第1章 洋靴事始

現在、日常の履物として私たちの生活に欠かせない西洋式の靴―洋靴―は、明治時代に開化の風物として人々に広く知られるようになりました。もちろん、それ以前にも洋靴の存在は知られており、また、古墳の副葬品や正倉院宝物にも様々な靴がみられるように、日本に靴がなかった訳ではありません。しかし、身近な履物として、多くの人々が洋靴と接するようになったのは明治以降のことでした。

幕末~明治の使節団と靴

この節では、幕府から派遣された万延元(1860)年、文久2(1862)年の使節団と慶応元(1865)年の軍制等調査団、明治政府から派遣された岩倉使節団一行の、洋靴との関わりが分かる資料を中心としてご紹介いたします。

万延元(1860)年遣米使節団と靴

副使として派遣された村垣範正の『遣米使日記』には、「天地開闢以来初て異域の使命を蒙り君命をはつかしむれは神州の恥辱と成なんことゝおもへはむねくるしき事かきりなし」とあり、国の代表としてまだよく知られていないアメリカの地に派遣された使節ならではの緊張感が伝わってきます。→該当箇所
使節団が大統領に出会った様子は、「本の万華鏡」第1回「アメリカ大統領の歴史」の第3章「日本人、アメリカ大統領に出会う」でも紹介しています。

航米日録 / 玉蟲左太夫著 (日本思想大系 66 / 東京 : 岩波書店,1974【HA5-7】)

仙台藩士であった玉蟲左太夫は、正使・新見正興に従って米軍艦ポーハタン号でアメリカに渡ります。
途中に寄ったハワイでは、「晴雨定ラズ、晴天ニシテ忽チ雨来リ、道路常ニ湿」っていて、靴を持っていないために歩くのに大変苦労する、「戸外一歩モ行ク能ワズ」と街に出て靴を買っています。
「他ノ求ムル者大抵銀一個半ト云フ」(p.26)と記されていることから、玉蟲以外にもハワイで靴を買った人がいたようです。

The New York Herald 万延元年.4.29 (西暦1860.6.17)(万延元年遣米使節史料集成 第6巻/ 日米修好通商百年記念行事運営会編 東京 : 風間書房, 1960-61 【210.593-M175-N】)

本書は第Ⅱ部が「アメリカ合衆国新聞記事」となっており、万延元年の使節団一行を取り上げたアメリカの新聞記事をみることができます。
使節団一行の中には、新しい帽子をかぶっている人もいれば、白や黄色のキッド革の靴や、エナメル革の靴を履いた人もいたことが分かります。(p.215)

福翁自伝 / 福沢諭吉述 ; 矢野由次郎記 東京 : 時事新報社, 明治32(1899).6【80-204】

咸臨丸は、初めて太平洋を渡った日本の軍艦として有名ですが、ポーハタン号に乗った使節団の護衛と遠洋航海の実地訓練も兼ねていました。福沢諭吉はその咸臨丸に乗船し、初めてアメリカの地を踏んでいます。
咸臨丸の水夫たちは草鞋履きでした。初の太平洋横断航海を終えてアメリカのサンフランシスコに到着した水夫たちの足元は、草鞋に潮水がしみこんで散乱し、すっかりみすぼらしくなっていました。「桑港着船の上艦長の奮発で水夫共に長靴を一足づゝ買て遣て夫れから大に体裁が好くなった」ということです。→該当箇所
文久元(1861)年に「皮履之儀も、御軍艦方等船中を限相用候儀者不苦」(石井良助,服藤弘司編『幕末御触書集成.第3巻』1993.4【AZ-145-E23】p.29)と、軍艦方は船中に限って革靴を履いても良いという御触れが出たのは、この経験が反映されているのかもしれません。
サンフランシスコに着いた福沢は、日本では高価な絨毯が部屋一面に敷かれているのに驚き、また、その上を土足で歩くアメリカ人に驚いています。→該当箇所

異国の言の葉 / 嘉八( 万延元年遣米使節史料集成 第4巻/ 日米修好通商百年記念行事運営会編 東京 : 風間書房, 1960-61 【210.593-M175-N】)

