萩藩士。藩校明倫館に学ぶ。戊辰戦争では萩藩の干城隊参謀として、越後方面で活躍。その際の会津藩士秋月韋軒宛の手紙は名文とされている。また、秋月から山川健次郎(後の東京帝国大学総長)等の少年を預かる。明治政府では佐渡で越後府権判事を務めるが、辞職し、帰郷。明治9(1876)年、 前原一誠らと共に決起(萩の乱)するも、捕縛され処刑された。