第一次世界大戦のさなかの1914(大正3)年8月23日、日本はイギリスの求めに応じる形でドイツに宣戦布告し、ドイツの中国における拠点であった青島を攻めました。青島を守備するドイツ兵は少数であったため、戦闘は短期間で終了しました。青島攻略によって4,500名を超えるドイツ人俘虜が生じ、日本各地の収容所に移送されました。その後、ドイツ人俘虜は、ヴェルサイユ条約締結により本国に送還される1920(大正9)年1月まで収容所で生活しました。
当初日本各地に12か所(全期間を通しての総数は16か所)あった収容所は最終的に6か所に統合されました。青島のドイツ兵には民間からの志願兵も多く、彼らは入隊前に様々な職業に就いていました。当時の日本にはない技術を取り入れようという国策もあって、各地の収容所内外での俘虜たちの活動がドイツの技術や知識、文化を日本に伝えていきました。中でも松江豊寿が収容所長を務めた板東俘虜収容所は模範的な収容所といわれ、収容所内外での俘虜の活動に理解があったため、スポーツ、音楽、印刷・出版など多彩な活動が見られました。
青島から来た兵士たち : 第一次大戦とドイツ兵俘虜の実像 / 瀬戸武彦著 東京 : 同学社, 2006.6 【GB471-H16】
ドイツ人俘虜の活動のみならず、第一次世界大戦以前のドイツによる青島統治から日本の統治下の青島についての歴史や、全国16か所の収容所の概要、俘虜の群像や解放後の動静まで、幅広い内容が紹介されています。
第一次世界大戦における日独間の戦闘やドイツ人俘虜についての概要を知るための良い手引きとなっています。
青島俘虜の使役 (朝日新聞 1915.2.23朝刊 p.5 【YB-2】)
日本にない仕事を青島からのドイツ人俘虜に行わせて、日本の産業の発展を図るという記事です。これは日露戦争時にロシア人俘虜の技術を用いて、姫路革の改良を行った例にならい、ドイツ人俘虜の技術を日本に取り入れようとしたものです。ドイツ人俘虜の職業を調査し、ソーセージ職人に目をつけたことが書かれています。
どこにいようと、そこがドイツだ : 板東俘虜収容所入門 : Hie gut Deutschland alleweg! / 田村一郎編著 第3版 鳴門 : 鳴門市ドイツ館, 2006.3 【GB471-H14】
1918(大正7)年3月に板東俘虜収容所(現徳島県鳴門市)のドイツ人俘虜による美術工芸展覧会が開かれました。展示場入口の騎馬像には「Hie gut Deutschland alleweg! (どこにいようと、そこがドイツだ)」と書かれていました。もともとはバルト三国付近の開拓を担ったドイツ騎士団のモットーだと言われています。
模範的といわれたこの収容所では、管理者側の配慮もあり、スポーツや音楽など文化活動を通して俘虜と地域の人たちとの交流が見られました。また酪農や食品加工などの技術を日本に伝えました。
板東の地に俘虜としてドイツ人がやってきてから、戦争が終わり解放された後に途絶えた交流が復活し現在に至るまでをわかりやすくまとめて紹介している本書は、板東俘虜収容所を知る入門書ともなっています。
青野原俘虜収容所の世界...。 : 小野市河合地区の近世・近代から現代 : 小野市立好古館平成17年度特別展 / 小野市立好古館編 小野 : 小野市立好古館, 2005.10 【GB471-H17】
当時の陸軍青野原演習場の一角に、ドイツ・オーストリアの俘虜が収容された青野原俘虜収容所(現兵庫県小野市・加西市)が設置されました。収容規模は500名程度で、周辺地域との交流もあったようです。
前半は青野原俘虜収容所についての調査報告、後半は収容所に隣接した河合地区の北部地域の歴史を、地域の小中学生が地元の人に話を聞いて調べ、それを地域展として報告するという形をとっていて、とてもユニークな構成になっています。
青野原俘虜収容所にやってくる俘虜たちの行進している姿や全体写真、日常生活、スポーツをしている様子、俘虜の作った作品など、多くの写真が資料として掲載されています。
ドイツの食べ物といえばパンやハム、ソーセージなどが思い浮かびます。
20世紀に入るまで、ハムやソーセージが日本に全くなかったわけではありません。江戸時代には中国から琉球を経由して薩摩に豚肉の加工品が伝わっていますし、明治の初めころに、アメリカ人やイギリス人から製法を学んで試作したという記録もあります。また、1900(明治33)年には鎌倉ハム富岡商会が創立されました。しかし、大正年間までの日本のハム・ソーセージの品質はヨーロッパのものに遠く及びませんでした。俘虜になった志願兵の中には製菓・製パン、精肉、ビール醸造などの職人がいて、そのうち幾人もが俘虜時代から解放後も日本で技術指導に当たりました。日本の食生活が変わっていくきっかけになったともいえるでしょう。