嘉八は蒸気方火焚役として咸臨丸に乗船しました。サンフランシスコに上陸して、市街を見物し、「日本江渡り居り候通りの着類にて男女は不及申、四五歳計の小児迄沓をはき」(p.322)と、子どもまで靴を履いていることに驚いています。

文久2年(1862)遣欧使節団と靴

懐往事談 : 附・新聞紙実歴 / 福地桜痴著 東京 : 民友社, 明治27(1894).4 【72-53】>

出発の準備にあたって履物をどうするかが問題となり、議論の末、「西洋の靴なんど相用ひては神州の大恥辱なり宜しく草鞋の用意致すべし」という結論になります。さらに、どの部署が草鞋の準備を担当するか、どんな草鞋が良いかなどでも散々揉めます。→該当箇所
また、上海で一行の某が洋靴を買って履いたことでも「国風を紊(みだ)る」として悶着となりました。→該当箇所

西洋衣食住 / 片山淳之助著 慶応3(1867)序 【383-Ka597s】(福沢全集 / 福沢諭吉著 東京 : 時事新報社, 明治31(1898)【75-40】)

『西洋衣食住』は、福沢諭吉が片山淳之助の名で西洋の文物を分かりやすく紹介したもので、万延元年、文久2年の二度にわたって使節団の一員として欧米に赴いた経験が活かされていると言えるでしょう。刊行当時(慶応3(1867)年)には、まだ人々にあまり馴染みがなかった洋靴を、「常ノ沓ハ日本ニテ雪駄ノ代ナリ長沓ハ雨天ノ時下駄ノ代リニ用ヒ又ハ馬上ニ用ユ上沓ハ家ノ内ニテ上草履同様ノ所ニ用ユ」と、身近な履物と対応させながら分かりやすく説明しています。

『西洋衣食住』の洋靴を紹介したページ
『西洋衣食住』の洋靴を紹介したページ

慶応元(1865)年の軍制等調査団と靴

懐往事談 : 附・新聞紙実歴 / 福地桜痴著 東京 : 民友社, 明治27(1894).4 【72-53】

柴田剛中一行は、軍制調査などのため幕府からフランス、イギリスに派遣されました。柴田は、革靴を履くことは認めましたが洋服を着て笑われては国威を殞(おと)すとして禁じました。→該当箇所
革靴を認めた背景には、柴田が国を代表する外交使節としてではなく、あくまで調査のための特命理事官として派遣されたことも関係していたかもしれません。(→尾佐竹猛〔著〕『幕末遣外使節物語 : 夷狄の国へ』講談社, 1989.12【GB383-E18】p.4)
本書の「是は初度の使節および鎖港談判使節一行の行状に付随文中外の批難を聞たるとありしが故なり」との記述から、第1回の使節団の何人かが靴を履いたり西洋式の帽子をかぶったりしたことが、幕府内で非難を受けた可能性も推測されます。

岩倉使節団と靴

岩倉大使一行(明治四年米国にて)

アメリカ到着直後、明治4年12月14日(西暦1872年1月23日)にサンフランシスコで撮影された使節団の正使・岩倉具視と副使たちの写真(→『明治維新と西洋文明 : 岩倉使節団は何を見たか』 / 田中彰著 東京 : 岩波書店, 2003.11【GB421-H27】 p.2)です。副使らが揃って洋装であることから、洋装が国威を殞(おと)さないとみなされつつあることがわかります。そんな中、岩倉の髷、和装に洋靴、シルクハットの和洋折衷の姿が印象的です。

ミカド : 日本の内なる力 / W.E.グリフィス著 東京 : 研究社出版, 1972【GB415-19】

福井藩の理科教師として来日後、大学南校でも教えたグリフィスは、明治6(1873)年1月1日、新年拝賀のため皇居を訪れ天皇に拝謁しています。その時の様子を記した中に、「私が古風な衣裳を着たミカドを再び見たのは、宮中においてであった。(中略)睦仁は真紅と白の衣を着、みぞのある高い金色の羽毛のついた冠をつけ、二匹の「高麗犬」の上にすえられた玉座の椅子に坐っていた。その左右には、宮廷の高官が二列に並んで立っていた。この人々はさまざまな色の風変わりな衣裳を着て、まるで一組のカルタの絵を見るようであった。ただし、みな近代的な革靴をはいていた。」とあります。
前年の明治4年11月21日(西暦1872年1月1日)には、日本の新聞草創期に活躍したブラックが横須賀行幸時の天皇の姿を、「服装は純白で、袴は赤色、歩くと、両手は大きなひだのなかに隠れるようだ。(中略)またよく磨かれた皮の長靴も忘れてはなるまい。」(J.R.ブラック著『ヤング・ジャパン. 第3』平凡社, 1970【GB383-4】p.173)と記しています。
当時の公的な場において、岩倉のような和洋折衷姿は特異なものではなかったようです。
明治天皇が散髪したのは明治6年3月20日。文明開化の装いは、頭より足元が先でした。

