おお、無事に壱之巻を習得することができたようやな。これでエンタメ世界の忍者について知ることができたな、天才やん!
ここからは、ホンモノの忍者が君たちの生きる世界を実際にどう駆け抜けていったかを見ていくで。
忍者はいつ頃から現れたのでしょうか。敵地に侵入し工作を行う間諜(スパイのこと)についての記述自体は、古来より世界中の様々な文献に見ることができます。それらのうち、忍者としての具体的な活動を確認できる国内の最古の記録は、応安年間(1368~1375)頃に書かれた『太平記』です。ここでは、「忍び」が石清水八幡宮の社殿に火をつけた、とあります。そのほかにも、「くさ」「かまり」「透波」「乱波」などの忍者を指す呼称を戦国時代の記録に見ることができます。実は、お馴染みの「忍者」という呼び方は昭和30年代に使われ始めたごく最近の呼称です。
まずは、忍者を意味するこうした呼称から、忍者の実像に迫ってみましょう。
忍者を指す語としてよく使われる「しのび」は、鎌倉時代には間諜ではなく、窃盗行為を意味する語でした。エンタメ世界の忍者と同じく、ホンモノの忍者もまた、隠れて盗むという活動と密接な関係があったことが見て取れます。さらに、海外でNINJAが知られるより遥か前に、忍者の存在を海外に伝えた言葉でもありました。宣教師が日本語をポルトガル語で解説した『日葡辞書』に「Xinobi」の記載があるほか、『朝鮮王朝実録』の記録にも、博多に「時老未(シノミ)」が住むと記述されています。
これらの呼称は忍者の戦術的行動と深く関わっており、例えば『北条五代記』では、草むらに臥して行う情報収集や夜道の案内を「くさ(草)」や「かまり(屈)」と呼んでいます。隠れて情報収集に徹するだけではなく、敗走したと見せかけて敵を誘い込み、隠れていた別の「くさ」が敵の背後をとってはさみうちに転じるといった戦法をとる場合もありました。
「透波」は、素行が悪く、言動に整合性がない嘘つき、「乱波」は騒がしく動き回ることで敵を翻弄するといった意味合いを持つ呼称です。こうした肯定的とは言いがたい呼び名には、戦国時代に忍者として戦場に出た人々の中に、山賊や強盗など、アウトローな人々が一定数含まれていたことが影響しているようです。
上に列挙した呼称は忍者を指す語のごく一部にとどまりますが、戦国時代から伝わるこうした忍者の呼称からは、いつ止むとも知れぬ戦の世を生きた忍者達の、闇に紛れつつも荒々しい、危うい一面を窺うことができます。
ホンモノの忍者たちは、どのような任務をこなしていたのでしょうか。
まず、戦国時代は、忍者たちが最も多彩な役割を担った時代といえます。常に敵と隣り合わせの戦国大名は、場合によっては数百人規模で忍者としての戦力をそろえ、戦に際して様々な任務を与えていました。例えば、前述の「くさ(草)」で触れた潜伏、そしてかがり火を用いた夜間の警備や、道の封鎖による補給線遮断が挙げられます。
ほかに、敵地へ潜入しての放火や、敵の城に侵入し、混乱に乗じて城そのものを占拠してしまう「城乗っ取り」も行いました。
こうした任務には高い専門性を要するものが含まれ、当然ながら危険も伴います。潜入先で捕えられた際の扱いはいわずもがな、寒い夜の翌朝には、「くさ」として潜伏し、そのまま凍死した忍者の遺体が発見されるといったこともあったようです。
さらに、忍者としての仕事は、戦国大名によるトップダウンの作戦だけにとどまりません。忍者として特に有名な伊賀、甲賀の人々は、大名による支配に依存しない独自のコミュニティを構築して自治を行い、外からの侵略に対して、待ち伏せや先回り、夜討といったゲリラ的戦術で撃退することもありました。
江戸時代になると、忍者の仕事も大きく変化しました。伊賀、甲賀の忍者が優れた技を持つことは知られており、「伊賀者」「甲賀者」は忍者の代名詞となっていましたが、江戸幕府においては役職としての「伊賀者」が設置され、彼らの子孫などが世襲していきます。
伊賀者の任務とされたのは、大奥の警備を行う御広敷番、屋敷替えなどによって居住者がいなくなった屋敷を警備する明屋敷番などです。甲賀者の中にも、鉄砲同心として組織され、江戸城大手三之門の警備を務めた人々がいました。これらの仕事は、戦国時代の忍者のような隠密性を伴うものではなく、忍者としての役割は形骸化していくことになりました。
では忍者に類する仕事は皆廃れてしまったのかといえば、そうではありません。諸大名に忍者として仕えた人々が伝わっているほか、幕府でも旗本や御家人の監視を行い、時には老中や目付から特命を受けて秘密裏に調査を行う徒目付や小人目付という役職がありました。
しかし、江戸時代の忍者といえば、まず御庭番を想起される方が多いのではないでしょうか。紀州御三家から八代将軍となった徳川吉宗は、側近として紀州藩士を重用しました。紀州藩で隠密任務を担当した薬込役(もともとは銃に弾薬を込める役職)を幕臣として編入し、これが後に御庭番となりました。御庭番は将軍直属の情報収集機関であり、幕末まで置かれていました。
御庭番は普段は江戸城本丸天守付近の御庭番所で宿直を勤め、出火などの非常時に伝令を担う役目が与えられています。こうした仕事の裏で、秘密裏に各地へ派遣され、役人や世間の人々から情報を聞き出し、調査結果を将軍へ報告しました。例えば天明の打ちこわしにおける世情調査や、桜田門外の変後の薩摩藩の動向調査のために派遣された記録が残っています。
江戸時代の地図には、幕府に召し抱えられた伊賀者や甲賀者の人々が住んだ区画が記録されています。例えば、現在の新宿区若葉(四ツ谷駅付近)には伊賀者たちが住んだ「伊賀町」があり、千代田区神田淡路町(新御茶ノ水駅前付近)の「コウカ丁」と記された一帯には、甲賀忍者が住んだとする説があります。
徳川家康が初めて江戸入りした当初、伊賀者は江戸城半蔵門付近に集まって居住したとされていますが、時代を下るにつれて散在するようになりました。彼らは家康への忠義を評価され、将軍家の私的空間である大奥などで警備を任されたとされています。ほかにも、伊賀者が警備を勤めたと記録されている屋敷を地図上で確認することができます。
青山権田原(現国立競技場付近)には、鉄砲同心として召し抱えられた甲賀百人組の居住地に加え、鉄砲場を見ることもできます。
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