ツェッペリン号は、ツェッペリン伯爵が発明したドイツの硬式飛行船で、1900(明治33)年に第1号が完成します。以後、硬式飛行船一般をさして「ツェッペリン」と呼ぶほどにこの飛行船は成功をおさめ、第一次世界大戦中には爆撃、偵察などに利用されました。
1928(昭和3)年に建造された、グラーフ・ツェッペリン号の愛称を持つLZ(Luftschiff Zeppelin)127は、1929(昭和4)年8月15日ドイツを発ち、東京・ロサンゼルスなどを経て、無事世界一周を達成しました。この飛行は20日以上に及び、実際の飛行時間は300時間以上でした。8月19日から23日の霞ヶ浦滞在中には、この世界最大級の飛行船を一目見ようと30万人を超える見物人が殺到しました。
また、ツェッペリン号の日本出発に備えて、「ツエツペリン明朝五時頃那須付近通過するやも知れずとのことにて早く入寝す。」と8月21日の日記に記したのは、昭和天皇の側に仕える侍従武官長でした(参考文献 『侍従武官長奈良武次日記・回顧録 第3巻』 奈良武次著 ; 波多野澄雄,黒沢文貴責任編集, p.153 【GB461-G9】)。一般の人々のみならず、宮中や政界の要人にも注目されたこの出来事について、振り返ってみることにします。
ツェッペリン号の世界一周に同乗していた大阪毎日新聞記者円地与四松によるもので、前半はツェッペリン号の開発から発展までの通史的な記載となっています。
後半のグラーフ・ツェッペリン号同乗日記は、円地与四松の感覚を通して出発の準備や航行の様子が紀行文調に描かれたものです。とくに航行の瞬間の「ツェツペリン伯号はふはりッと軽く浮き上がつて行く」といった表現や、限られた状況の中で、日本到着の正確な日時を割り出したり、本社からの要請に応じて日本に向けて記事を打電しなければならない状況など、同乗者ならではの生々しい様子が伝わってきます。
円地与四松は同乗の準備のさなか、1か月の間に母と妻と父を相次いで亡くしています。「あゝ懐しき東京よ!然し今は私を待つている父も母も妻も、もはやいないのだ」とこの紀行文は締めくくられています。
巨大な船体が30秒で 鮮やかなる着陸ぶり 観衆の感激に取巻かれつつ、大格納庫に納まる (朝日新聞 1929.8.20 朝刊 p.2 【YB-2】)
ツェッペリン号の世界一周がいよいよ始まろうとすると、日本でも新聞紙面をその話題がにぎわせるようになります。航行中や到着の際はもちろんのこと、出発が近くなると毎日のようにツェッペリン号に関する記事が新聞に掲載されています。
この記事は世界一周途中のツェッペリン号が霞ヶ浦飛行場に降り立ったまさにその瞬間を報告したものです。地上の歓喜の中を巨体が悠々と降りて来る様子が詳細に描かれていて、どんな些細なことさえも見逃すまいとしているかのようです。
帝国ホテル百年史 : 1890-1990 / 帝国ホテル編 東京 : 帝国ホテル, 1990.11 【DH22-E551】
ツェッペリン号の指揮官エッケナー、船長のレーマンなど41人の乗組員、乗客20人の東京滞在中、宿泊したのが帝国ホテルです。本書によると、ホテル側は大宴会場に「ウェルカム(ウィルコンメン)」の文字と共に、長さ22尺(約6~7m)にわたるツェッペリン号の大模型を吊るして、盛大に歓迎しました。
また、帝国ホテルは、ツェッペリン号の東京-ロサンゼルス間の船内食を担当し、ドライアイス会社の協力も得て、飛行船内で調理できる缶詰に料理を詰めました。しかし、当時の新聞記事によれば、重量が1トンを超えない予定が、船からの注文が多く、1トンを超えて2トン位になったそうです。また、アメリカでは禁酒法があり、酒類を調達できないため、シャンパンやブドウ酒、ウイスキーなど計14箱を詰め込みましたが、ホテル側は「なあにツェペリンにや、うんと余力があるのです」と、その輸送力を信頼しているとも記されています(参考文献 『東京朝日新聞』 1929.8.22 朝刊 p.2 【YB-2】)。
外国郵便 東京 : 日本郵趣協会, 2008.3【DK321-J8】
ツェッペリン号は世界一周に合わせて、郵便物を積み込み、着陸地に運んでいました。これは、飛行船の収益事業の一つだったようです。当時、飛行郵便はまだ珍しく、記念切手やスタンプが人気を集めました。
