第7章 学者
牧野富太郎(まきの とみたろう) 1862-1957
植物学者。小学校中退後に独学で植物学を研究し、東京帝国大学理科大学(のちの東京大学理学部)助手や講師を務めながら、新種1,000種、変種1,500種に命名し、「日本の植物学の父」と呼ばれた。
76 牧野富太郎書簡 大正7(1918)年11月26日【渡辺千秋関係文書1122】
牧野から、渡辺千秋伯爵家に滞在中の緒方益井という人物への書簡。内容は、植物の「辛夷」についての問い合わせへの返答である。こぶしの花の図が描かれ、追伸には、実物の花が入用なら来春花が咲いたときに送ることまでが書かれている。問い合わせに熱心に答えている様子からは、植物に関する啓蒙書を多く残した牧野らしさを感じることができる。宛名の緒方は奈良帝室博物館学芸委員などを務めた人物である。
白井光太郎(しらい みつたろう) 1863-1932
植物学者。ドイツに留学後、東京帝国大学農科大学などで教鞭をとり、植物病理学の発展に大きく寄与した。その一方で、明治24(1891)年 、わが国の博物学発展の経緯を初めて系統的にまとめた『日本博物学年表』を上梓、また天然記念物の調査、保存にも努めた。白井旧蔵の本草学関係の和漢洋の古書など約6,000冊は、白井文庫として当館に受け継がれている。
77 伯林菌譜 明治32(1899)-34(1901)年【特1-3645】
白井は明治32(1899)年7月から34(1901)年10月までドイツに留学した。本書はその留学時のキノコのスケッチや、酵母などについての筆記。掲載箇所は、ビール醸造用の麦芽(Malts)について図示し製法を記したもの。白井は画技に優れ、画家になることも考えたという。前ページ(右画像)には「伯林ゼエストラアセ醸造学校マルツ室にて」採集した麦芽の標本が、封筒に封入されたまま綴じられている。「白井文庫」には日記を含む白井自身の稿本も含まれているが、いずれも細かな文字でびっしりと記され、時に生き生きとした図を伴って筆者の息遣いを伝えている。
南方熊楠(みなかた くまぐす) 1867-1941
民俗学者、生物学者。日本民俗学の創始者の1人。和歌山県出身。東京大学予備門を中退し明治20(1887)年渡米。のちイギリスの大英博物館東洋調査部に勤務しながら動植物学、考古学、宗教学などを独学で研究。『Nature』誌などに寄稿。明治33(1900)年に帰国後は和歌山県田辺に住み、粘菌類(変形菌類)などの採集・研究を進める一方、民俗学にも興味を抱き、民俗学の草創期に柳田國男とも深く交流して影響を与えた。
78 白井光太郎宛書簡 昭和2(1927)年10月24日【W391-N40(31)】
白井光太郎の著書を読んでの問い合わせの葉書。南方と白井は柳田國男の縁で文通を始め、終生良好な関係を保った。この書簡で南方は、白井の代表作『日本博物学年表』(増訂版 明治41(1908)年)元禄12(1699)年の条の「西京園丁某千代見草三巻ヲ作リ上木ス」について、千代見草は菊や松の異名だが、これは何についての書物かを尋ねている(『千代見草』は菊の本)。追伸では、16、7歳の頃に東京図書館(当館の前身の1つ)で『博物雑誌』を見たが、本邦初の博物学関係雑誌ではないかと記す(この『博物雑誌』は当館で現在も所蔵している)。文中の「小野職愨」は小野蘭山の玄孫の博物学者。
※表書きの画像は大正15(1926)年10月19日付葉書。
葉書はいつからあるの?
