当時の人々は靴についてどのように考え、受容していったのでしょうか。草鞋や下駄、あるいは裸足で生活していた時代から靴に履き替えたわけですから、靴を履くことに困惑したり、合わせようと努力したりと、履く側にも多くのエピソードがあったことでしょう。
洋靴の文化は、屋外の履物は脱いで屋内に入る、というそれまでの習慣に対立するものでした。『明治事物起原』(石井研堂著 下巻第十一編農工部「靴製造の始」(明治文化全集.別巻 日本評論社, 1993.1【GB415-G11】春陽堂昭和19年刊の複製)p.953上)には、「当時、生意気の小官吏など、泥靴のまゝ畳の上に上りし苦情は、屡(しばしば)耳にせし所なり」と記されています。
文明開化.初編 / 加藤祐一著 大阪 : 柳原喜兵衛, 明治6(1873).9【特38-643】
「沓はいたまゝで座敷へ上りをつた、こりやちと迷惑な文明じや、おまけにつれて来た犬も上りをつた」という記述がみられます。→該当箇所
本書は、衣食住や迷信などについて、文明開化の時代にふさわしい人としてどのように対処するべきかが説かれています。講演調になっており、一般国民の教化を目的として明治5(1872)年に教部省におかれた教導職(多くは神官や僧侶、学者が任命されました)の種本であったろうと推測されています(→『明治文化全集.第21巻、別巻』 / 明治文化研究会編 東京 : 日本評論社, 1993.1【GB415-G11】 p.2)。
「沓(くつ)はかならずはくべき道理」の項には、靴は高貴な人が履くもので下々は履いてはいけないという遠慮は無用であり、礼儀として履くべきものであること、草鞋ではいちいち足を洗わなければ座敷には上がれない不便さが説かれています。→該当箇所
この項は、「下駄足駄は速に廃して、沓を用ふる様に致したいもので厶(ござ)る。近頃はだか肩ぬぎ禁制の御布告が出て、下賤のものゝ肌を露はさぬ様に成たは、誠に有難い事で、日本も開化国の中に算へられて、他国の人に、一事も笑はるゝ様な事はない様になるで厶らう。」と締め括られています。→該当箇所
靴を用いるべきという主張に、はだか肩ぬぎ禁制の布告の話が出てくるのには多少の違和感がありますが、西洋文化との出会いは、服をきちんと着て肌を見せず、靴を履くのが文明、裸や裸足は未開、野蛮といった二項対立的な捉え方との出会いでもありました。明治34(1901)年5月、警視庁から「ペスト予防の為め東京市内に於ては住屋内を除く外跣足(はだし)にて歩行することを禁ず。」という跣足禁止令が出されます。表面上は衛生的ではないというのが主な理由ですが、未開の蛮風たる裸足をなくすことで首都の体面を重んじるという動機が陰では働いていたということです(開国百年記念文化事業会編『明治文化史. 第13巻』1979.4【GB451-10】p.33)。
日本開化詩 / 平山果 宮内寛一編 明治9(1876) (明治文化全集.第21巻 / 明治文化研究会編 東京 : 日本評論社, 1993.1 【GB415-G11】)
「革靴」という題で5編の詩が掲載されています。「其二」では「雨ヲ履晴ヲ履又堂ヲ履 (中略) 一靴踏遍シ開化場」(p.471)とあり、雨でも晴れでも建物でも履けて、靴ひとつで開化場をどこまでも歩いていくことができる、といった意味になるでしょうか。洋靴には、履いたまま建物の中に入れるという特権的な位置付けがあったと言えるでしょう。靴が輝かしさを帯びて見えてくるようです。
寄書(よせぶみ)(読売新聞 明治9(1876).5.26 【YB-41】)
西洋人ならともかく日本人でも泥靴を履いたまま畳の上にあがることに対する苦情の投書です。さらに、よく「靴の外昇降を禁ず」と札が出ているが、靴を履いていない者が多いのだから困る、上靴を置いておけ、という提案もなされています。
高襟(ハイカラ)先生(読売新聞 明治35(1902).2.25 4面 【YB-41】)
