第2章 署名(1)
署名をするということには、様々な意味がある。承諾する、自分の作品であることを示す、自分の持ちものであることを示すなど。ここでは、記念としての寄せ書き、豪華装丁本の特典や寄贈のための著者署名、サイン帳、書類への承諾署名、そしてブロマイドなどの写真に添えたサインといった、様々な署名を紹介する。
109 日本国憲法(官報号外)【入江俊郎関係文書46】
昭和21(1946)年11月3日の日本国憲法を公布する官報の号外。憲法公布の記念とするために、当時法制局長官であった入江俊郎が主要な関係者から署名を集めたものと推測される。
[署名した人物と当時の役職]
- 吉田茂 内閣総理大臣兼外務大臣
- 金森徳次郎 国務大臣(憲法担当) ※のちの当館初代館長
- 芦田均 衆議院帝国憲法改正案委員会委員長
- 入江俊郎 法制局長官
- 幣原喜重郎 国務大臣・復員庁総裁[前内閣総理大臣]
- 林譲治 内閣書記官長
- 木村篤太郎 司法大臣
- 安倍能成 貴族院帝国憲法改正案特別委員会委員長
- 山崎猛 衆議院議長
- 徳川家正 貴族院議長
- 清水澄 枢密院議長
- 潮恵之輔 枢密院副議長
植木枝盛(うえき えもり) 1857-1892
思想家、政治家。板垣退助に影響を受け立志社に参加し、愛国社を再興、国会期成同盟を組織。明治政府の専制的政治に反対し、私擬憲法「日本国国憲案」を起草するなど、自由民権運動の指導に当たった。主な著書に『民権自由論』、『天賦人権弁』、『一局議院論』などがある。
110 板垣政法論 板垣退助述 五古周二編 自由楼 明治14(1881)年【特39-254】※(署名は複本である掲載資料のみ)
明治13(1880)年3月に植木が創刊した『愛国志林』(のち『愛国新誌』と改題)に連載されていた論考を、編者が表記題名として出版したもの。裏表紙に植木自筆の題詩がある。
本文冒頭に「無上性法論 板垣退助述 植木枝盛筆記」とあり、板垣の口述を植木が筆記したという体裁をとっているが、板垣が実際にこの理論を構築したかは疑わしく、実質的には植木の著作とする説もある。植木の題詩は、一般的な漢詩の形式は踏まえていないが、植木の雄大な世界政府思想を託したものと思われる。
新村出(しんむら いずる) 1876-1967
明治から昭和期に活躍したわが国を代表する言語学者の1人で、『広辞苑』の編者として知られる。日本語の音韻・系統研究を核とする国語史研究のほか、南蛮文化研究をはじめとする言語・文化研究など多方面で優れた業績を残し、随筆も名高い。特に語源及び語史をめぐる国語史の研究においてはヨーロッパの比較言語学的手法を導入し、この分野の先駆者となった。
111 京都帝国大学文学部考古学研究報告 第7冊 京都帝国大学文学部考古学研究室編 京都帝国大学 大正12(1923)年【14.5-3】※(掲載資料は複本の【202.5-Ky995k】)
新村が国語学者亀田次郎に贈ったもので、表紙の献辞が自筆。
新村は、明治42(1909)年に京都帝国大学教授となり、以後退職まで言語学講座を担当した。また、南蛮文化に関しても継続的に研究を行い、その成果をかねてより交流のあった亀田に献呈した。新村は、しばしば亀田の論文を参照したほか、研究に際し亀田の蔵書(亀田文庫。現在は当館所蔵。)も利用した。掲載資料は、亀田文庫の中の1冊である。収載の新村の論文「摂津高槻在東氏所蔵の吉利支丹抄物」は、彼の代表的著作『南蛮更紗』【536-13】にも収められた。
高村光太郎(たかむら こうたろう) 1883-1956
詩人、彫刻家。彫刻家高村光雲の長男。東京美術学校で彫刻を学ぶ一方、文学にも開眼し与謝野鉄幹の新詩社に入社。欧米留学後、ロダンの翻訳の他、美術評論も多く手掛けた。口語自由詩の確立に貢献し、代表作に詩集『道程』及び『智恵子抄』、彫刻「手」及び「乙女の像」などがある。
