第4章 日露戦争の軍人
東郷平八郎(とうごう へいはちろう) 1847-1934
明治から昭和期の海軍軍人。薩摩藩士の家に生まれ、イギリス留学などを経て、日清戦争では巡洋艦浪速の艦長として活躍。日露戦争では、連合艦隊司令長官として日本海海戦でロシアのバルチック艦隊に勝利し、一躍名をあげた。日露戦後、東宮御学問所総裁などを務めたのちに元帥となった。
67 東郷平八郎書簡 明治40(1907)年6月【大山巌関係文書(寄託)32-135】
海軍軍令部長の職にあった東郷から、元帥の大山巌に宛てた書簡。日露戦争の際に東郷が入手したロシア軍の秘密文書など、今後の参考となる資料を送るという内容である。日露戦争当時、東郷は連合艦隊司令長官として、一方で大山は満洲軍総司令官として出征し、ともに日本の勝利に貢献した。
乃木希典(のぎ まれすけ) 1849-1912
明治期の陸軍軍人。長州藩士の出身。陸軍に任官し、西南戦争・日清戦争に従軍、台湾総督などを経て、日露戦争では大将、第3軍司令官として旅順攻撃を指揮した。明治天皇に信任され、学習院長に就任した。明治天皇の死に際し、妻とともに殉死した。
68 乃木希典書簡 明治38(1905)年11月21日【石黒忠悳関係文書926】
乃木から石黒忠悳に宛てた書簡。日露戦争の講和条約は明治38年(1905)年9月5日に調印され、日本政府は同年10月14日に批准した。第3軍司令官として出征していた乃木は、その年の12月に奉天北方の法庫門を発し、帰国の途についた。この書簡は法庫門に滞在中、復員を待つ間のものであり、石黒の問い合わせに回答する形で、西南の役、日清、日露の各戦争で使用した軍銃について述べている。石黒は日本の軍医制度の確立に尽力した人物であり、この当時は東京の臨時陸軍検疫本部で御用掛を務めていた。
秋山真之(あきやま さねゆき) 1868-1918
明治・大正期の海軍軍人。海軍兵学校卒業後、アメリカ留学を経て海軍大学校教官となり、日露戦争では連合艦隊作戦参謀として各海戦で活躍、戦略家として知られた。日本海海戦の際に大本営に打電した「本日天気晴朗ナレドモ波高シ」の報告文は有名である。大正6(1917)年、海軍中将となった。
69 秋山真之書簡 明治35(1902)年1月25日 【斎藤実関係文書(書簡の部)254】
常備艦隊参謀の秋山少佐から、海軍総務長官斎藤実に宛てた書簡。策定中の海軍拡張計画の参考とするべく、当時すでに実行に移されていた米国の海軍拡張計画の進捗表などを送るという内容である。海軍では日清戦争後に3期に分けて拡張計画を実行しており、斎藤は第1期で海軍次官として関わって以降、拡張計画実現のために奔走していた。なお、日露戦争の日本海海戦において、秋山が作戦参謀として乗船することになる連合艦隊の旗艦「三笠」も、この一連の拡張計画により英国で建造された。