保古飛呂比 : 佐佐木高行日記.5 / 佐佐木高行著 ; 東京大学史料編纂所編纂 東京 : 東京大学出版会, 1974【GK125-3】

岩倉が髷を落とし、洋装に変わったのは最初の訪問国・アメリカのシカゴでのことでした。これに対して、使節団の一員で「例ノ頑固論」であると自ら任じる佐佐木は、岩倉は他の団員と違って太平洋上でもアメリカ到着後も日本流だったのに、途中で変えるのはあまりにも軽率、と批判的です。しかし、そんな佐佐木にとっても、「当今ノ時勢ナレバ、断髪モ洋服モ善カルベシ」、「各国一週帰朝ノ上、各国の形勢ヲ奏聞シテ、然ル後断髪トシ、改服アリタレバ、大臣ノ体裁ヨカルベシ」(pp.288-289)と、洋装を採用していくこと自体は時勢として許容せざるを得ないものとなっていました。

著者の佐佐木高行
著者の佐佐木高行

特命全権大使米欧回覧実記 / 久米邦武編 東京 : 博聞社, 明治11(1878).10【34-88】

久米邦武の編になる『米欧回覧実記』は、岩倉使節団の公式報告書として出版されました。使節団は、条約改正に向けた交渉のほか、新しい国をつくる参考とするために欧米各国の制度や産業を視察することも大きな目的としていました。このため、精力的に工場なども視察しており、ボストンとサンクトペテルブルクでは製靴工場を視察しています。
ボストンでは、製靴工場と衣服の縫製工場を見学し、どちらにも蒸気で動く機械があり、男女500人が働いていることが記されています。→該当箇所
サンクトペテルブルクでは、ひとつの靴の革を締めるにも、一般の靴屋には機械がないので6時間かかるところ、工場では機械を使うので6時間で10足を締めることができる、と機械化された軍靴工場の様子が記されています。→該当箇所
また、ヨーロッパの女性の盛装について、足の細いのを美とし「履ニテ足掌ヲ括スル」のは習慣によるが、健康上は「美事ニアラス」と批判的に紹介しています。→該当箇所

コラムオランダ人のかかと

洋靴のヒール部分が奇異に映ったためでしょうか。江戸時代には、「和蘭人は天質(うまれつき)跟(かゝと)なし」という風説があったようです。
慶応4(1868)年に京都を訪れたイギリスの外交官・ミットフォードは、祇園の芸妓の少女二人が「どうしても靴下を脱いで私の足を見せてくれと言ってきかなかった。」(ヒュー・コータッツィ著『ある英国外交官の明治維新 : ミットフォードの回想』1986.【GB383-64】p.143)と記しています。
少女たちは風説を実際に確認しようとしていたのでしょうか。

『蘭説弁惑』の「阿蘭陀國人図」

本書は、江戸時代後期の蘭学者・大槻磐水(玄沢)が、世間に流布しているオランダに関する誤った見解を正した説を、門人の有馬文仲が記したものです。
オランダ人が描いたオランダ人男女の着衣と裸の絵、あわせて4枚の模写を紹介しながら、国が違えば衣服や言語、眼や肌の色は異なっても、身体の基本的な仕組みは同じであることを、「運用をなすはみな同じ事なり」と説明しています。うち、「阿蘭陀國人図」では、男性が現在のミュールのような形のかかとの部分が高い靴を履いています。

