江戸時代にも「会いに行ける有名人、人気者」と言えるような存在がいました。第1幕では、茶屋娘と彼女たちを「推した」江戸の人々を、主に錦絵を通して紹介します。
水茶屋とは、人々が道端や寺社の境内でお茶を飲み休憩した店のことで、現代の喫茶店やカフェにたとえられます。水茶屋の起源は京都で、江戸でよく見られるようになったのは18世紀半ばからと言われています。接客する看板娘として茶屋娘を置いたことから、多くの人々、特に男性が、茶屋娘見たさに水茶屋を訪れるようになりました。茶屋娘のいない簡易な茶屋ではお茶代の相場が5、6文だったのに対し、水茶屋では相場が数十文だったようで、中には100文を支払っていく客もいたそうです。
団扇画「東都名所水茶屋揃」にも茶屋娘が描かれています。
茶屋娘の中で最初に人気者となったのが笠森お仙(1751-1827)です。お仙は、東京谷中の笠森稲荷の境内にあった「かぎ屋」の店主五兵衛の娘で、明和元(1764)年、14歳の頃には店で働いていたようです。美しい姿で多くの人々の目に留まり、その噂を聞いた人々が一目見たいと店を訪れ、多くの客で賑わいました。笠森稲荷よりも、お仙見たさの参詣客が多かったとも伝えられています。
錦絵の創始者とも言われる鈴木春信(1725-1770)は、お仙の錦絵を多数描き、これらの錦絵によりお仙の存在がさらに多くの人々に知られるようになりました。その一方で、有名だったお仙を描いて、春信が有名になったのだと言う人もいます。
錦絵を手にして、一度見たお仙に、あるいは、まだ見ぬお仙に、憧れの気持ちを抱いた人々がたくさんいたことでしょう。
春信の錦絵に描かれたお仙には、曲線で表現されたチャーミングさがあり、それを強調するように、振りむいた場面などを描いた作品が少なくありません。また、後に紹介する寛政の茶屋娘の錦絵と比較すると、身に着けている着物や髪飾りが控えめで、清楚に描かれたことも人々を惹きつける魅力となったのかもしれません。
幕臣であり天明年間(1781-1789)を代表する文人であった大田南畝(蜀山人)(1749-1823)によると、お仙は錦絵に描かれた以外にも絵草紙や双六、瓦版に載り、手拭いに染められ、人形も作られたと言います。さらには芝居の台詞に登場し、狂言にもなり大当たりしたとのことです。
また、当時の様々な人物や物事の評判を記した評判記として、娘評判記が発行されていたとされ、その一例の中にもお仙を見つけることができます。
お仙のライバルと言われたのが、楊枝見世である柳屋のお藤(生没年不明)です。楊枝見世は、現在の歯ブラシに当たる、木を房のように加工した楊枝を売る店で、柳屋は浅草寺境内のはずれにありました。大きな銀杏の木のそばに店があったことから、お藤は銀杏娘とも呼ばれていました。この柳屋お藤は、店で働いていたのが明和6(1769)年の春から初夏にかけての短い期間だったにもかかわらず、お仙、浅草の茶屋娘である蔦屋およしと合わせて、明和の三美人と称されました。
人気絶頂だったお仙は、明和7年、20歳の時に突然姿を消します。駆落ちしたという噂や男性に殺されたという噂まで出回ったそうですが、実際には、10歳年上の御家人である倉地政之助と結婚していました。倉地家は笠森稲荷を勧請した家で、政之助の仕事はお庭番と言われた密偵でした。仕事柄、お仙との結婚も秘密にされたことから、江戸の人々には消息が分からなかったようです。結婚後のお仙は子宝に恵まれ、77歳まで長生きしたそうです。
明和7年頃に刊行されたと言われる摺物。流行唄と鈴木春信による笠森お仙の姿が書き込まれています。
(末尾)「吾妻育ちの名高きおせん ヨイ いろを煎じちゃ飲みほす土瓶 もとが土ゆへわれたげな」
このような流行唄が、お仙が姿を消した頃、摺物として刊行されたと言われています。
お仙たちの後、寛政期に人気を誇った茶屋娘が、難波屋おきた(1778-没年不明)と、高島(屋)おひさ(1777?-没年不明)の二人です。この二人は、茶屋娘の菊本おはん、または芸者の富本豊雛とともに寛政の三美人に数えられ、喜多川歌麿(1753-1806)に多く描かれて人気を博しました。二人が腕相撲をする様子を描いた錦絵は、人気を競う状況を見立てたものでしょうか。
難波屋は浅草寺の随身門(後の二天門)近くの水茶屋で、看板娘のおきたは、寛政5(1793)年、16歳の頃には店で働いていたようです。美しさに加えて愛嬌がとてもよく、おきたの人気により、難波屋のみならず、浅草寺境内の他の水茶屋までも繁盛したと言われています。
一方、おひさは両国にあった煎餅屋、高島屋の女将でした。高島屋は茶屋も出しており、そこで働くおひさ見たさに多くの客が店を訪れ、繁盛したそうです。
おきたの立姿を描いた錦絵は、1枚の紙の両面に正面からの姿と後ろ姿を摺った両面摺のものです。着物の色や柄、髪飾りなどを含め、後ろ姿もよく見てみたいと思うファンの気持ちを捉えた作品だったのではないでしょうか。
歌麿の錦絵には、茶屋娘のみをクローズアップして描いたものが多くあります。錦絵を買い求めるファンの心情は、現代の私たちが有名人のポスターやブロマイドを欲しがる気持ちと、思いのほか近いのかもしれません。
ここまで見てきたように、茶屋娘は多くの錦絵に残されています。その中でもとりわけ笠森お仙は、後世の人々をも惹きつけています。
大正時代の初期には、永井荷風が笠森お仙をモデルにした短編小説「恋衣花笠森」を書いています。かぎ屋で働くお仙と幼馴染の恋人源之進の話で、事実として伝わる御家人との結婚とは別の結末が描かれています。
大正8(1919)年には『笠森おせん』という著作が出版されています。これは、民俗学者である藤沢衛彦(1885-1967)がお仙と笠森稲荷についてまとめたものです。藤沢は多くの資料を参照しており、それら資料のリストを「笠森おせん関係書目」として巻頭に掲載しています。巻末で、藤沢がお仙と倉地政之助の墓碑を見つける場面は、それまでとは違う少し高揚感のある筆致で、藤沢もこの本を書きながら、お仙に惹かれていったのではないかとも思えます。
『おせん : 絵入草紙』は『東京朝日新聞』、『大阪朝日新聞』の各夕刊に昭和8(1933)年に連載された邦枝完二(1892-1956)の小説です。連載時の小村雪岱(1887-1940)による挿絵がほぼすべて収録されて書籍化されており、物語だけでなくお仙の絵も作品の魅力の一部だったことがうかがえます。雪岱の絵からは、鈴木春信の絵と同じような曲線的な美しさが感じられます。
現存する錦絵などを通してお仙をはじめとする茶屋娘のことを知り、どんな人物だったのかもっと知りたい、写真も見てみたかったという気持ちを抱いたならば、それは、約200年以上の時間を超えて茶屋娘に魅了されたと言えるのかもしれません。
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