第1章 為政者とその周辺水戸藩儒
青山延于(あおやま のぶゆき) 1776-1843
江戸時代後期の水戸藩士、儒学者。通称量介、号拙斎。彰考館総裁として『大日本史』編纂を進め、弘道館の教授頭取ともなった。主著に『皇朝史略』がある。徳川斉昭の部屋住み時代からの師で生真面目な人柄だが、議論好きで斉昭を困らせたという。斉昭の藩主擁立に動いた1人でもあった。
12 青山延于書簡(『青山延于・延光書簡』のうち)〔天保10(1839)年〕月未詳29日【WA25-34】
延于が長男延光(量太郎)に、蛮社の獄の情報を送った書簡。蛮社の獄は、天保10(1839)年に起きた蘭学者などに対する弾圧事件で、5月14日に渡辺崋山(登)が検挙され、18日に高野長英が自首した。書簡では、崋山や長英が入獄し、大騒ぎになったと記す。さらに、主君徳川斉昭や水戸藩士と懇意であった幕府代官羽倉簡堂、江川太郎左衛門まで嫌疑の対象となっていることに対し、「心配候事存候」と述べている。
この書簡は事件から間もない時期に記されたものであろうか。ごく簡潔に記されていることが、緊急性を物語るようである。
藤田東湖(ふじた とうこ) 1806-1855
江戸時代後期の水戸藩士、儒学者。通称虎之介、誠之進。水戸藩士藤田幽谷の次男として生まれ、徳川斉昭を支えて藩政改革を推進した。尊王攘夷運動に大きな影響を与えたが、安政の大地震で圧死した。生真面目な青山延于に比較して、幽谷・東湖父子は大酒飲みで、豪放な人物であったという(山川菊栄『幕末の水戸藩 覚書』【GB354-E41】)。
13 藤田東湖書簡(『藤田東湖書簡』のうち)〔安政元(1854)年〕9月14日【WA25-30】
東湖が青山延于の長男延光(量太郎)と会沢正志斎(憩斎)に送った書簡。藩校弘道館への孔子廟設置や鹿島神社分祠などについて記している。弘道館は天保12(1841)年に仮開館し、この時期本開館の準備を進めていた。追伸では、8月23日に結ばれた日英約定について、イギリスがロシアに戦争を仕掛ける意思を持っていたことや、イギリス船が長崎と箱館へ入港した際に必要品を供給することで落着したことなど、飛脚で届いた情報を送っている。東湖は、長崎奉行水野忠徳(筑前守)が下田の開港を許さず、長崎と箱館の2港開港にとどめたことを評価した。
水戸学関係の資料群
当館は、江戸時代後期の水戸藩の学者が所蔵していた資料を多数所蔵している。小宮山楓軒・南梁の「小宮山叢書」、西野宣明の日記などのほか、代々水戸藩儒の家であった青山家に伝わった青山家関係の手稿本や旧蔵本、書簡類も多数所蔵している。
なかでも青山家旧蔵の書簡類は、徳川斉昭・藤田幽谷・藤田東湖・会沢正志斎・豊田天功・青山延于・青山延光のもの、総計1,000通近くになる。本電子展示会に掲載した『源烈公真筆』『青山延于・延光書簡』『藤田東湖書簡』はいずれも、そのうちの一部である。「小宮山叢書」、青山家旧蔵の書簡類は、ほとんどが国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧でき、幽谷・天功の書簡は『国立国会図書館所蔵貴重書解題』第14巻,第15巻【UP72-2】に翻刻されている。
青山家略系図