明治初期、近代化を目指した日本は、政治や経済については、アメリカやイギリス、フランスから学び、医学や化学についてはドイツから学ぶ、といった傾向がありました。しかし、明治10年代に入ると、明治政府がプロイセン(ドイツ)的な国家づくりを理想として、のちの初代内閣総理大臣伊藤博文らが渡欧して憲法調査を行うなど、医学や化学以外でもドイツに学ぶ機運が高まります。また、伊藤のブレーンであった井上毅をはじめとして、「独乙学」、すなわちドイツの学問を奨励する人々が現れますが、これには当時の自由民権運動が、イギリスやフランスの自由主義的な思想に基づいて政府批判を行っていたことに対する警戒感があったようです。
ドイツに学ぶ機運は、首都東京の街づくりの中にも表れます。憲法制定、国会開設を目前に控えた明治10年代の終わりごろ、内務省と東京府(現在の東京都)を中心に、東京の近代化の実現に向けて「市区改正計画」が検討され始めます。しかし、1886(明治19)年、外務大臣井上馨は、首都にふさわしい官庁街を造ることを主張し、臨時建築局設置を上申します。そして、自らその総裁となって、ドイツ人技師を招き、「官庁集中計画」を推進します。
第1章の前半では、その「官庁集中計画」の展開をご紹介します。後半では、「官庁集中計画」の後、明治30年代まで空き地となっていた区画が、ドイツの公園を範にとり、日本初の近代的洋風公園である日比谷公園として生まれ変わる様子について見ていきます。
明治の東京計画 / 藤森照信著 東京 : 岩波書店, 2004 .11 (岩波現代文庫) 【DD83-H116】
本書によると、井上馨は、部下でドイツ通の青木周蔵外務次官とともに、ドイツの建築家エンデ、そしてエンデと事務所を共同経営していたベックマンを招へいしました。
資料は、一足早く来日したベックマンの建設案です。現在の築地から霞が関に広がる壮大なもので、官庁街だけでなく、大通りや中央駅、劇場などの配置も描かれています。
首都東京の官庁街建設にドイツ人技師を招いた背景には、鹿鳴館に代表される欧化政策とともに、この「官庁集中計画」によって文明国であることをアピールし、不平等条約改正交渉を有利に進める材料にしたいとの井上の思惑があったようです。井上が伊藤博文首相に宛てた手紙では、国会議事堂、司法省、裁判所の建築をベックマンと契約するに際し、これが「破談」すれば、ドイツ公使の耳に達して交渉に悪影響が出ることへの懸念を記しています(参考文献 『伊藤博文関係文書 1』 伊藤博文関係文書研究会編 p.204-205 【GB415-21】)。
1887(明治20)年3月、ベックマンの推薦でホープレヒトが来日します。ホープレヒトはベルリンの都市計画を立案した人物です。また、同年5月4日には、エンデが他のドイツ人技師とともに来日します。ホープレヒトとエンデは、国会議事堂、司法省、裁判所の建築図面を井上に提出するとともに、ベックマン案の修正を提案します。壮大なベックマン案を実現することは財政的に困難であるとの判断があったようです。
この資料の中で修正案を提示したホープレヒトとエンデは、当時、日比谷にあった練兵場を「空虚となし置く」のは、「市府の美観上最も嫌悪すべき所」、「市府に適せざるのみならず実に村落の観を呈す」として、官庁の建築地とすることを「最得策」と述べます。
さらに、ホープレヒトの帰国後、エンデは微修正を加え、できたのが、現在の霞が関・日比谷付近に官庁街を集中させる案でした。そして、この案と、司法省・裁判所の建築開始が同年7月5日に閣議決定されました。
洋行日記 / 谷干城(谷干城遺稿 上巻 / 島内登志衛編 東京 : 靖献社, 1912 【210.6-Ta853t-S】)
その当時、欧州視察中であった谷干城農商務大臣は、「大土木」や「市区の改正」「官衙の建設」などは、「文明開化を装ふて条約改正を誤魔化さん」とするもので、拙速な条約改正は「日本を誤るの罪」を免れないと日記で述べ、急激な欧化政策を批判しています(p.587-588)。この後、帰国した谷は農商務大臣を辞任し、条約改正反対の立場を取りました。
これに加え、世論も条約改正に反対する風潮が高まり、井上馨は条約改正を断念し、1887(明治20)年9月、外務大臣を辞任するとともに、臨時建築局総裁の職も辞します。
翌年2月、臨時建築局総裁に就任した山尾庸三は、計画をさらに縮小し、司法省と大審院(裁判所)は建設し、海側の軟弱地については、ベックマンとエンデが来日する以前、お雇い外国人として来日していたイギリス人ジョサイア・コンドルが1885(明治18)年に構想した案に倣って、公園用の敷地としました。かくて、「官庁集中計画」は終わりを告げることになります。なお、公園建設が具体化するのは、この土地が東京市に払い下げられた1893(明治26)年以後のことです。
本書によれば、司法省庁舎は、工部省技師でドイツ留学を経験した河合浩蔵と、エンデ&ベックマン建築事務所の所員ゼールが現場監督となり、1888(明治21)年に着工、1895(明治28)年に完成しました。建物の中央と両翼部が張り出し、重厚な列柱、急傾斜の大屋根が特徴的な、ネオ・バロック建築です。上から見て、アルファベットのEの字型になっており、張り出していない左右部分に入口が1か所ずつあります。これは、司法省庁舎と司法大臣官舎という2つの機能の導線を分離するためで、ドイツの簡易・地方裁判所に典型的に見られるものだといいます。
