現代でも、有名なお花見スポットは日本各地にありますが、江戸時代の人々も名所へと花見に繰り出しました。第1章では、江戸および江戸近郊にある桜の花見の名所を、当館所蔵の錦絵とともに紹介します。
江戸時代には、「名所図会」など、名所を紹介するガイドブックの役割を果たす書物が多数出版されました。大都会である江戸に名所はたくさんありましたが、とりわけ外せないのが上野でした。現代でも、上野は大勢の人々でにぎわいますが、江戸時代でも随一の人気を誇っていました。
上野が花見の名所になったのは、徳川家の菩提寺である寛永寺の境内に、徳川家光が吉野を模して桜を植樹させたのが始まりです。江戸の中心部からも近く、多くの人々が花見に訪れました。しかし、楽器を打ち鳴らしながら飲めや食えやの大騒ぎが問題になり、花見が禁止されたこともありました。
「花の雲 鐘は上野か 浅草か」
松尾芭蕉にそう詠まれたように、浅草は上野に並ぶ花見の名所でした。
上野の寛永寺は徳川家の菩提寺であったため、暮六つ(午後六時頃)の鐘とともに山門が閉ざされ、見物人は追い出され、夜桜は禁止されていましたが、浅草など他の名所では、このように夜桜も楽しめました。
現在の東京都品川区北品川にあった御殿山は、徳川吉宗の時代、花見の名所として整備されました。海を行きかう船が見え、芝の増上寺の鐘が聴こえる、江戸の中心部からも近い立地にありながら、雄大な景色を楽しむことができ、大いににぎわいました。しかし、ペリーが来航した際、幕府は砲台を築くために御殿山を切り崩し、その後の開発などで、残念ながら花見の名所は縮小されました。
これから宴が始まるのでしょうか?女性が花見重箱を開いている様子がわかります。
もともと隅田川沿いの桜は徳川家綱のころから植えられていましたが、隅田川東岸の向島から千住まで一里(約4キロメートル) にわたり、徳川吉宗が桜を増植させ、花見の名所となりました。
隅田川東岸への行き帰りは、このように渡し船で隅田川を渡りました。花街である新吉原が近いため、芸者衆をつれた華やかな花見も見られました。
現在の東京都北区飛鳥山公園にあたるこの地は、徳川吉宗が桜を数千株植樹させ、花見の名所としました。これまで紹介した名所よりも江戸の中心部から遠方でしたが、「足立郡の広地、眼下に見えて、(中略)佳景云ばかりなし」(該当箇所)と『江戸遊覧花暦 4巻』(岡山鳥著 ; 長谷川雪旦画 天保8(1837)【特1-1952】) にあり、この錦絵にあるような素晴らしい景色が見られたようです。
北に見える山は、2つの山頂を持つ双耳峰である筑波山です。第3章「江戸名所飛鳥山花見之図」にあるように、西には富士山も見えました。
飛鳥山の花見では「土器(かわらけ)投げ」という遊びが流行しました。飛鳥山の崖の上から素焼きの小皿を投げるという、単純な、スポーツに近い遊びでした。人口過密都市に住む江戸の人々は、広々とした飛鳥山でのびのびと遊び、日頃のストレスを解消していたようです。
現在の東京都台東区千束にあたる新吉原は、目抜き通りに普段は植えられていない桜を移植し、散ると撤去するという、人工的な期間限定の花見の名所でした。『江戸遊覧花暦 4巻』(【特1-1952】) には、「葉桜になりても人なほ群集す。」(該当箇所)とあり、人気を集めていた様子がうかがえます。
満開の夜桜が行灯に照らされ、その中を花魁道中が練り歩く、吉原ならではの幻想的で非日常的な光景を、江戸の人々は楽しんだようです。
徳川吉宗による新田開発の際、新田を管理していた川崎平右衛門らが小金井橋を中心とする玉川上水両岸約6キロメートルに桜を植樹し、花見の名所となりました。江戸の中心部からは七里半ほど(約30キロメートル)と徒歩では遠いため、日帰りではなく、宿泊をして楽しむ花見でした。
一枚目が広重一世によるもので、二枚目が広重二世(立祥)によるものです。絵の左手前には大きく桜の木が描かれ、奥には富士山という構図は同じですが、広重一世の絵では、木にあいた穴から富士山を覗くという斬新な構図となっています。
本章で紹介した花見の名所を、現在の東京の概略図でその位置を示しました。おおよその位置関係を知る手掛かりとして、ご覧ください。
なお、電子展示会「写真の中の明治・大正」には明治以降の各名所の写真も掲載されています。
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第2章 品種いろいろ