この記事では、靴を履いた人が悠々と建物の中に入っていくのに対し、下駄や雪駄であったために建物に入る前に履物を脱がねばならなかった人たちが、出る時には履物が紛失する憂き目にあっている様子が紹介されています。
靴の外昇降を禁ずるという官公庁での決まりは、明治23年には次々と廃止されたことを第1章でご紹介しましたが、この記事からは明治35年でも依然として靴以外での昇降を禁じていた会社もあったことがうかがえます。
洋靴を実際に履いてみたところ、窮屈だったり、靴ずれが出来たりと、なかなか良いことばかりではありませんでした。第1章で紹介した岩倉使節団の一員である佐佐木高行の日記にも、「沓モ、日本人ハ大キクテ甚ダ見苦敷トテ、一同小サキヲ買求メタリ、窮屈ニテ足痛ミ難儀ナリ、文明開化モ随分困難ノコトナリト、人々ト談笑致シタリ」(佐佐木高行著『保古飛呂比 : 佐佐木高行日記.5』1974.【GK125-3】pp.251-252)という記述があります。
鹿鳴館貴婦人考 / 近藤富枝著 東京 : 講談社, 1980.10【EF72-239】
初の女性海外渡航者の話から、鹿鳴館解体までが書かれた資料です。明治政府の高官に嫁いだ女性たちの人生や風俗がうかがえます。
鹿鳴館設立の立役者でもある井上馨の妻、武子が、ロンドン滞在中に靴を履いたことが書かれています。武子は西洋の服や化粧品、宝石などを積極的に取り入れていたようですが、踵の高い靴を履いたところ、足が腫れあがり水疱がいくつもできてしまったようです。それにより洋装もしばらく休む羽目になったのですが、「大体武子は辛抱強い方」だったためか、そのうちに慣れてしまいました。慣れない洋靴に苦労しながらも、たくましく履きこなしていった様子が伝わってきます。
「はきこゝろ よきかあしきか ごむぐつの またふみもみす 天のはし立」
小倉百人一首を明治の文明開化にあてはめてもじったものです。毎首上の句だけ文明開化の流行語をとりいれ、下の句は原歌そのままにしてあります。原歌は小式部内侍の「大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみも見ず 天橋立」。
とても哀しそうな表情で靴を履いているのが印象的です。靴を履くことが快適とは言い難いものだったことを反映しているのかもしれません。
座敷即席一口噺し / 伊藤竹次郎編 浜松 : 伊藤竹次郎, 明治18(1885).5 【特60-42】
かわいらしいイラストとともに、ユーモアのあるコメントが載せられています。描かれているのは豆腐屋、酒、月のうさぎ、傘など。靴では、「洋服はいいが 足がつまつてならない きう靴」。窮屈のくつを靴とかけています。
門 / 夏目漱石著 東京 : 春陽堂, 明治44 (1911) 【KH426-15】
主人公で役人の宗助が、底が破れてしまった靴→該当箇所 を我慢しながら履いている様子が描かれています。一足しかなかったため、雨の日にも穴のあいた靴を履かなければならず、中が濡れてしまいます。→該当箇所
親の形見の屏風を売って、そのお金を使って靴を買おうと考えるエピソードまであり、→該当箇所 新しい靴を一足買うのも大変だった様子がうかがえます。
靴の常識(一) / 安江雅勝(被服 第2巻第1号 昭和6(1931).1.1 pp.171-174【YA5-1218】)
靴についての知識を会話形式でわかりやすくまとめてあります。
回答者によると、明治の初年には「左右を反対に穿いたり靴紐で足を結んだり靴の上から草履を穿いたり」する例があり、さらに、「未だ日本では靴の選び方が十分徹底せぬので喜劇が随所にたくさん」あったようです。
「私共が下駄を穿て居る習慣から靴を穿くと、窮屈で長途を歩くと必ず豆ができますが、靴はさういうものですか。」
「子供が学校で遠足があるので少し大きな靴を買ふてやりました所が帰りに子供が踵を血だらけにして靴を手に提げて来ました。そのわけを尋ねると歩く度毎にガバガバと靴の踵に触はり、傷くて辛棒が出来ず泣く泣く先生に草履を買つてもらひ帰りましたと怨めしさうに話しましたが、靴と云ふものは馬鹿馬鹿しいものですね。之には何か方法があるのですか。」といった質問が載せられており、靴の履き方が解説されています。
