第3章では、温泉にまつわるこばなしや資料を紹介します。
地下から自然に湧き出し、様々な疾病に効果があるといわれる温泉は、古くから不可思議な力があると人々に感じさせてきました。熊野詣の湯垢離場(ゆごりば)であった湯の峰温泉や松尾芭蕉が詠んだ湯殿山、走り湯泉源のある伊豆山神社などに信仰が残っています。こうした信仰のほかにも、薬師如来を本尊に奉った温泉寺や薬師堂、また土地の神などを祀った温泉神社が各温泉の泉源や浴場の傍らに建てられています。
温泉の発見や開湯については、『出雲国風土記』など神話にあるものや、行基(670~749)などの人物による開湯伝説、下呂温泉の白鷺しらさぎ伝説(『湯の街下呂』【特234-392】)にあるような、動物の関係する逸話などが現在に伝わっています。
7) 水谷弓彦著『絵入浄瑠璃史』下,水谷文庫,大正5(1916)【768.4-Mi97ウ】
本書は絵入浄瑠璃の沿革を上・中・下巻の三冊にまとめたものです。
上の絵は下巻に収録された「小栗判官」のものです。伝説上の人物である主人公の小栗判官は毒酒によって殺されますが、閻魔大王の情によりガキアミ(餓鬼阿弥)として生き返ります。熊野本宮にある温泉で湯治をした結果、元の人間の姿を取り戻し、仇を討つという話です。この湯治をした温泉が湯の峰温泉といわれています。
相撲の番付表にならって様々な事物を東西に分けてランキングする番付は、江戸時代から盛んに行われました。温泉番付もその一つであり、江戸時代から湯治が民間に広まったことと合わさって、さまざまな温泉番付が作られました。江戸時代の番付では最高位が「大関」でしたが、明治時代以降は最高位が「横綱」へと変わっています。
8) 東京番附調査会編『今古大番附 七十余類』文山館書店,大正12(1923)【109-274】
湯治や温泉旅行が大衆に広まってから現代まで、多数の温泉案内が発行されています。各温泉が発行しているものや、地方ごとにまとめたもの、旅行案内の中にコラムとして温泉を紹介するものなど形態もさまざまです。
古くは江戸時代の八隅蘆庵(やすみろあん)『旅行用心集』【209-134】や甲良山編『東講商人鑑(あずまこうあきんどかがみ)』【181-39】の中に温泉や温泉宿の案内があります。
全国と銘打った温泉案内は、全国名所案内社編『全国の温泉案内』【384-246】など大正時代から出てきたようです。
9) 鉄道院編『温泉案内』鉄道院,大正9(1920)【389-28】
日本では、明治時代から先端の交通機関として鉄道の建設が始まり、山間の名勝や遊覧地が人々に知られるようになりました。その中で、当時から有力な観光地であった温泉場を目指した鉄道も全国に誕生しました(池口英司『忘れじの温泉電車 温泉へ向かう鉄道今昔』【DK53-L438】)。
本書は当時の内閣鉄道院の管轄する鉄道を対象に、沿線にある温泉に出かける旅行の計画や運賃の参考となるよう出版された温泉案内です。各路線案内の冒頭に、沿線にある温泉の特徴が書かれており、鉄道を利用した温泉旅行の楽しみ方などが紹介されています。
温泉案内とともに主に江戸時代から全国各地の温泉で作成されるようになったのが、温泉地の全体を絵にした温泉絵図です。『有馬山温泉小鑑』【854-109】や『七湯栞』(第1章参照)といった温泉絵図は、各温泉地で現在刊行されている観光案内パンフレットと比べても遜色ないほど、詳細かつ正確に当時の温泉地情報を記載しています。
また、江戸時代の浮世絵には温泉場や湯治をテーマにした作品が多数あります。
明治時代以降、近代日本の画壇においても温泉を好んで画題に選んだ画家たちがいます。中沢弘光(第2章参照)のほかに、日本画家の今村紫紅(1880-1916)や美人画家として知られる鏑木清方(かぶらききよかた)(1878-1972)は山峡の温泉場を描いています。
10) 目賀田守蔭『火山温泉記』【午-91】
本書では、温泉とは切り離せない火山と諸国の温泉が描かれています。画像の伊香保温泉などの絵図から、温泉を中心に集落が発達していたことが見て取れます。
山間部や山麓にある温泉地は、登山やスキーといったレジャーの流行と鉄道の発達が合わさって、現在まで発展したといわれています(林義一郎『本邦火山・温泉と聚落の発達』【625-289】)。
11) 一陽斎豊国『東海道名所風景』【寄別8-3-1-4】
本書は文久3(1863)年に行われた第14代将軍徳川家茂(1846~1866)の上洛を題材に、20軒以上の版元が16名の絵師を起用して出版された浮世絵版画のシリーズです。江戸日本橋から京都等まで、東海道の宿場や名所が描かれています。画像の「ハコネ湯治」は二代歌川国貞(1823~1880)の作品です(豊橋市二川宿本陣資料館編『東海道名所風景』【KC16-H1992】)。湯治客の背景には箱根の風景が描かれており、芦ノ湯など箱根七湯での湯治を連想させます。
離れた人と連絡を取るのに手紙が一般的であった明治・大正時代には、知人や温泉宿とのやり取りにも手紙を出していました。当時の手紙の文例集や習字用のお手本には温泉や湯治を題材にしたものが散見され、大衆に広まっていたことが分かります。
12) 佐藤梅園編書『三体女子手がみ文 習字兼用』服部文貴堂,大正14(1925)【特105-869】
女性のための手紙の文例集であり、暑中見舞いなどには返事の例も添えられています。上の「温泉宿に問合す」と題する例文は、三人連れで六畳二間の部屋の利用について、予約の空きと宿泊料を尋ねる文例となっています。 冒頭にある「假名志らべ」を使っても変体仮名を読み解くことは難しいですが、文例のタイトルや片仮名で書かれた読みやすい文例からでも、当時の生活の雰囲気を読み取ることができます。
保養や観光による温泉の利用が広まると、周辺の自然を楽しむ以外に娯楽設備が併設されることが多くなりました。中でも宝塚新温泉では、湯客向けの娯楽として宝塚唱歌隊(宝塚歌劇団の前身)が公演を始め、その翌年の大正4(1915)年には宝塚新温泉内の一設備として図書室が設置されました。図書室は蔵書の充実と合わせて昭和7(1932)年に宝塚文芸図書館として発展し、現在は池田文庫となっています。池田文庫では宝塚歌劇に関する資料や映画についての資料を網羅的に収集しています。
13) 宝塚歌劇団編『宝塚年鑑 附・宝塚歌劇団写真集』昭和17年版,宝塚歌劇団,昭和17(1942)【特239-255】
宝塚大劇場を筆頭に当時宝塚にあった植物園などの施設が写真とともに紹介されています。また、宝塚歌劇団の出張記録、公演記録などが年鑑としてまとめられています。写真の宝塚文芸図書館については、「當館(とうかん)程、専ら演劇に関するレコードを蒐集(しゅうしゅう)されてゐるところはない」と書かれており、本だけでなくレコードや宣伝資料など演劇に関する幅広い資料を積極的に収集していたことが読み取れます。
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おわりに・参考文献