バウムクーヘンで有名なドイツ菓子店「ユーハイム」は、収容所にいたカール・ユーハイムが、明治屋で技術者として働いたのち開業したものです。またアウグスト・ローマイヤーは解放後、帝国ホテルでハム・ソーセージ職人として働き、のちに銀座でレストラン「ローマイヤー」を開きました。
ハム・ソーセージものがたり / 日本ハム株式会社編 東京 : 東洋経済新報社, 1987.4 【DM456-73】
ハム・ソーセージがいつ頃どこで作られ始めたのかははっきりしませんが、今からおよそ3,000年前に書かれた文献『オデュッセイア』にはソーセージの一種とおぼしき料理についての記載があります。
日本では大正時代に、ハム・ソーセージの生産が盛んになりました。日本製のハム・ソーセージは品質では欧米の製品に比べて遥かに劣りましたが、第一次世界大戦の影響で、ヨーロッパからの輸出は途絶えがちであり、何より安価だったため、代用品として消費されていました。しかし、第一次世界大戦が終わるとヨーロッパからの輸入が回復し、日本の食肉産業は窮地に陥りました。
農林省の役人であった飯田吉英は、習志野俘虜収容所に収容されていたカール・ヤーンに食肉加工試験を行わせて、多くの日本人に技術を習得させました。1922(大正11)年には明治屋が元俘虜のバン・ホーテンやヘルマン・ウォルシュケを雇ってソーセージの製造を始めています。製菓技術者として、ユーハイムもこの時期に明治屋に雇われています。
本書はハム・ソーセージの歴史、日本の食肉文化の歴史、世界各国の食肉文化のこぼれ話についての本ですが、日本でのハム・ソーセージ製造とドイツ人俘虜の関係について以上のようなエピソードが記載されています。
ロースハムの誕生 : アウグスト・ローマイヤー物語 / シュミット・村木真寿美著 東京 : 論創社, 2009.4 【DM456-J12】
久留米俘虜収容所に収容されたアウグスト・ローマイヤーは「ロースハム」の生みの親です。ロースハムはドイツ人であるローマイヤーが日本で生み出したものなので、日本に固有のハムです。
畜産業の発達していなかった当時の日本では、豚のもも肉を使ったハムをつくるのが難しく、非常に高価なものになってしまいます。ローマイヤーは廃棄されていた背肉とロースに目をつけて、これをロール状にして、すぐ食べられるようボイルして、ロースハムをつくりだしました。ホテルや一流店には売れましたが、もともとハムやソーセージを食べなかった日本人の生活に定着するには時間がかかったようです。
彼の弟子たちの中には、のちの食肉加工業界の中で重要な役割を果たす日本人も多く見られます。弟子を学校に通わせたり、関東大震災の際、「保存が利かなくなって傷んでしまうから」、と材料をすべて調理して無料で配るなど、人柄を表すエピソードやそれを形成した生い立ちも紹介されています。
カール・ユーハイム物語 : 菓子は神さま / 頴田島一二郎著 東京 : 新泉社, 1973 【GK454-1】
青島で菓子と喫茶の店を開いていたユーハイムは、民間人であったにもかかわらず、俘虜として日本に連れてこられました。大阪俘虜収容所から似島俘虜収容所に移されたユーハイムは、広島市内の物産陳列館でドイツ人俘虜の作品展示即売会が催されたときに、バウムクーヘンを焼きました。これが日本で初めてのバウムクーヘンだと言われています。日本人の味覚に合うように工夫して作ったバウムクーヘンやサンドケーキはよく売れました。
第一次世界大戦も終わり、解放された俘虜の中には日本に残った人たちもいました。ユーハイムもその一人です。明治屋の製菓部の主任を務めたのち、横浜に自分の店を持ちました。店は繁盛しましたが、関東大震災によってすべて破壊されてしまいます。その後、神戸で再起し、その店が神戸のドイツ洋菓子店ユーハイムとなりましたが、それも第二次世界大戦によって焼失してしまいます。
カール・ユーハイムは終戦直前に病死しました。彼の妻エリーゼは連合国によってドイツに送還されますが、のちに日本に戻り、ユーハイムの店を夫の生前以上に発展させました。
ドイツ人俘虜は体を動かすことを好みました。総じて収容所は狭く、スポーツをするに十分な環境であったとは言えませんが、そんな中でもサッカー、テニス、ビリヤード、徒競走や遠足など、様々なスポーツが行われていました。