八眞登靴 特許第10号 特許権者 山口太左衛門 明治18.8.26特許
慣れない靴をなんとか日本人に合う形に改良しようと様々な試みがなされました。資料はその例の一つです。明治18(1885)年に特許出願された靴で「やまとぐつ」と読みます。おそらく日本で最初の靴に関する特許と思われます。外側から見るとヒールがあり、ミュールのように見えますが、じつは中に鼻緒が隠されています。昔ながらの履物と洋靴の良いところをとりいれようという工夫が見られます。
陸海軍聯合大演習記事(附図) (本文)〔東京〕 : 参謀本部, 明23(1890).12.【28-27】
明治23(1890)年3月から4月にかけて愛知県で実施された陸海軍合同大演習の資料。靴傷(靴ずれ)を起こした兵士の数が記載されています。→該当箇所 靴ずれのために、草鞋に履き替えることを許可された兵士もいたようです。→該当箇所
歩兵之行軍教育/ 上田頼三著 東京 : 軍需商会, 明44(1911).5【特65-344】
足の保護は第一に靴の良しあしであり、大きさのあった靴をはき普段から手入れや修理を行うべきとしています。さらに、自己の不注意で靴ずれをおこしてしまうのは不名誉なことであると書かれています。→該当箇所
シベリア出征日記 / 松尾勝造著 ; 高橋治解説 名古屋 : 風媒社, 1978.2【GB471-10】
ロシア革命後の1918年、日本はアメリカなどとともにシベリアに出兵しました。この資料は、出征した一兵士の日記です。8月21日の日記には「医務室で靴ずれの足を出せば、赤い薬を一刷毛塗ってそれで終り。まことに頼りないこと。これで明日は歩けるだらうかと思った。来てゐる患者が多くは靴豆、靴ずれ。」と、軍靴を履いた行軍による靴ずれに悩む様子が記されています。
陸軍史談 / 金子空軒著 東京 : 陸軍画報社, 昭和18(1943)【396.21-Ka53ウ】
陸軍に伝わるエピソードをまとめた本です。「靴と兵隊」の項があり、10の話が紹介されています。
「(九)弾雨の間ボロ靴を拾ふ」によると、日露戦争中に、斥候兵が弾雨の中を前方に出ていき、他の兵隊が捨てた軍靴をさげて戻ってきました。その理由として、「日本兵がこんなボロ靴を穿くほど困ってゐるのかと敵に思われるのが残念だからだ」と答えたといいます。
雑報(朝野新聞 明治15(1882).8.15 2面【YB-134】)
乃木希典は、夜中でもすぐに履けるよう、左右同じ形の靴を履いていたと言われています。
「乃木歩兵大佐の多年工夫を凝らして此頃漸く発明されたる一種の靴は、左右の別なく之を穿ちて極めて快適を覚え、すでに二三の士官は親ら之を試みられ従来の靴に対してはるかに便利なることを証されしかば、来月より同大佐の部下即ち東京鎮台歩兵第一連隊へは一般にこれを用ひしめらるることに決定されたりとぞ。」という記事が載っています。
また、明治19(1886)年には、軍靴の左右同じ形のものを納入したことがあったが、革が硬いため靴ずれを受けるものがあって中止したという出来事もありました。(→『靴産業百年史』 東京 : 日本靴連盟, 1971【DL731-11】 p.47-48)
今の感覚からすると、左右同じ形の靴を履くなんて考えられない事だと思う方もいるかもしれません。しかし西洋では、19世紀中ごろまで、靴の左右の区別がなかった時期がありました。幕末に日本に靴が紹介される少し前まで、左右同じ形の靴が履かれていたのです。(→靴のラビリンス1992,【G185-E34】p.24)
ここでは、都市での靴の流行について書かれた本や雑誌、靴をテーマにした川柳など、流行として靴をとりあげた資料を紹介します。