明治政府と洋靴の導入

幕末、開港された横浜などに外国人技術者が来日し、日本でも洋靴の製造・販売が始まりました。しかし、この時期、日本人が洋靴を履くことはまだ一般的ではありませんでした。文久元(1861)年の御触れでは、軍艦方が船中で履く以外は革靴を履くことを禁じていたことを第1節でご紹介しましたが、同じ御触れで、百姓や町人についても仕事柄革靴を履く必要がある場合以外で革靴を履くことを禁じており、仕事柄必要な場合であっても外国製に紛らわしい仕立て、すなわち洋風であることを禁じていました。
洋靴は、明治政府が様々な場面で靴を採用していくことによって、人々の間に広まっていくことになります。

軍靴

洋靴の導入は、まず軍から始まりました。

練兵天覧ノ節須知条件 明治3年4月5日 兵部省(法令全書 慶応3年10月-明治45年7月 / 内閣官報局 東京 : 内閣官報局, 明20-45 【CZ-4-1】)

明治政府の号令のもとに兵士が揃って靴を履いたのは、明治3年4月17日(西暦1870年5月17日)、駒場野で行われた練兵天覧の時だったようです。諸藩の兵隊、御親兵隊、遊軍隊等から臨時に編成した、歩兵九連隊、砲兵五隊、騎兵若干、造兵などが参加したという大規模なもので、桜田門外から駒場野まで行軍し、練兵を行いました。
練兵天覧に向けて様々な準備が行われますが、明治3年4月5日に兵部省から出された「練兵天覧ノ節須知条件」に、「一 兵隊一統沓相用可事」とあります。
練兵天覧に参加した中村準九郎の「始めて靴を穿ちたり」という談話も残されています(陸軍省編『明治軍事史 : 明治天皇御伝記史料.上』原書房, 1966 (明治百年史叢書)【392.1-R52m】p.56)。
なお、この練兵天覧については、『太政官日誌』などからも様子を知ることができます。
太政官日誌 / 東京 : 太政官, 慶応4(1868)-明治9(1876) 【CZ-2-01a】→該当箇所

日本の軍装 : 図鑑. 下巻 / 笹間良彦著 東京 : 雄山閣出版, 1970【GB45-1】

西南戦争時の軍装
幕末から第二次世界大戦時までの軍装が白黒で描かれています。
軍での洋靴使用は、洋靴が人々の間に広まる前から始まっていたため、生れて初めて履いた靴が軍靴、という兵士も少なくありませんでした。そのため、当初は馴染みのある草鞋と新しく導入された靴とを履きわけていたようです。本書の挿絵でも、西南戦争時の軍装は草鞋と靴両方が書かれています(草鞋は左から二人目の人物)。
「明治十年の西南の役の時は軍靴の使用を痛切に感じたのであるが、まだ軍用には適せず、やむなく草鞋を携帯した。それでも隊伍にあるものは力めて軍靴の使用に馴れる事に腐心したが、長途の行軍には耐へられず、草鞋を使用したものだった。また履用者も馴致せず、製作技術も多少の缺點(欠点)があった為であらう。」(東京靴同業組合編『靴の発達と東京靴同業組合史』昭和8【641-47】pp.73-74)

文明開化の錦絵新聞 : 東京日々新聞・郵便報知新聞全作品 / 千葉市美術館編 東京 : 国書刊行会, 2008.1【UC126-J1】

台湾出兵に随行した東京日日新聞記者の岸田吟香が書いた、日本の従軍記事の先駆けである「台湾征討従軍記」(東京日日新聞 明治7.6.10【YB-6】)は好評を博し、同年10月に錦絵新聞も出版されました。描いた絵師は台湾出兵に随行したわけではありませんが、錦絵新聞では兵士は洋服に草鞋を履いています。

開化大津絵節

『開化大津絵節』の「当時流行のいくさ人」

大津絵節は、幕末から明治にかけて流行し、たくさんの替え唄が作られました。明治初期に出版された「開化大津絵節」では、開化の風物も唄われています。画像は、兵隊の様子を唄ったもので、

当時(たうじ)流行(りうかう)のいくさ人(にん) まんてるずぼんに靴(くつ)をはき...