官製葉書は明治6(1873)年に始まりました。「葉書」の言葉の由来は、巻紙(→豆知識「紙の大きさと種類」参照)の手紙の右端部分の返し書き(→豆知識「手紙の続きは、一番最初に戻って書く」参照)を「端書」とも呼んでいたことからだといわれています。
現在のように様々な図柄の絵葉書を自由に使うことができるようになったのは、明治33(1900)年、私製葉書が認められるようになってからです。特に、明治37(1904)年から38(1905)年の日露戦争では逓信省発行の戦役記念の絵葉書が爆発的に売れ、絵葉書ブームが起きました。
内藤湖南(ないとう こなん) 1866-1934
東洋史学者。名は虎次郎。秋田県出身。秋田師範学校卒業後上京し、ジャーナリストとして活躍。中国、満洲にしばしば赴いて学術調査を行った。明治40(1907)年京都帝国大学講師となり、のち教授。その広範な東洋学を体系化した。日本史にも業績があり、近世の学者として富永仲基、三浦梅園、山片蟠桃を評価するなど、卓抜な識見を示した。明治文壇の評論家、書家としても有名。
79 翁の文 富永仲基著 富士屋長兵衛刊 延享3(1746)年【WB1-4】
江戸中期の思想家富永仲基の代表的著作。かなで書かれ、庶民向けに、神儒仏よりもさらに大切な誠の道を説いている。亀田次郎が大正13(1924)年に入手して初めて伝存が判明し、新聞などにも報じられた。掲載箇所は、この亀田発見本に書かれた内藤による跋文。30余年探していた本書発見の報に「驚喜」し、すぐに「玻璃板」(コロタイプ印刷)で複製本を作った経緯などを、風格のある文字で記す。文中の「吟風」は亀田の号。発見の報は、当時、亀田が国語学を教えていた大阪外国語学校の蒙古語部にいた石浜純太郎(東洋学者)が、内藤に伝えたようで、「拝借出来候へば可成早急に願いたく」と内藤の興奮した様子がうかがえる書簡が残る(大正13(1924)年1月23日付石浜宛書簡。当館は亀田による写しを所蔵)。
野口英世(のぐち ひでよ) 1876-1928
医学者、細菌学者。伝染病研究所の助手を経て、ロックフェラー医学研究所に勤め、細菌学を研究した。黄熱病や梅毒の研究で有名。ノーベル生理学・医学賞の候補にもなったが、黄熱病の研究中に自身も罹患し、ガーナのアクラで病没した。
80 野口英世書簡 大正8(1919)年4月28日【石黒忠悳関係文書936】
野口英世から、陸軍軍医で当時日本赤十字社社長だった石黒忠悳に宛てた書簡。前年の大正7(1918)年6月に黄熱病研究のためにエクアドルに派遣されたこと、多分黄熱病の原因菌を発見できたであろうことなどが書かれている。しかし、このエクアドル出張は野口の黄熱病との闘いの始まりに過ぎず、黄熱病の原因究明は10年後にアフリカの地で没するまで続けられた。石黒は野口と同郷の福島県出身で、日本の軍医制度の基礎を築いた人物である。
亀田次郎(かめだ じろう) 1876-1944
国語学者。兵庫県出身。東京帝国大学卒業後、国語調査委員会嘱託となり「音韻調査報告書」「口語法調査報告書」など、標準語制定のための調査・編纂事業に携わる。のち第七高等学校(のちの鹿児島大学)、大阪外国語学校、大谷大学などの教授を歴任。古辞書や韻書の研究、西洋人による日本語研究などに業績を残した。室町時代から明治までの系統的な「節用集」(通俗辞書)コレクションを含む亀田旧蔵書6,900冊は、金田一京助らの斡旋で亀田文庫として当館の蔵書となっている。掲載資料111、115も亀田旧蔵書である。
81 御国辞活用鏡2巻 本居宣長著 亀田次郎写 明治37(1904)年【815.4-M8932m2】
19歳の亀田が帝国図書館所蔵本(81関連資料)を書写したもの。巻末の書写奥書に「帝国図書館所蔵の古写本によりこれを謄写す」とある。字配り、行間もまったく同じで、親本の上に紙を置いて透き写ししたものか。親本と写本とが共に当館の蔵書となったのも奇縁といえよう。本書は「活用言の冊子」「言語活用抄」「御国詞活用抄」ともいい、日本語の活用について記したもの。なお、亀田旧蔵書の中には東京帝国大学所蔵本を写した『御国詞活用抄』もあり、朱字で帝国図書館本、青字で小田清雄編活字本(明治19(1886)年刊)との校合を書き入れており、勉強ぶりが偲ばれる。
81関連資料:御国辞活用鏡2巻 本居宣長著 〔江戸時代〕写【126-13】
「写す」ということ―コピー機がない時代はどうしてた?
