そのためにローマに譲歩してほしいことを伝えます。「皇紀2600年記念」という特殊な事情と副島の熱意に動かされたムッソリーニは、その場で申出を快諾し、招致を辞退すると返答しました。
ところが、ムッソリーニから譲歩の約束を取りつけて安堵したのも束の間、翌年にオスロで行われたIOC総会で、衝撃的な出来事が起こりました。イタリアの体育協会がローマの辞退を認めず、あくまでも招致活動を続けるとの態度をとったのです。
この事態に対し、副島はムッソリーニにローマでの約束について確認、改めて譲歩してもらえるよう懇願します。副島の要請に応え、ムッソリーニはオスロに滞在中のイタリアIOC委員に無条件での譲歩を命じました。そして、IOC総会の場で「日本が1940年の大会を東京で開くことを熱望しているので、イタリアはこの大会のローマ開催を断念する」とイタリア代表が発言し、この問題は決着しました。
しかし、突然のローマ辞退により、オスロでの総会は混乱に陥りました。辞退を表明してもなおローマを支持する声もあり、その場での決定は困難だという理由で、第12回大会の開催都市決定は昭和11(1936)年にベルリンで行われる総会まで持ち越されることになりました。

IOC会長の来日視察

開催地決定が延期されたもう一つの理由として、この時のIOC会長のバイエ・ラツールが、東京での開催に反対していたことがあります。その理由は、日本がIOCに断りなく、直接ローマに辞退を働きかけたことでした。
オスロ総会から2か月が経った昭和10(1935)年4月、副島のもとに、ラツールから手紙が届きます。『第十二回オリンピック東京大会組織委員会報告書』【779-51】に収録された副島の回想によると、「日本がIOCの幹部に相談なくローマに辞退を直談判したことはスポーツの精神に違反することだが、今後日本がIOCの憲章と精神を遵守するならば、自分は副島のために努力する」といった内容で、オリンピック精神の尊重を条件に東京開催を認める考えを示したものでした。
一方、オスロ総会での開催地決定延期を受け、東京市ではIOC内にさらに味方を増やすことが重要だという意見が高まっていました。このため、IOCの有力者を東京に招く計画が立てられ、ラツールに東京視察を依頼することになりました。これを受け、ラツールは昭和11(1936)年3月に来日することになったのです。
ラツール来日にあたり、招致委員会は接待委員を設け、東京市長をはじめ、多数のスポーツ関係者も歓迎に向かいました。それに加えて、ラツールを乗せた船が横浜に入港する際には、多くの一般市民も出迎えました。『第十二回オリンピック東京大会東京市報告書』【785-25】に収録されているラツールの日本観察談には、この歓迎を受けたラツールが、「私が横浜に入港した時小学校の児童がオリンピック旗を振って歓迎してくれた。この一事は全日本国民のオリンピック並びにスポーツに対する深い理解を示すものでその点私は十分満足だ」と記されています。
各種の施設見学や招宴など、多忙なスケジュールで2週間の日本滞在を終えたラツールは、上機嫌で出国しました。

第十二回オリンピック東京大会東京市報告書
東京を出発するラツールと握手する牛塚虎太郎東京市長
(牛塚の右に映っているのが嘉納)

開催地決定の瞬間

嘉納、副島をはじめとするIOC委員の尽力や、東京市、日本政府の活動もあって徐々に東京招致の可能性が高まる中、昭和11(1936)年7月31日、開催都市を決定するIOC総会がベルリンで開かれました。
この時点での開催地候補は、東京とヘルシンキの2都市。緊張が高まる中、ベルリンの現地時間で午後3時から、オリンピック開催都市を決める会議が始まりました。運命を決する投票は、会場であったベルリンの高級ホテル・アドロンの「鏡の間」と呼ばれる部屋で、完全非公開で行われました。
開催都市が決まったのは、午後6時45分。鏡の間の扉を開け、委員の一人が出てきました。階段を降りながら、その委員が発した第一声は「東京」。その瞬間、東京の招致委員からは大きな歓声が沸き起こりました。

7) 「東京オリンピック!正式決定」『朝日新聞』(東京)1936年8月1日,朝刊, 2面【Z81-1】

朝日新聞

この記事は、開催地決定から一夜明けた8月1日の朝刊に掲載されたものです。最初に、日本がヘルシンキに36票対27票で勝利したことを、大きく報じています。
その次に、7月31日のIOC総会における嘉納や副島、東京招致委員会のメンバーの様子、IOC総会の雰囲気などを詳細に伝えています。特に、「嘉納代表は例により頗すこぶる楽観的」「副島代表は前日フィンランドのやつた宣伝の効果如何にと聊いささか気にかけている」といった描写からは、二人の性格がうかがえます。
また、この記事で大きな紙面が割かれているものに、関係者の反応があります。開催決定の電報を受けて、ビールだ乾杯だと沸き立つ東京市役所関係者の様子、牛塚東京市長の喜びの声、日本が世界から正しく理解された結果だとする広田弘毅首相の談話……その他、最初に東京招致を提案した永田前東京市長の言葉も、満面の笑みの写真とともに掲載されています。

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第3章 戦争と大会返上



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