と、靴を履いている様子も唄われています。
明治3年の練兵天覧から約10年。兵隊が揃って靴を履く様子が人々の身近になってきていることがうかがわれます。
当館では、『開化大津絵ぶし』【特44-191】、『開化大津ゑ・かっぽれぶし・葉唄・都々一吹分』【特44-157】、『新選開化大津ゑ』【特53-686】など、数種の開化大津絵節を所蔵しています。

靴の外昇降を禁ず~官公庁からの広がり

御車寄始沓ノ儘昇降ヲ許ス 明治4年12月14日 太政官達(法令全書 慶応3年10月-明治45年7月 / 内閣官報局 東京 : 内閣官報局, 明20-45 【CZ-4-1】)

明治4年12月14日(西暦1872年1月23日)に、官吏が12月17日から靴のままで庁舎に入ることを許可する太政官達が出されました。

沓ノ外昇降ヲ禁ス 明治4年12月27日 太政官布告 (法令全書 慶応3年10月-明治45年7月 / 内閣官報局編 東京 : 内閣官報局,明20-45【CZ-4-1】)

靴のまま、というのを、土足でも良いという意味に解したのでしょうか。草履のまま登庁した人もあったようです。太政官達の意図は西洋式にしたい、ということだったようで、同年12月27日(西暦1872年2月5日)には、草履では体裁が悪いので今後は靴以外での登庁は不可、という布告が出されています。

靴の外昇降を許さず(朝野新聞 明治19(1886).5.2 【YB-134】)

官公庁以外にも「靴の外昇降を禁ず」るところは広まっていったようです。
この記事では、「靴の外昇降を許さず」として、「帝国大学総長よりの達しに基き、学生々徒ハ昨日より一同靴の外昇降を許されざることとなり其他の者と雖ども靴を穿ざる者ハ玄関より昇降を許さゞる趣を掲示せられたり」と報じられています。
ただ、靴はなかなか高価で簡単に入手できるものではない中、「靴の外昇降を禁ず」るのは無理があったのでしょう。明治23(1890)年には、警視庁、逓信省、大蔵省などで次々に靴以外での昇降を許すようになったことが報じられています。

靴職人

靴産業百年史 東京 : 日本靴連盟, 1971【DL731-11】

明治12(1879)年、絵師の細木年一によって描かれた錦絵「諸工職業競 靴製造場之図」です。靴職人が向かい合って二列に座り、それぞれ別の工程の作業をしています。また机の上には様々な形の道具が見られます。すべて手作業ではありますが、靴職人の人数、設備、道具がきちんと整えられた様子がこの錦絵から見て取れます。

御披露(靴職人の求人広告)

伊勢勝という靴製造所が新聞に掲載した、靴職人の求人広告です。当初、立体的で曲線の縫い目が多い靴の製造は機械化することが難しく、多くの工程を靴職人の手作業に頼っていました。広告の文章の中に「外国人相雇」とあります。多くの靴製造所では外国の製靴技術を学ぶため、外国人を雇って指導にあたらせており、伊勢勝もオランダ人を雇用していました。ちなみに伊勢勝は日本の靴製造業のパイオニアの一つであり、伊勢勝が靴製造所を開設した明治3年3月15日は「靴の日」に制定されています。

雑報 靴工三百徐人衆議院に迫る(読売新聞 [東京] 明治25(1892).12.22 朝刊2面【YB-41】)

陸軍は有事の際に軍靴の供給を安定させる目的で、靴職人養成の機関を作ることを計画しました。それまでは軍靴の製造を民間に発注していましたが、この計画が実現すると、軍人が靴の製造技術を習得し、すべての軍靴を陸軍内で製造することになります。資料はこの計画の廃止を請願するため、靴工協会の靴職人約300人が衆議院議長面会を求めて衆議院の正門と通用門に押し掛けた記事です。靴の需要の大半を占める軍靴を陸軍が自前で調達してしまうことは彼らにとって大きな問題であることが想像されます。
結局、10年後に陸軍被服廠内に製靴部が併設されましたが、民間への軍靴発注は継続されました。(→『靴産業百年史』 東京 : 日本靴連盟, 1971【DL731-11】 p.83-88)

製靴図集

東京靴工倶楽部は製靴技術の向上と業者の発展を目的とした研究団体です。本書は、それまで徒弟制度の中で、親方から弟子へ口伝などで教えられてきた製靴技術を体系づけるために、渡米した靴職人が集めた資料を編集し翻訳出版したものです。様々な靴の図が載せられているほか、靴の着用による病気と、その治療法が早くも紹介されています。

