第1章 江戸時代の化粧

庶民が化粧に親しむようになったのは、江戸時代のことです。経済の発展に伴い豪商が台頭する元禄期(1688-1704年)には、商品の流通網が整い、化粧品が京都や大坂に住む庶民の手に届くようになったと考えられています。その後化粧文化は江戸へ広まり、文化・文政期(1804-1830年)には、江戸の女性の間で化粧は身近な習慣となっていました。一方、化粧をする男性は公家や歌舞伎役者などに限られていたようです。

社会規範としての化粧

身分秩序が重んじられた江戸時代、衣食住は分相応であることが求められました。そうした社会において、化粧は身分や階級、未既婚の区別などをあらわす社会規範のひとつでした。

お歯黒

当時の女性は結婚すると歯を黒く塗りました。黒はほかの何色にも染まらないため、貞節の証と考えられていたようです。お歯黒は「鉄奨(かね)」とも言い、お歯黒をはじめて塗る儀式は「かね付始め」などと呼ばれました。親戚の女性などがかね親となり、お歯黒道具一式をお祝いとして贈ったり、お歯黒を塗る手ほどきを行ったりしました。
既婚女性以外も、年齢が上がると世間体のためにお歯黒をする女性は多かったとされます。また、遊女や芸者もお歯黒をすることがありました。

風俗三十二相 かいたさう 嘉永年間おかみさんの風俗

風俗三十二相 しなやかさう 天保年間傾城之風俗

お歯黒の材料は、五倍子粉(ふしこ)と鉄奨水です。五倍子粉はウルシ科のヌルデという植物の虫こぶを乾燥させ粉にしたものです。鉄奨水は米のとぎ汁や酢、茶、酒、古鉄などを混ぜて発酵させた液で、強烈な悪臭がしたといいます。
お歯黒の成分は歯肉をひきしめ歯のエナメル質を強化するなど、歯周病や虫歯の予防に効果があったと今日では考えられています。一方、下地に用いられた「かね下」は、強い酸で歯の表面を傷めたようです。

眉化粧

公家や武家など上流階級の女性は、家に伝わる礼法にしたがい、ある程度の年齢になると眉を剃り落としたのち、定められた形の眉を描きました。上流階級の眉化粧の決まりごとは礼法書に体系化され(例えば、『化粧眉作口伝』【W435-N9】)、眉化粧だけで1冊の書物になるほど重要視されていました。一方、庶民は、妊娠後や出産後に眉を剃るのみでした。

風俗三十二相 ひんがよささう 享和年間官女之風俗

四ツ谷

ところで、江戸時代の浮世絵には、上流階級の女性に限らず、子持ちの庶民と思しきお歯黒の女性にも眉が描かれている場合があります。
眉がないと老けて見えるため、浮世絵の世界では、実際は眉のないはずの既婚女性でも、30歳以下であれば眉を描くことがお約束であったようです。

幼童諸芸教草

お歯黒や眉剃りは、当時の女性にとって欠かせない化粧でしたが、人相や世間からの見られ方を大きく変化させるものでもありました。こうした心情を詠んだものとして、「おしそうにむすめひたいを二ッなで」(『誹風柳多留』(一三・39)【911.45-Ka484h3-Y】)「恥かしさぐわらりと相がかハる也」(『初代川柳選句集』「やない筥」(筥一・39)【911.45-Ka484s-O】)などといった川柳も残されています。

おしゃれのための化粧

化粧は社会規範であると同時に、美の追求やおしゃれでもありました。

美容の手引き『都風俗化粧傳』(みやこふうぞくけわいでん)

文化10(1813)年には、美容のマニュアル本である『都風俗化粧傳』【わ383-5】が出版されました。それ以前にも上流階級の女性を対象とした化粧本はありましたが、庶民向けに書かれたものはこれが初めてです。スキンケアやメイクアップの方法、髪型の整え方や身のこなしについて挿絵つきでまとめられています。

目の大いなるを小さく見する図

足を直す図

背の低(ひくき)を高ふ見する仕様の図

第1図では大きな目を小さく見せるための化粧法(「目の大いなるを小さく見する図」)、第2図では外股の改善法(「足を直す図」)、第3図では低い背を高く見せる方法(「背の低(ひくき)を高ふ見する仕様の図」)が解説されています。このほか、化粧関連の解説をはじめ、にきびや歯痛、しもやけなどの治し方から、首筋を細く見せる方法や猫背の改善法などスタイルをよく見せるヒントに至るまで、美しくなるための様々な方法が掲載されています。

同書は大正12(1923)年の関東大震災で版本が消失するまで、100年以上にわたるロングセラーとなりました。

スキンケア

当時すでに、きめ細かでつややかな素肌を目指すスキンケアの意識がありました。
洗顔の習慣も普及しており、洗顔料としては一般的にぬかが用いられました。下図は、女性がぬか袋で首を洗っている様子です。
家庭で化粧水を手作りすることも多く、身近な植物を用いた「へちま水」や「きゅうり水」などが作られていたようです。

御殿山

市販の化粧水では、式亭三馬が売り出した「江戸の水」が大評判となりました。式亭三馬は『浮世風呂』などで有名な戯作者である傍ら、薬屋「式亭正舗」を経営しており、自身の作品中で、登場人物に店の名前や商品の効能を言わせるなど巧みな販売促進活動を行いました。以下は、「江戸の水」の引札(ちらし)と、式亭三馬の著作に掲載された式亭正舗の店先の様子です。

江戸時代名物集

江戸水福話 3巻

引札には、「おしろいのよくのるおかほのくすり(白粉のよくのるお顔の薬)」というキャッチコピーがついています。

美白と白粉

都風俗化粧傳』には次のような一節があります。

人生まれながらにして三十二相揃いたる美人というは至って少なきもの也。化粧の仕様、顔の作りようにて、よく美人となさしむべし。その中にも色の白きを第一とす。色のしろきは七難かくすと、諺にいえり。