明治時代から、すでに靴の流行といえるものは存在していたようです。しかし、すぐに洋靴が下駄や草履にとってかわったわけではありません。洋靴が日常生活に 欠かせないものになるためには、もう少し時間を必要としました。(画像は東京靴同業組合編『靴の発達と東京靴同業組合史』昭和8(1933)【641-47】より
洋服や帽子、下駄、靴などの流行が挙げられています。
靴は深ゴム入(画像では最右列の下から2番目)で、フランス製の油皮、つま先が丸く飾りが付いているものが流行していると書かれています。また、全体の好みとして踵とつま先が細いのがよいとされ、つま先の痛みを我慢して履いていた人もいたようです。
なお、深ゴムとは足のくるぶし丈までのブーツのことです。日本に靴が導入されたばかりの時期に紳士靴として履かれました。はき口の前後につまみがついており、両側に幅の広いゴムテープがまちのように縫いこまれてその伸縮性によって着脱と足へのフィットを良くしています。1966年にビートルズが来日した時にはいていたチェルシーブーツと呼ばれる靴も深ゴムと同じ形で、当時の若者たちの間でブームになりました。(→『はきごこち : 暮らしのなかの靴』 / 大塚斌著 東京 : 築地書館, 1991.12【DL731-E99】 p.22-23)
和服に靴(貴女之友 明治21(1888).8 pp.1-3.【Z79-B346】)
和服に靴という着こなしも見られたようです。
「夫人がよのつねの和服に靴を穿いて行くことは、未だ流行といふほどにもあらねど、近頃東京の市中にては往々見掛くる風俗なり」。この記事では、靴の便利さは認めつつも、「靴は西洋服とともに進化したるものゆゑ、和服に釣り合ふ筈は無きなり」と、装飾面から女性が和服に靴を履くことを批判的に記述しています。
明治30年代前半の刊行です。深ゴム入りの靴が多く用いられていたようで、「(深ゴムは)足にくっつきの良きのと、靴たびの痛まざるのがその賞用せらるる所以なるべし。」また、「近来赤革製のもの最も流行せり。ズック製も足に軽しとて夏向きなど殊に賞用せらる。」と記載されています。この資料では子供の靴のイラストも載せられています。(画像左下)→該当箇所
川柳(風俗画報 第397号 明治42(1909).6.5 pp.44-45.【雑23-8】)
靴に関する川柳が載っています。
靴音も流石優しい女学校
靴はかぬ日は内職に草鞋結ひ
小便中止こつこつと靴の音
靴音が裏に廻って一大事
なお、『川柳明治世相史』(山本成之助著 1983.7【KG351-35】p.49)では「靴音を聞いてポンプの水を止め」の注として、靴音は巡査の靴音、ポンプの水は小便、と書かれています。
「巡査の靴」(風俗画報 第471号 大正4.7.5 【雑23-8】p.12)によると、「これ迄巡査の靴には大概底に發明釘が打ちつけてあったものが昨年ごろからずっとハイカラになって踵にゴムをつける様になった」とのこと。釘が打ちつけてあった為に靴音が響いたのでしょうか。
靴音が響くのは問題もあったようで、少し時代は戻りますが、「大阪にては夜廻りの巡査の靴を廃され草鞋を用ひらるる事になりしと是れは怪しき者に靴音を悟られぬ為めならんと」(雑報 朝野新聞 明治13(1880).2.7 2面【YB-134】)という記述も見られます。
東京と大阪で、道行く人びとの髪型、服装、履物について観察し、比較しています。
また、『東京、西京、及び高松に於ける風俗測定成績』(東京人類学会雑誌 35号 明治22.1 pp.138-144 )では、京都、高松の測定結果も載せています。それによると、大阪、東京、京都の順に洋装するものが多く、高松はこの3か所と比べて和服の者が多かったようです。なお、明治21(1888)年1月の東京の調査では、靴を履いていたのが男性で32%、女性で3%でした(一枚目)。二枚目は調査時にカウントしていく際に使用する記号で、坪井正五郎氏が考案しました。
考現学入門 / 今和次郎著 ; 藤森照信編 東京 : 筑摩書房, 1987.1【GD1-313】