靴の発達と東京靴同業組合史 / 東京靴同業組合編 東京 : 東京靴同業組合, 昭和8(1933)【641-47】

明治後期、靴業界が徐々に発達し、靴職人の数も増えつつありました。しかし、上記の東京靴工倶楽部のような、経営者・靴職人ごとの小規模な団体が設立されるのみでした。明治42(1909)年、日露戦争での軍靴ブームと戦後の不況により、業界が混乱に陥ったため、業界団体による統制が必要となります。この情勢を受け、東京靴同業組合が設立されました。
東京靴同業組合設立から約20年経ち昭和に入ると、靴産業及び東京靴同業組合の創始・発展に関係する資料が散逸し始め、かつ当時を知る証人が少なくなってきました。本書はそのような事態を懸念し、昭和7年に3月15日が「靴の日」と制定され、東京市が大東京市に変更されたのを契機に刊行されたものです。2編構成であり、第1編は靴及び靴産業の発展史、第2編は東京靴同業組合の発展史が記されています。

開化の風物としてもてはやされた洋靴

本朝伯来戯道具くらべ / 歌川芳藤 明治6(1873)年【*GAS MUSEUM がす資料館蔵】

まんてると裃、こうもり傘と和傘、郵便と飛脚、靴と駒下駄と雪駄...と、開化期に西欧から流入した品と日本古来の品が擬人化されてセットに描かれ、それぞれの主張も記されています。
郵便と飛脚の様子からは、郵便制度の整備によって衰退に追い込まれていく飛脚の状況がうかがわれます。一方、資料に描かれた靴、駒下駄、雪駄については、勝負はまだついていないようです。
靴は、「ちかくはかつてめにもみよしのかんかつでたち(寛闊出立) 今りうこうのはくらいくつ 雨のふる日もせいてんも 足はよごれず冬あたゝか くつにやまさるものはあるめへ」と、長所を主張しています。

告知 (郵便報知新聞 / 報知社〔編〕 東京 : 報知社, 明治6(1873).7.2 4面【YB-18】)

靴が駒下駄、雪駄といった在来の履物に勝利できない要因のひとつとして、当時の靴の値段の高さがあげられます。
資料は明治6(1873)年に新聞に掲載された靴の広告です。 「礼服靴5円より15円迄、各国騎兵長靴9円50銭より25円迄、同並長靴3円50銭より15円迄、同海陸士官靴4円より7円迄、羅卒(現在の巡査のこと)靴1円25銭より3円迄、学校生徒靴1円25銭より3円迄...女靴2円50銭より7円50銭迄...」などと書かれています。明治7(1874)年の巡査の初任給は4円(値段史年表:明治・大正・昭和 朝日新聞社, 1988.6【DF58-E5】p.91)ですので、当時の一般の人々にとって靴は非常に高価なものでした。

東京開化名勝 京橋石造銀座通り両側煉瓦石商家繁栄之図 / 歌川広重(三代)伊勢屋喜三郎,明治7(1874)年 【*早稲田大学図書館蔵】

明治7(1874)年の銀座通りを描いたこの錦絵には、和服にヒールのある洋靴を履いている人々がちらほら見えます。
煉瓦造りの建物が並ぶ銀座通りは文明開化を象徴する場所と言えますが、草鞋や草履など、従来からの履物を履いている人もまだ多くいます。
早稲田大学の古典籍総合データベースで、より精細な画像を閲覧することができます。

開化廿四好 沓 / 豊原国周 明治10(1877)年 【*早稲田大学演劇博物館蔵】

この錦絵は、開化期の24の文物を描いた開化廿四好シリーズのひとつです。当時の靴屋も描かれています。
同シリーズのその他の画題は、牛、新聞、かめ(西洋犬)、郵便、椅子、温泉、めがねばし、じようき(蒸気船)、かうもり傘、寒暖斗(寒暖計)、真写(写真)、瓦燈(ガス灯)、喞筒(ポンプ)、馬車、西洋床、石鹸、しやッぽ(帽子)、電信、学校、天長節之旗、時斗(時計)、人力車、貸坐敷。いずれも開化期に話題になった文物と言えるでしょう。

次へ
第2章 靴をはいてみたら



ページの
先頭へ