第2章 著作をめぐって戯作者
山東京伝(さんとう きょうでん) 1761-1816
江戸時代後期の戯作者、読本作家。号は醒斎。大田南畝に評価され、花形作家となる。黄表紙、合巻(いずれも大衆的な絵入り小説本で、長編で合冊したものが合巻)、洒落本(主に江戸で流行した遊里文学)、読本(挿絵が少なく文を読むことを主体にした本)など様々な文学ジャンルで活躍したほか、考証随筆の著作もある。さらに、北尾政演の名で浮世絵も描く才人であった。
18 山東京伝画入書簡〔文化10(1813)年頃〕4月6日【WA47-13】
京伝が、絵師で鑑定家の菅原洞斎に宛てた書簡。虫の垂絹(平安時代から鎌倉時代にかけて、笠の周囲にたらした布)や蚊帳の図の模写を依頼し、『法然上人絵巻』に描かれた編笠の事や、『福富草紙』の製作年代などを問合せたもの。京伝には好古癖があり、古器物などに関する考証随筆『骨董集』には「女の編笠塗笠」や「虫の垂絹の古図」の項目がある(18関連資料)。同書の材料収集をしていた時の書簡であろう。京伝の好古癖が筋金入りであったことは、次の書簡によってよくわかる。
18関連資料:骨董集(版本) 山東京伝著 鶴屋喜右衛門〔ほか1名〕刊 文化12(1815)年【841-11】
京伝の考証随筆『骨董集』上篇下巻にある「虫の垂絹の古図」の部分。様々な文献の掲載例を集めている。
19 山東京伝書簡(『曲亭来簡集』のうち) 〔文化12(1815)年7月~8月頃〕【WA25-21】
京伝が曲亭馬琴に宛てた書簡。クライマックスは「著述などの心は少しもなく候得とも、これもせねばならぬせつなし業と存候へばますますいやに相成候」と著作の苦しみを吐露する部分であろう。さらに、好古癖があるので随筆執筆には楽しみがあるが、手間が多く、両方よいものはないという。さかのぼれば、この手紙より10年ほど前の作品『作者胎内十月図』(19関連資料)でも、執筆の苦しみを懐妊の10か月に例えていた。
若い頃苦労せずに後悔ばかり、身体が衰え何事も思うに任せないとの愚痴からは、華やかな人気作家京伝の心中をうかがい知る事ができよう。
19関連資料:作者胎内十月図(山東京伝自筆稿本)〔文化元(1804)年〕【WA19-9】
妊娠2か月目に例えられた、黄表紙著作の発想が浮かばず苦しむ段階の場面。右の急須の顔をした守本尊は「作無理如来」(釈迦牟尼如来のモジリ)。この時期は構想がまとまらず、茶ばかり「がぶがぶ」飲むので、急須の顔なのだとか。
柳亭種彦(りゅうてい たねひこ) 1783-1842
読本・合巻作者。本名を高屋知久といい、代々幕府に仕える旗本であった。初め読本を記したが成功せず、合巻に転向する。『偐紫田舎源氏』(紫式部の『源氏物語』を翻案した長編小説)で人気を博したが、発禁処分にあった。『還魂紙料』『用捨箱』などの考証随筆も記している。
20 柳亭種彦書状〔天保元(1830)年〕12月2日【WA25-93】
種彦が弟子の笠亭仙果に宛てた書簡。病気になった種彦が『国字水滸伝』10編から12編にかけての代作を依頼したもの。13編は自分が書くつもりであることや、筆耕(浄書する人)は多くない方がよいことなどを伝えている。実際に13編は種彦が記したが、14編以降は仙果らが再び代作をした。後半には、江戸で雨が降らず、一昨日には火事があって火元に近い板元鶴屋や西村屋でも類焼を恐れて大騒ぎになったが、幸い難を逃れたことなどが記されている。
21 柳亭種彦自筆書簡〔天保2(1831)年〕4月4日【WA25-86】
掲載資料20の半年後に、種彦が同じく仙果に送った書簡。病気だった種彦は、4、5日前から起きることができるようになったが本調子ではなく「遊んでばかりくらし」ていたこと、仙果が種彦の代作をした『国字水滸伝』12編が届いたこと、女浄瑠璃が禁止されたので以前のような挿絵は憚らねばならないことなどを記している。後半では、書簡を届ける人物を紹介し、「手がみにかきとれぬ事」は伝言するよう依頼する。各地を旅して初秋に帰る予定とあるので、伝言があったとしても、種彦に届いたのは数か月先のことであっただろう。
21関連資料:国字水滸伝(版本)柳亭種彦著 歌川国芳画 西村屋与八刊 天保元(1830)年 東京都立中央図書館所蔵(特別文庫 特649)
中国の小説『忠義水滸伝』を抄訳大衆化したもの。書簡中に「水コ伝」と登場する。山東京伝の弟京山による『稗史水滸伝』が俗語を用いすぎて評判が悪く、7編から種彦に依頼が回り、『国字水滸伝』と改題した。だがその後、笠亭仙果などが代作することになる。当館未所蔵。写真は東京都立中央図書館が所蔵する8編下の部分。
曲亭馬琴(きょくてい ばきん) 1767-1848
滝沢路(たきざわ みち) 1806-1858
江戸時代後期の小説家。『椿説弓張月』『南総里見八犬伝』などの著作で知られる。馬琴は、天保5(1834)年頃より視力が衰え、同11(1840)年にはほとんど失明した。その後は、早世した長男の嫁である路が『南総里見八犬伝』原稿や書簡の口述筆記をした。
22-1 曲亭馬琴書簡(馬琴自筆)(『曲亭馬琴書簡』のうち)〔天保3(1832)年〕5月21日【WA25-27】
馬琴が、伊勢松坂在住の愛読者で友人の殿村篠斎に送った書簡。約300行に及ぶ。書物の貸借のこと、『南総里見八犬伝』のこと、書の染筆(揮毫)のことなどが記されている。また、『八犬伝』新刊を19日に入手したが、20日は飛脚が休みなので今日(21日)送ったこと、店に出た300部は40部を残し発売当日に売れたこと、通常、約60日かかる校合を約20日で行い、印刷も複数の店に依頼して、製本完成まで約30日だったことなども記されている。
22-2 曲亭馬琴書簡(滝沢路代筆、返し書き部分は馬琴自筆)(『曲亭馬琴書簡』のうち)〔天保12(1841)年〕1月28日【WA25-27】
これも馬琴が殿村篠斎に送った、約450行の長文書簡。本文は路の代筆である。年始の挨拶や、自分の著作のことなどが記されている。『南総里見八犬伝』執筆にあたって路に口述筆記させたが、「文字を教候得ば文句愚かに成候、文を旨とおしへ候得ば字に差支候」として、その苦心を察してほしいと記す。書簡に紙を貼って書き直している部分は路の努力の跡と思われるが、返し書き(冒頭の小字部分。追伸にあたる)に自筆で「誤字も多、且読かね候処も有之可候」、と遠慮なく念を押す。馬琴の苛立ちもさることながら、路の苦労も目に浮かぶようである。