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錦絵の製造と販売

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錦絵(本問屋(鶴屋喜右衛門)の店頭)の資料画像を新しいウィンドウで開きます。

錦絵(本問屋(鶴屋喜右衛門)の店頭)
江戸名所図会 (新しいウィンドウが開きます) / 斎藤長秋 編[他]【W245-20】

「錦絵 江戸の名産にして他邦に比類なし。中にも極彩色殊更高貴の御もてあそびにもなりて、諸国に賞美する事、もっとも夥し。」

『江戸名所図会』にはこのような記述があり、錦絵は江戸庶民に愛好されただけにとどまらず、高貴な人々や、地方でも人気があったことがわかります。

土産物になるほどに大量に、安価に供給できるようになったのは、絵師、版元、彫師、摺師による生産体制が整ったからでした。

生産から販売までの流れ

版元とは絵草子屋や地本問屋のことで、現在でいう出版社、プロデューサーの役割です。版元は企画を立てて、絵師に絵を依頼します。逆に絵師が版元に絵を持ち込むこともありました。(図(1))絵師は版元の依頼に応じた下絵を描きます。この段階では下絵は輪郭が墨一色で描かれているのみで、まだ色はありません。(図(2))下絵は版元を通じて、改め(検閲)に出されます。(図(3))浮世絵の検閲制度は寛政の改革(1787-93)によって開始され、寛政3(1791)年正月からは検閲を受けたことを表す「改印」が錦絵の画面に摺りこまれるようになりました。当初、検閲は、地本問屋仲間から選ばれた行司が担当していましたが、天保の改革(1830-44)を機に問屋仲間が廃止されてからは、絵草子掛名主が検閲を行いました。

改めを受けた下絵は、彫師に渡されます。彫師は下絵を版木に裏返しに貼りつけて、墨版と呼ばれる版木を彫ります。墨版には下絵と改印が一緒に彫り込まれます。彫りあがったら、墨摺または校合刷り(下左図)と呼ばれる墨一色で摺ったものを何枚も摺って絵師に届けます。(図(4))絵師はここで色を指定し、彫師はそれに従って色版を彫ります。(図(5))墨版、色版は摺師に渡され、絵師は最初に摺りあがったものを見て、彫りが間違っているところがあれば彫師に、色合いやぼかしなどは摺師に修正指示を行います。これで1つの作品がようやく仕上がりとなります。できあがった錦絵は、版元が自らの店舗で販売したり、小売専門の絵草子屋に卸して盛り場などで売られました。(図(7))

通説では、初摺の枚数は一杯(200枚)とされており、売れればどんどん増し摺り(後摺)されました。一般的には1枚の版木からおよそ1,000枚から1,500枚、よく売れるもので約2,000枚が摺られたようです。人気のあった歌川広重の『東海道五十三次』は、作によっては五十杯(10,000枚)以上も摺ったと伝えられています。また、『浮世絵の鑑賞基礎知識』でアダチ版画研究所の安達以乍牟氏は、葛飾北斎の『凱風快晴(赤富士)』は絵柄の山の稜線が消えるほど版木が摩耗していることから、最も数多く摺られた浮世絵ではないかと推測しています。

普通の錦絵1枚の値段は蕎麦一杯程度であったと伝わっています。吉田藩の儒学者、山本恕軒の日記『己未東遊記草』(安政6(1859)年)によると1枚24文であったと書きとめられており、現在の貨幣価値にすれば数百円といったところでした。人気絵師の作品や、色数が多く、彫りや摺りの上等なものは高価なものもありました。

式亭三馬の『浮世風呂』では湯屋の脱衣所で、子どもたちが役者絵をやりとりし、その出来映えを評する場面があります。(該当箇所)(新しいウィンドウが開きます) また、郡山藩の藩主柳沢信鴻のぶときの『宴遊日記』には出入りの本屋が草双紙や錦絵を屋敷に届けに来たことや、信鴻が江戸市中に出た時には、しばしばお土産に買い求めたことが記されています。このように錦絵は大名から子どもまで、幅広い層に浸透していました。

今様見立士農工商の資料画像を新しいウィンドウで開きます。

今様見立士農工商 (新しいウィンドウが開きます) / 豊国 : 魚栄, 安政4【寄別2-8-1-1】
錦絵屋の店先、役者絵や風景画が並べられ、左端には『名所江戸百景』の宣伝も見える。

引用・参考文献

  • 浮世絵の鑑賞基礎知識 / 小林忠 ; 大久保純一著 東京 : 至文堂, 1994 <請求記号:KC172-E56>
  • 浮世絵 : カラー版 / 大久保純一著 東京 : 岩波書店, 2008 (岩波新書) <請求記号:KC172-J22>
  • 浮世絵鑑賞事典 / 高橋克彦著 東京 : 講談社, 1987 (講談社文庫) <請求記号:KC172-97>