大正14(1925)年の東京銀座での服装街頭調査の結果が記載されています。男女別、和装・洋装別に服装が詳しく記述されており、履物に関しても図入りで細かく示してあります。洋靴を履いているのは男性で67%、女性で1%でした。また、p137の図48「女の靴」によると女性で靴を履いていたのは11人ほどで、ほとんどが黒のヒール靴でした。「(女性は)全体が少数ですから大した統計になりませんでした」と書かれています。なお、『今和次郎集 8』(東京 : ドメス出版, 1971【GD1-17】)には昭和3(1928)年の調査結果が収められています。
考現学とは、今和次郎氏によって提唱された概念です。服装や室内の物の配置、街の通行人の風俗などを細かく観察し、そこから得られたデータをもとにして、社会風俗の研究を行います。前出の「風俗測定成績及び新案」も考現学と非常によく似た手法を用いていますが、今氏が当初考現学を提唱した際はこの研究のことを知らなかったようです。その後坪井氏の研究のことを聞き、「坪井正五郎先生は、わが国の『考現学』以前に考現学者だったわけである。」と記しています。
今回は日本の明治・大正期の洋靴に焦点を当てましたが、当館では西洋での履物や明治期より前の履物などについて記述された資料も所蔵しています。
靴のラビリンス : 苦痛と快楽 東京 : INAX, 1992.2【G185-E34】
17世紀から20世紀までのヨーロッパの靴のカラー写真が載せられています。刺繍を施された色鮮やかな靴が綺麗です。
履物の起源ははっきりしないようですが、現在知られている最古の標本は古代エジプトの古王国時代のサンダルだと言われています。
そして、今の革靴の原型は、一枚の皮で足を覆い、甲の部分に穴をあけてひもで閉じた「モカシン」と呼ばれるはきものだと考えられています。モカシンという名称はアメリカインディアンの言葉からとられましたが、同タイプの靴は、北ヨーロッパ、ペルシャ、西アジアなど多くの地域で履かれていました。その後、ひもで閉じていた部分を縫い合わせるようになり、木型が出現して現在のような靴が作られるようになりました。
はきもの世界史 / 日本はきもの博物館編 福山 : 日本はきもの博物館, 1989.6【GA36-E10】
エジプトやギリシャの履物からはじまり、おもにヨーロッパの靴の写真が時代ごとに載せられています。
ゴシック時代(13~15世紀)には鋭角的な建築が多く見られますが、靴も同様に爪先のとがったものが履かれました。あまりに先端が細く長く尖りすぎたため、先端を鎖で止めて上に挙げておかないと歩けない靴まで出て来ました。ルネッサンス時代(15~16世紀)には、チョピンと呼ばれる底が厚くなった靴(つま先、踵などの区別はなく、全体的に高くなる)が流行します。厚さは46~61センチほどで、支えてもらわないと歩けないものもあったといいます。さらに、18世紀にはルイ15世にちなんだ、ルイヒールと呼ばれる靴が出現しました。これは、ヒールの中央部が細く、付け根と底部が少し広がっているもので、現在のヒールの原型といわれています。
日本のはきもの : 国重要有形民俗文化財 / 日本はきもの博物館編 福山 : 日本はきもの博物館, 1985.9【GD64-69】
下駄、草履、草鞋、藁沓、和沓、足袋、足桶などの種類ごとに写真が載せられています。
北の下駄 / 北上市立博物館編 北上 : 北上市立博物館, 1999.8【GD64-G35】
東北の遺跡から出土した下駄と、昔から使われてきた下駄についての資料です。
下駄は用途に応じて、労働に使用される田下駄や雪の降る地域で使われる雪下駄など、多種多様な形態があります。日常ではかれる下駄では、歯のない無歯下駄(ポックリなど)、歯のある有歯下駄の2種類に大きく分かれます。有歯下駄はさらに一つの木から作った連歯下駄と台に歯を差し込んだ差歯下駄に分かれます。
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参考文献