補章 鯨とのお付き合い

地域にもよりますが、現代の私たちの生活の中では「鯨=食べ物」というイメージは薄れてきています。しかし、江戸時代の人は鯨を魚類とみなして食べていました。

鯨は、骨や油なども生活用具にするため、余すところなく有効利用していました。海からの恵みと受け止め、生活の維持向上のための資源として重要視していたのです。戦国時代末期から江戸時代初期頃にかけて、捕鯨のために鯨組ができ、組織的な捕鯨業が始まりました。

捕鯨の図

鯨を追う

日本の捕鯨は、もともとは海岸に流れ着いた鯨を銛(もり)で突く「突取法」で捕獲する消極的な捕鯨法が中心でしたが、段々と「網取法」による積極的な漁法に変わっていきます。これにより捕獲できる鯨の種類が増え、肥前(現佐賀県・長崎県)、対馬、壱岐(いずれも現長崎県)、長門(現山口県)、土佐、紀伊、陸前(現宮城県・岩手県)などで捕鯨が盛んに行われました。

鯨史稿

船で張った網の中に鯨を追いこみ、弱ったところに銛を打ち込んでいる網取法の様子が描かれています。

鯨をいただく、利用する

鯨を捕獲した後の作業も大がかりです。運搬や解体処理は、大勢の人が役割を決め、連携して作業をしていました。肥前国松浦郡生月島(いきつきしま。現長崎県)における、当時の捕鯨方法や解体方法が記録されている『勇魚取絵詞(いさなとりえことば)』から作業の一例を見てみましょう。
捕獲された鯨は鯨寄せ場で解体され、それぞれの納屋で流れ作業式に各部分の処理が行われました。

勇魚取絵詞

巨大な鯨を手際よく解体して各納屋へ運ぶ様子は、「その作法よく整い、其所作よく手馴たればなるべし」と賞賛されています。

勇魚取絵詞

当時の九州の鯨組では経営者の違いで納屋が分けられ、大納屋は鯨組直営でした。ここでは、解体した皮や肉をさらに小さく切りさばいて加工処理します。

勇魚取絵詞

小納屋では鯨組の組主以外の者が寄り集まり、それぞれが購入した鯨の部位を加工処理します。

勇魚取絵詞

骨納屋では、大納屋や小納屋から運ばれてきた骨を使って油を取り、粕(かす)は肥料に加工します。

鯨漁は油採取のために始まったとされています。油はウンカなどの虫除け用の農薬として、主に西日本で需要がありました。そのほか肉や内臓を食料にしたのはもちろん、骨や筋などの不可食部分も手工芸品や肥料として無駄なく利用されました。

小児の弄鯨一件の巻

『小児の弄鯨一件の巻』には、小川島(現佐賀県)近海における鯨組の操業や、鯨の各部位の解体方法などが記載されています。

また『勇魚取絵詞』には、附録として『鯨肉調味方』があり、鯨肉の各部位の調理方法が約70種類紹介されています。
ほかにも『鯨史稿』をはじめとする捕鯨百科事典などが出版され、鯨の各種類や体の諸器官、生態に関することのほか、捕鯨のための船や漁具、捕鯨手順や解体方法を知ることができます。

鯨への想い

自然からの豊かな恵みに感謝の気持ちが表れているものとして、供養塚や供養碑があります。日本独自の慣わしともいえる生き物への供養塚・供養碑は、19世紀頃より増えていきました。江戸時代に建立されたものでは鯨の塚が特に多く、鯨によって困窮が救われたことへの感謝や、捕鯨に関連する供養のために各地で造られました。
東京都内で唯一現存する鯨塚は洲崎弁天(現在の利田神社)の境内にあり、『江戸名所図会』で所在を確認することができます。この鯨塚は、寛政10(1798)年5月1日品川沖に迷い込んで捕獲された鯨を供養するために建てられたものと伝えられています。

江戸名所図会 江戸名所図会

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江戸名所図会デジタルコレクション

松濤軒斎藤長秋 著[他]『江戸名所図会 7巻. [4]』須原屋伊八[ほか], 天保5-7 [1834-1836]【124-114】

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