近隣住民がそれを観戦することもありました。また、親善試合も行われていたようで、1919(大正8)年1月26日に広島高等師範学校のグラウンドで行われたサッカーの試合は、日本初のサッカー国際親善試合といわれています。
俘虜生活とスポーツ : 第一次大戦下の日本におけるドイツ兵俘虜の場合 / 山田理恵著 東京 : 不昧堂出版, 1998.1 【FS22-G47】
ドイツ人俘虜と地元の日本人とのスポーツを介した交流について紹介しています。俘虜のスポーツ活動は俘虜たちの余暇や健康維持を目的として行われたものですが、当時の日本人にとっては啓蒙的な意味合いをもつものでもありました。地元の人たちが、俘虜たちの活動を見学したり、遠足や水泳大会などで接したりすることで互いの交流を深めていきました。また、先生や学生が俘虜たちのスポーツ活動を参観したり、俘虜による実技指導などが行われ、地元のスポーツ活動の普及や発展に寄与しました。
独逸俘虜と球戰 (朝日新聞 地方版. 兵庫版 1919.7.13 B版 p.1 【YB-237】)
戦争も終わりに近づき解放の時も近い1919(大正8)年に入ると、ドイツ人俘虜と日本人とのサッカーの試合による交流が見られます。
この新聞記事は、1919年7月13日に行われた青野原俘虜収容所のドイツ人俘虜と小野中学校、姫路師範学校とのサッカーの試合についてのものです。試合はどちらもドイツ人俘虜の圧勝でした。(参考文献 在日ドイツ兵捕虜のサッカー交流とその教育遺産 / 岸本肇著 (東京未来大学研究紀要 2巻[2009] p.25-32【Z71-V864】))
俘虜収容所では音楽活動も盛んで、多くの西洋音楽が演奏されました。板東俘虜収容所ではベートーベンの交響曲第九番が日本で初めて演奏され、俘虜の扱いでは評判の悪かった久留米俘虜収容所(現福岡県久留米市)でも、板東俘虜収容所に勝るとも劣らない音楽活動が行われました。
俘虜たちの音楽活動は収容所内にとどまらず、地域住民に向けての音楽会の開催や楽器演奏のレッスンなど、音楽活動を通じた地域との交流が報告されています。
上海オーケストラ物語 : 西洋人音楽家たちの夢 / 榎本泰子著 東京 : 春秋社, 2006.7 【KD217-H15】
約100年前、イギリス人が貿易拠点として港を開いた上海は、多くの外国人が住むヨーロッパ風の街でした。彼らが持ち込んだヨーロッパのライフスタイルの一つに西洋音楽がありました。1879年には上海の租界行政が運営する楽団、上海パブリックバンドが誕生しました。20世紀に入り、ドイツから音楽家たちが招へいされ、パブリックバンドはオーケストラ化していきます。
上海での西洋音楽は日本に影響を与えました。第一次世界大戦にパブリックバンドから従軍した5人のうち、1人は戦死し、4人が俘虜となりました。日本はバンドメンバーの解放を認めず、4人は日本各地の収容所に収容されました。
俘虜となった1人、パウル・エンゲルは板東俘虜収容所でエンゲル・オーケストラを率いて盛んに演奏をしました。エンゲルは音楽活動を通して地域住民と交流がありました。当時の生徒の回想からはエンゲルの人柄がよくわかります。また、同じ板東俘虜収容所に収容されていたドイツ軍の軍楽隊長のハンゼンは徳島オーケストラを指揮していました。
習志野収容所では同じく俘虜となった1人、ミリエスがオーケストラを率いていました。板東ではポピュラーな楽曲も多く演奏されていたのに対して、習志野では芸術性の高い音楽が好まれたのが特徴的です。
第九「初めて」物語 / 横田庄一郎著 東京 : 朔北社, 2002.11 【KD279-H3】
本書によるとかつては、1924(大正13)年に東京音楽学校で演奏された第九が日本初演と考えられていましたが、近年の研究では、1918(大正7)年、ドイツ人俘虜ヘルマン・ハンゼン率いる徳島オーケストラの第2回シンフォニーコンサートでの演奏が初演だとされています。
俘虜たちの音楽活動は日本の西洋音楽の発展に少なからず影響を与えていました。収容所は音楽活動をするためには決して恵まれた環境ではなく、楽器を入手するのにも苦労しました。友人などから寄付を受けたり、自作したりもしました。久留米俘虜収容所では陶製の水瓶に俘虜がなめした乳牛の皮を張ってティンパニーを作りました。水瓶のティンパニーは、俘虜の解放後に九大フィルハーモニーに買い取られるなどのエピソードも残っています。
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ドイツ先端技術への驚き