このように、江戸時代の美人の第一条件は色白であることでした。
白い肌をつくるためには白粉が用いられました。白粉の濃淡は時代や地域、身分や職業により様々でしたが、一般に、庶民の女性は素顔か薄化粧のことが多く、格式や伝統を重んじる武家に奉公する御殿女中などは厚化粧であったようです。白粉化粧の方法は、『都風俗化粧傳』によると、次のような手の込んだものでした。
まず、水で溶いた白粉を、額から両頬、鼻、口のまわり、耳、首筋の順に、手と刷毛で肌に伸ばします。次に、むらなく光沢を出すため、顔に紙をあて、上からぬらした刷毛ではいて白粉を肌に落ちつかせます。紙をとり、乾いた刷毛で粉白粉をむらなく伸ばします。最後に、湿らせた手ぬぐいで目の上、目じりの余分な白粉をおさえ、厚化粧に見えないようにし、鼻には白粉を少し濃く塗って、鼻筋が通って見えるようにします。

柳はし

当誓美人揃之内

華やかな紅化粧

紅も重要な化粧品でした。紅化粧の流行は、唇や頬などに薄く塗ったり、まったく塗らなかったり、濃く塗ったりと様々でした。一風変わった化粧としては、文化・文政期に下唇を緑色にする化粧(笹色紅)が流行しました。紅の何度も塗り重ねると玉虫色に光るという性質を利用した化粧です。以下の動画では、紅を塗り重ねたときの様子を見ることができます。

外部サイトボタン「「技の彩」~伝統工芸に息づく色~(4)紅色 小町紅(東京)」Science Portalウェブサイト

当時、紅は「紅一匁、金一匁」といわれるほどの高級品であったため、笹色紅はぜいたくなおしゃれができることを示すための見栄から生まれた化粧といわれています。

当世好物八契

浮世四十八手

『都風俗化粧傳』には、少量の紅で唇を緑色に光らせる節約法として、下地に墨や行灯の油煙を塗り、その上から紅を重ねるという方法が紹介されています。庶民はこうした工夫をして流行の化粧をしていたのかもしれません。

当世美人合踊師匠

目の端に紅を塗る化粧(目弾き(めはじき))や、爪に紅を塗る化粧(爪紅)も見られました。目弾きは歌舞伎役者の舞台化粧として発生した化粧ですが、町人女性がこれを真似るようになったとされます。

コラム白粉と鉛中毒

白粉は、古くより欠かすことのできない化粧品でした。原料には植物・鉱物問わず様々なものが用いられましたが、江戸時代以降は鉛白粉がよく利用されました。

江戸時代、はしかや痘瘡(とうそう)など様々な病が流行しましたが、上流階級に特徴的だったのが、白粉による鉛中毒の症状でした。そこに仕える乳母は、鉛を含んだ白粉を顔から首や胸にかけて塗っていたので、乳房を介して白粉を舐めた乳幼児が、貧血・消化不良を起こし、中には脳膜炎の症状が出て死亡する例も見られました。

日本裸体美術全集
五渡亭國貞畫 集女八景、洞庭秋月

明治に入っても、初期の白粉はそのほとんどが鉛白粉でした。鉛白粉から無鉛白粉への転機が訪れたのが、歌舞伎の人気役者が鉛中毒と診断されたことでした。明治20(1887)年4月26日、時の外相、井上馨邸で開催された天覧歌舞伎の数か月後の舞台で、当代随一の女形であった中村福助(成駒屋四代目、下図)が倒れ、その後、日本赤十字社病院の橋本綱常院長が鉛白粉による慢性鉛中毒と診断すると、この事件は大きな衝撃をもって世間に受け止められました。明治10年代の新聞広告ではすでに、鉛白粉の有毒性が指摘され始めていましたが、これを機に、白粉による鉛中毒が、梨園や花街にとどまらない社会問題として注目を集めるようになりました。後年、福助は鉛毒について振り返っていますが、先達の役者に相談した際、「白粉を塗って病気になるなんてそんな理屈はない」(『歌舞伎』(159)【雑35-52】)と一蹴されており、当時はまだ鉛白粉の有毒性があまり認知されていなかったことがうかがえます。

劇

明治33(1900)年、「有害性著色料取締規則」(明治33年内務省令第17号)が発布・施行され、鉛をはじめとする著色料(着色料と同じ)の化粧品利用は禁止されました(第4条)。しかし、白粉については、鉛白粉と代替可能な無鉛白粉がまだ開発されていなかったことから、「当分ノ内」の条件付きで適用が見送られました(附則第12条)。(『官報』第5034号, 明治33年4月17日)
無鉛白粉が市場で確固たる地位を獲得したのは、明治37(1904)年、「御園白粉」が発売され、これが広く市場に出回るようになってからです。「御園」の名は、明治33(1900)年に皇太子(後の大正天皇)の御成婚にあたって献上されたことに由来します。その後、無鉛を標榜する白粉が続々と発売されましたが、御園白粉の人気は著しく、「白粉界の御園」と称されるほどでした。

婦人週報

明治末期から大正にかけては、医学雑誌のみならず、婦人雑誌などでも鉛白粉の有毒性が盛んに取り上げられるようになりました。昭和5(1930)年10月の内務省令第30号により、鉛白粉の製造は昭和8(1933)年12月末まで、販売は昭和9(1934) 年12月末までと定められました。それは、福助の鉛中毒事件から約50年も経った後のことでした。(『官報』第1145号, 昭和5年10月22日)

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明治、大正、昭和の化粧



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