また、近年に入り、貴重な歴史的建築物として当時の庁舎を保存・復原する工事が行われたことについて記されています。それによれば、明治期の庁舎は、1945(昭和20)年の東京大空襲で激しく損傷し、戦後復旧工事が行われました。その後、1980年代から90年代にかけて保存改修がなされ、現在では中央合同庁舎第6号館・赤レンガ棟(法務省旧本館)として国の重要文化財になっています。
なお、電子展示会「写真の中の明治・大正」では、ドイツ人技師が建設に関わった大審院・帝国議会議事堂(電子展示会の写真は帝国議会第2次仮議事堂、第1次仮議事堂は1891年焼失)の写真も掲載していますので、併せてご覧ください。
東京の三十年 / 田山花袋著 東京 : 博文館, 1917 【363-189】
現在の日比谷公園周辺は、江戸時代に遡ると大名や旗本の武家屋敷が立ち並ぶ場所でした。明治に入ると陸軍の練兵場となり、「日比谷原(日比谷が原)」と呼ばれていたようです。「官庁集中計画」では一旦は官庁街の建設予定地になりましたが、計画が挫折し、以後公園用敷地となりました。1893(明治26)年の東京市告示第6号で日比谷公園と称されることになりましたが、実際は空き地のままだったようです。
作家田山花袋が当時の東京を回顧した本書では、日比谷原の風景について、「原の真中に大きな銀杏樹があつて、それに秋は夕日がさし、夏は砂塵、冬は泥濘で、此方から向うに抜けるにすら容易でなかった」と記し、「明治二十七八年まで、そういう風であつた」と回想しています(p.432-433)。
東京公園史話 / 前島康彦著 東京都公園協会編 東京 : 東京都公園協会, 1989.11 【KA424-E21】
長年にわたり、東京都公園課で東京の公園史の調査・研究を行った著者が、日比谷公園の設立経緯についてまとめた本です。それによると、1893(明治26)年に土地の払い下げを受けた東京市は、公園設計に乗り出します。その際、遊歩道や芝生のある欧米式の公園を目指しましたが、具体化には至りませんでした。
1897(明治30)年、東京市会の議員7名が行った公園設計の建議では、従来の公園は旧社寺境内にあり、その旧観を保持するに過ぎず、名は「公園」でも、その実は「庭園」であるとして、日比谷公園は「庭園的公園たらしめざるを要す」と述べています(参考文献 『東京朝日新聞』 1897.4.22 朝刊 p.2 【YB-2】)。しかし、計画の実現にはなお時間を要しました。
近代都市公園史の研究 : 欧化の系譜 / 白幡洋三郎著 京都 : 思文閣出版, 1995.3 【KA424-E63】
1900(明治33)年、日比谷公園造園委員会が設けられ、ドイツで林学を学び、東京帝大教授となっていた本多静六が公園設計を行います。その際、本多が活用したのが、ドイツの造園学者ベルトラム(Max Bertram)の『造園設計図集』(Gärtnerisches Planzeichnen Berlin, 1891)でした。同書に描かれた3つの図と、下の日比谷公園の平面図を見比べると、似ていることが一目瞭然です。白幡によれば、当時のドイツでは、市民の憩いの場として、公園を造ることが求められ、遊歩道や緑地を配した公園設計が行われていたといいます。また、公園には、市民を啓蒙・教化する役割も与えられていたようです。
『東京朝日新聞』 (【YB-2】)の1901(明治34)年6月12日朝刊7面には、「近世発達したる欧米の公苑を参酌し之に本邦固有の美術的庭園を加味し以て中央公苑として他に譲らざるの設計を求め」た、という記事があります。
1903(明治36)年6月1日、日比谷公園は仮開園します。当時、公園といえば、浅草寺、増上寺、寛永寺などといった寺社の境内であり、日比谷公園は日本初の洋風近代式公園でした。
本書は、東京の15の区の地理や歴史を案内したものですが、その中で日比谷公園も平面図付きで紹介されており、噴水や音楽堂などの配置が示されています(p.404)。また、開業したばかりの東京電車鉄道の路線図も公園の周囲に描かれています。
上の写真は、園内から官庁街を見渡したものです。写真右奥に見えるのが司法省、左奥が大審院です。
開園後は市民の憩いの場であると同時に、日露戦争の祝勝会や、伊藤博文、山県有朋、東郷平八郎などの国葬(大隈重信は国民葬)が行われる国家的行事の場ともなりました。一方、日露戦争時には、講和条約への不満から生じた日比谷焼打ち事件、大正期には普通選挙を求める集会やデモが行われるなど、人々の要求を政府に訴える場としても機能するに至ります。
ドイツに学んで造られた建築や公園は、首都の近代化のシンボル、西洋をイメージする場としてだけでなく、いつしか、日本人の生活・風景に溶け込んでいきました。
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ドイツ人俘虜がもたらした
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