112 大いなる日に 道統社 昭和17(1942)年【KH577-J1】
戦争についての詩を集めた最初の詩集。見返しに、著者署名と「美は力なり」という言葉が書かれている。「美は力なり」は、戦中・戦後を通じて色紙や短冊などにしばしば書かれた。愛妻智恵子の死による虚脱感の中、生涯でもっとも困難な時期の光太郎の決意を端的に吐露した言葉である。筆致には、無理や無駄のないその時のありのままの書をよしとした一本気な気質が感じられる。戦時中、光太郎は、戦争が不可避であるなら美の力で人々を鼓舞し、人心の荒廃を防ぐことで文化を守ろうと、戦争を肯定した詩を数々発表したが、後に自らの責任を追及する作品を綴っている。
堀口大学(ほりぐち だいがく) 1892-1981
詩人、翻訳家。詩集『月光とピエロ』、『砂の枕』など。フランスの近代詩を紹介した訳詩集『月下の一群』で日本近代詩に新風を吹き込んだほか、フランスの小説・戯曲の訳も数多く、フランス語の語感の美しさを活かし、美しい和文で紡いだ新しい表現は横光利一、川端康成や若き日の三島由紀夫にも影響を与えた。
113 酔ひどれ船 アルチュウル・ランボオ著 伸展社 昭和11(1936)年【新別よ-1】
19世紀フランスの象徴派詩人ランボー17歳の時の詩集にして彼の定型詩の傑作といわれる長詩『Bateau ivre』(1871)の、堀口による翻訳。あそび紙に堀口の署名入り。
ヴェルレーヌ、コクトー他、数多くの訳詩を手掛けた堀口だが、「この少年詩人のダイヤモンドのやうな作品には、どうしても、歯が立たなかつた」(『ランボオ詩集』昭和24(1949)年)と手を焼いたようで、ランボーの訳はこの1篇の後、10年以上の間があいた。掲載資料は、華やかな京染朱紅羽二重で仕立てられた表紙に、天・地・小口の三方を紅塗金銀箔かけ、皮紐で綴じた限定250部の特製版である。
立原道造(たちはら みちぞう) 1914-1939
詩人、建築家。早くから詩や短歌に親しむ。建築や詩作、絵画など多彩な才能を発揮したが、第1回中原中也賞を受賞した直後に26歳で死去した。日本を代表する叙情詩人の1人。
114 曉と夕の詩 風信子詩社 昭和12(1937)年【KH597-H5】
生前に刊行された2冊の自選詩集のうちの1冊。『萱草に寄す』に次いで同年自費出版された。標題紙後ろに署名入り。
「音楽の状態をあこがれてつくった」立原の意図を表現するような楽譜の形態を模したデザインとなっている。実質的な限定私家版で165部造られた。部立てはなく、10編のソネット(14行の定型詩)を収めている。「風信子」とは立原の好んだ花で、自ら立ち上げた出版社の名前に用い、自宅の3階には風信子詩社の標札が掲げられていた。
115 誕生日 2版 徳富猪一郎編 民友社 明治25(1892)年【159.8-To454t】
サイン帳。片頁に日付ごとに蘇峰(猪一郎)の選んだ箴言や漢詩を配し、もう片頁に記入欄を設けた誕生日の備忘録。家族や友人が各自の誕生日欄に自ら姓名を書き込む。挿画は蘇峰と親交の深かった日本画家の久保田米僊による。
掲載資料は、国語学者である亀田次郎旧蔵書(亀田文庫)の中の1冊で、書入れから亀田の交友関係がうかがえる。
冒頭の序文「誕生節」で蘇峰は、忙しく移り変わりの激しい昨今、折節の「祝節」が必要だが、万人に共通するものとして誕生日が最適である、ヨーロッパではすでに一般的であると説く(日本では「年齢のとなえ方に関する法律」(昭和24年法律第96号)まで数え年が一般的で、誕生日を祝う習慣はほとんどなかった)。本書は1866年にイギリスで出版された聖書と誕生日サイン帳とを兼ねた「誕節聖書」に連なるものであるという。