印刷技術が普及していない時代、本は手で写すものでした。江戸時代に木版印刷による商業出版が盛んになっても手で写すという習慣は続き、手に入りにくいもの、流通させたくないものを、手で写して複製していました。学者たちは貴重な本を借りては写し、借りては写して勉強したものです。福沢諭吉の『福翁自伝』には、適塾の生徒たちが大名からの依頼で蘭和辞書を写してアルバイト代を稼いでいたことが記されています。
そうした感覚は、近代に至っても続きました。亀田次郎は明治37(1904)年、当館の前身である帝国図書館の閲覧室で筆写を行っています。今のような電子式のコピー機が発売されたのは1950年代のことで、当館で電子式の複写業務を開始したのは昭和38(1963)年4月のことでした。
岡田希雄(おかだ きゆう) 1898-1943
国語・国文学者。名は「まれお」「よしお」とも。「きゆう」は僧名。和歌史や音義・古辞書の研究に業績を残した。京都帝国大学に学び、立命館大学教授になったが間もなく休職、46歳で逝去した。青年時以来、病魔と闘う中で学問に専心、その研究・考証は「微に入り細を穿ちて、周到精査を極め」と評されている(遺著『類聚妙義抄の研究』の新村出による序文)。蔵書家としても知られ、旧蔵書約1,400冊は陸軍予科士官学校を経て当館の蔵書となっている。
82 花みつ2巻 岡田希雄写 大正7(1918)年【わ913.4-6】
京都帝国大学所蔵の奈良絵本(御伽草子などに彩色の挿絵を入れた古写本)を当時21歳の岡田が写したもの。奥書には「以流行性感冒勢猖獗之故大学休学也」とあり、スペインかぜ(この年から翌年にかけて世界中で数千万人が死亡したインフルエンザの大流行)で大学が休校になり、その間に写したことがわかる。原本のままに写したが、その真は写し得ていないと惜しんでいる。『花みつ』は室町時代成立の御伽草子で、異母兄弟花みつ・月みつの悲劇の物語。
和辻哲郎(わつじ てつろう) 1889-1960
哲学者、倫理学者。東京帝国大学哲学科に在学中、谷崎潤一郎らと第2次『新思潮』の同人となる。ニーチェ、キルケゴールから、仏教美術、日本思想史へと関心を広げていった。夏目漱石の木曜会に出入りし、雑誌『思想』の編集にも参加。昭和6(1931)年京都帝国大学教授。同9(1934)年東京帝国大学教授。『ニイチェ研究』、『倫理学』のほか、『古寺巡礼』、『風土』、『日本芸術史研究』など文化史研究にも業績をのこす。当館には照夫人によって自筆原稿など82点が寄贈されている。
83 日本古代文化 新稿 〔昭和26(1951)年〕【WB12-70】
『日本古代文化』の最後の改訂となった新稿版の原稿。大正9(1920)年に初版、大正14(1925)年に改訂版、昭和14(1939)年改稿版と改訂を重ねていた。改稿版の序には「この書を書き上げた時ほど嬉しかつたことは一度もない」とあり、長年にわたって改訂し続けた愛着が偲ばれる。掲載資料は、1つ前の版である改稿版のページそのものに細かな修正を加えているほか、大幅な修正は「別紙」として原稿用紙に書き、挿入箇所を指示している。こうしてできあがった新稿版について和辻は、「極めて少しづゝではあるが、前に解らなかった箇所を明かにし得たと思ふ」(新稿版序)と謙虚に喜びを語っている。