思想家。膳所藩の貢進生として大学南校に入学するが、制度が変わり、東京開成学校に学ぶ。在学中選抜され、明治9(1876)年イギリスに留学。15年東京大学予備門長。18年辞職後に主に在野で多彩な言論・教育活動を行う。21年に三宅雪嶺とともに政教社設立に参加、雑誌『日本人』を発刊し、国粋主義を唱える。また東京英語学校の設立、称好塾を経営し、青少年の教育に尽力した。のち東亜同文書院長等を経て、大正3(1914)年東宮御学問所御用掛となり倫理を進講した。