目黒
東京都 目黒区
目黒
目黒川中流の両岸に位置する地域名。両岸には平野が広がり、川の南には海抜25~30mの傾斜がゆるい台地、北には海抜30~45mの高低差が激しい台地「淀橋台」がそそりたつ。千代が池のある島原藩主松平主殿頭(とのものかみ)の屋敷や爺々が茶屋は、この淀橋台の南西の端にあり、切り立った台地の上からは、眼下に目黒川や平野が見渡せ、富士山を見るのに絶好の場所として人気を博した。
錦絵・絵画等
東都目黒夕日か岡
名所江戸百景 目黒爺々が茶屋
名所江戸百景 目黒千代か池
東都目黒夕日か岡
東京名所三十六戯撰
目黒の富士
江戸時代に成立した民衆宗教の一つに、富士山信仰の講社「富士講」がある。道徳的行動を実践することで富貴な身分への生まれ変わりを約束し、加持祈祷による病気平癒や吉凶を占う「焚き上げ」が霊験あらたかだとされ、多くの信者を集めた。修行のため、行者として富士山に集団登拝したが、登山できない人のために、富士山を模して富士塚を築いた。目黒元富士や新富士は、その中の一つで、前者は文化9(1812)年伊右衛門という富士講の先達が願主となり、後者は、文政2(1819)年北方探検家、書物奉行、書誌学者である近藤重蔵(こんどうじゅうぞう)がこの地にあった別邸に築いたものである。6月1日の山開きはどちらも大変な賑わいで、江戸名所の一つとなった。
錦絵・絵画等
名所江戸百景 目黒新富士
名所江戸百景 目黒元不二
太鼓橋・行人坂
滝泉寺(目黒不動)の方角から目黒川に架かる太鼓橋を渡り、長さ約140mの急坂行人坂を登って行くと、右手に明王院、大円寺と続き、坂の上左手には茶屋があった。太鼓橋は、享保(1716-1736)の末、木喰上人が、八丁堀の商人達の援助を受けて完成させたもの。行人坂は、寛永(1624-1644)の頃、出羽三山の一つ湯殿山(ゆどのさん)の大海法印(だいかいほういん)という行人(行者)がこの地で修行を始め、次第に多くの行人が集まり住むようになったことが名前の由来。大円寺は、江戸三大火事の一つ、明和9(1772)年の「目黒行人坂の火事」の火元と言われており、犠牲者供養のために約50年かけて石工が完成させた釈迦三尊像及び五百羅漢像約520体が境内の三方を囲んでいた。
錦絵・絵画等
江戸名勝図会 行人坂
目黒行人阪之図
江戸自慢三十六興 目黒行人坂富士
名所江戸百景 目黒太鼓橋夕日の岡
その他の資料
- 行人坂(本文) 『江戸名所図会 7巻』(1834)
- 夕日岡 行人坂(挿絵) 『江戸名所図会 7巻』(1834)
- 太鼓橋(挿絵) 『江戸名所図会 7巻』(1834)
- 太鼓橋(本文) 『江戸名所図会 7巻』(1834)