個人収集家が集めた特徴的な切手やスタンプを紹介している本書にも、ツェッペリン号の記念切手・スタンプが紹介されています。資料には、ドイツから日本に運ばれた郵便で、切手とスタンプにツェッペリン号が描かれています。
ツェッペリン号は日本に約7,700通の郵便を運びました。また、日本からも郵便が積み込まれました。その郵便料金は、日本からロサンゼルスまで葉書で1円6銭、封書で2円10銭、ドイツのフリードリヒスハーフェンまでになると、葉書で2円56銭、封書で5円10銭。当時の日本国内の郵便料金が葉書1銭5厘、封書3銭でしたから、国内郵便の数十倍以上という高額なものでした(参考文献 『日本航空郵便物語』 園山精助著 p.86-95 【DK321-134】)。にもかかわらず、発送を希望する人たちが郵便局に詰め掛け、葉書、封書合わせて、約5,500通のアメリカ、ドイツ向け郵便が積み込まれました(参考文献 『読売新聞』 1929.8.22 朝刊 p.7 【YB-41】)。
北原白秋は詩人で童謡作家です。彼もまたツェッペリン号に強い関心を寄せ、読売新聞に「ツエッペリン伯號に寄す」という題の詩を寄せています。北原白秋はこの詩の中でツェッペリン号を「銀白の尾白鷲」と呼びたたえています。
お婆さんとツエツペリン / 小川未明 (未明童話集第4巻 東京 : 丸善, 1930 【531-90】)
ツェッペリン号の来日は、童話『赤い蝋燭と人魚』などで知られる小川未明の作品にも取り上げられています。
病に臥せっている「お婆さん」は、ツェッペリン号がやってくると聞いて、「昔の人の知らないものを見られる...」と思う一方、「何んだか、すべてが信じられないような、またそれを見るのが、怖しいような、気さえし」ます(p.179-180)。しかし、あいにく周囲の建物にさえぎられ、「お婆さん」の家からは飛行船が見えません。「お婆さん」は、「此処で見えないようなものなら、話に聞く程、たいしたものではないんだよ」と言い、世の中が急激に変わるわけではないと安心します(p.181)。その後、「お婆さん」は子供や孫たちに見守られて亡くなります。
この童話では、科学の発達を称賛する「息子や孫達」など周囲の人々と、世の中の進歩を認めつつも、戦争への不安や、暮らしづらさを感じている「お婆さん」とが対比的に描かれ、文明批評的な趣きも感じられます。
宇垣一成日記 第1 / 角田順校訂 東京 : みすず書房, 1968 【312.1-U459u2】
当時、発足したばかりの浜口雄幸内閣で陸軍大臣を務めた宇垣一成の日記です。1929(昭和4)年8月19日夕の項では、「雄姿」を「帝都の上」に現したツェッペリン号について、「ツェ伯及其後継者の努力及独逸の科学の結晶に外ならざると同時に独逸人の努力と独乙国の科学の代表的発現とも見るべきである」(p.728)と記し、実用としては改善の余地はあるものの、「万里遠来の珍客」に対して「満腔の敬意を表す」と、ドイツの科学水準の高さを称賛しています。その一方で、「<一般の歓迎振りは少しく狂気ヂミたる処あり。>」とも記し、世間の熱狂ぶりを冷静に見つめる様子が窺えます。
ツエッペリン号 / 池部良(そよ風ときにはつむじ風 / 池部良著 東京 : 新潮社, 1995.7 (新潮文庫) 【KD655-E424】)
映画『青い山脈』などに出演した俳優、池部良のエッセイです。破天荒な父、洋画家・漫画家の池辺鈞(ひとし)との思い出を記しています。このエッセイでは、東京上空にツェッペリン号が飛来することを聞いた「父」が、飛行船を見たいと言いだし、「良も後学のために、是非、見たがいい」(p.125)と、息子の手を引っ張って、近くの火の見櫓に登ります。息子は、そのとき見たツェッペリン号の様子を、「胡瓜は真桑瓜になり、真上に来た時には、形のいい糸瓜のようだった。糸瓜は三分もかからないで火の見櫓の屋根と樹の葉の陰になり、プロペラの音を残して目の外に去った」(p.126)と記しています。ちなみに、飛行船が飛び去った後、高いところが苦手な「父」は、顔が「土気色」になってしゃがみこんでしまい、それにつられて「良」も腰を抜かしてしまいます。「二人の消防団員の背に、縄で十文字にくくりつけられ」て降りた、という落ちで締めくくられています。
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