江戸時代、歌舞伎はそのストーリーや演技だけでなく、贔屓にする役者への「推し活」でも楽しまれていました。第2幕では、歌舞伎の錦絵を切り口に、江戸の人々の歌舞伎への熱い想いを取り上げていきます。
動画や写真のない江戸時代、人々は「役者絵」という形で推しのワンシーンを手元に置いていました。役者絵とは、役者の似顔または舞台姿など、歌舞伎を題材とした絵の総称です。そして元禄年間以降、役者絵は美人画と並ぶ重要な分野として発展していきました。
錦絵を扱う店舗の様子が描かれています。役者絵は、その役者が出演する芝居が上演されている期間によく売れたそうです。そのため、その芝居の上演期間中は店先など人目につきやすい場所に置かれていたようです。
役者達の日常を取り上げた錦絵も発売されていました。演目が始まる前の楽屋の様子や、同じ役者たちと行楽に出かけた様子を描いた錦絵は、今でいう「オフショット」。舞台上では見ることができない一面に、ファンは盛り上がったことでしょう。
団扇絵にも、歌舞伎役者達が色鮮やかに描かれました。自分が贔屓にする役者が描かれた団扇を使うことは、現代の「推し活」にも通じる面がありそうです。
当時の芝居好きが、こうした絵を楽しむ様子も錦絵に描かれています。
歌舞伎は、江戸時代を通して高い人気があった一方で、風紀の乱れなどを理由とした取り締まりの対象になることがありました。
特に天保の改革(1841-1843)では、倹約、風俗粛正を断行して庶民の娯楽も厳しく取り締まりが行われ、役者絵の発行が困難になりました。それでも、庶民と浮世絵師達の歌舞伎への想いを止めることはできず、大きくデフォルメされた役者絵も残されています。顔の特徴や鱗の模様から、説明がなくても誰をモチーフにしているのかがわかったようです。
お上の取り締まりを受けたとしても、江戸の人々は歌舞伎を、役者を推し続けたと言えるのかもしれません。
歌舞伎の世界には、役者の家ごとに定められた「定紋」と役者個人の「役者紋」があり、舞台上で役者が身に着けることがあります。こうした紋・模様は、推しの役者と同じ模様を身に着けたいというファン心理をくすぐり、江戸のファッションの一翼を担いました。現在の歌舞伎観劇においても、帯などにさりげなく演目や役者と関連する文様を入れる洒落た文化が残っています。
現在よく知られる市松模様も、「霰」や「石畳」と呼ばれていた文様を歌舞伎役者の初代佐野川市松が衣装として用いたことから、市松文様と呼ばれるようになりました。
弁慶のように強そうで庶民的な主人公達がこの模様を着ていることが多かったため、「弁慶格子」と呼ばれるようになったと言われています。
四代目澤村宗十郎が小間物屋弥七の役で用い、流行したといわれています。
「三枡」は市川團十郎家の定紋。これを連ねて模様としたものに「三枡つなぎ」と呼ばれる模様があります。七代目團十郎の人気により、浴衣などに用いられるようになりました。
元々は「水火のなかでもかまわぬ」という男たちの意気地を表した判じ模様です。七代目團十郎が演目「かさね」の与右衛門の衣装に用いて、流行したと言われています。
「鎌」「輪(〇)」「ぬ」を組み合わせて、「かまわぬ」と読ませています。
三代目尾上菊五郎が考案した判じ模様です。4本と5本の筋を組み合わせた格子の中に「キ」と「呂」を配置しています。5本の筋で「ゴ」、4本と5本を足して「ク」、格子の中の「キ」と「呂」で「キクゴロ」と読ませています。
役者の名前が付いた商品も販売されていました。「團十郎煎餅」は、表面に市川一門の定紋である「三枡紋」が入れられ、四代目團十郎の頃から発売され始めました。
また、三代目尾上菊五郎は、引退後「菊屋万平」として餅屋を始めました。「菊の葉餅」という、葛餅を2枚の菊の葉で包んだものだったようで、「菊五郎」らしい商品だったようです。
江戸時代、歌舞伎を題材にしたおもちゃ絵も多数作られていました。おもちゃ絵とは、子どもの手遊び向きの図柄が描かれた錦絵の一種です。特定の役者の髪形を変えてみたり、衣装を変えてみたり、今でいう「着せ替え人形」のようなものもあります。歌舞伎を題材にした双六もいくつも発売されていたようですので、大人から子どもまで、歌舞伎に熱中していたことがうかがえます。
歌舞伎役者が亡くなると、その死を追悼する「死絵」が発行されていました。死絵は、生前の活躍を描いたもの、死後の世界に旅立とうとするものなど、様々に歌舞伎役者を描いていました。戒名、没年月日などの情報も記されており、訃報の伝達手段でもありました。
中でも特に多くの死絵が発行された役者として、八代目市川團十郎が挙げられます。
團十郎は、当時大変人気のある役者でしたが、大坂で出演予定だった「児雷也豪傑物語」の初日直前に自殺をしてしまいました。突然の死に、彼を贔屓にしていた人々は大変嘆き、悲しんだことでしょう。
團十郎を釈迦涅槃図に見立てて描いた死絵です。本来の涅槃図では釈迦の周りを動物達が囲んでいますが、この死絵では花魁から町娘、猫までもが團十郎の死を嘆き悲しんでいます。團十郎の死絵は、一説には、300種類近く発行されたとも言われています。速報性が優先されたため、彼の戒名が「猿白院成清日田信士」(正しくは「篤誉浄莚実忍信士」。)と誤ったまま刷られた死絵もあったようです。父親の俳名だった「白猿」から着想を得て作られた架空の戒名と言われています。
歌舞伎を観劇する人々の姿を見てみましょう。こちらは、特に値段の高い桟敷席にいる女性の様子ですが、かなり豪華な着物を着ていることがわかるでしょう。右の女性は、冊子で演目の下調べをしているのでしょうか。
こちらは、天保の改革によって芝居小屋が集められた猿若町の女性を描いたものです。近くの芝居茶屋から芝居小屋に向かう様子でしょうか。豪華な着物を着るだけでなく、どことなく姿勢も前かがみ。早く芝居が観たい、そんな気持ちが伝わってくるようです。
観劇する人々の様子は、芝居通である式亭三馬が劇場の観客の評判を記した『客者評判記』からも見て取れます。
「宵から身仕まひに気をもみぢがり お宿さがり 浮虚」「芝居ならしんぞ命もと思ふ 女すけ六 かゝァ左衛門 侠気」など、宵から身支度をするために気をもんでみたり、芝居のために命を懸けることも厭わなかったり、さまざまな観客がいたことがわかります。
このように、江戸時代の人々も今の私達と同じような「推し活」を楽しんでいました。技術の進歩に伴い、錦絵が写真になり、グッズも多種多様なものが生まれ、一見すると全く別の「推し活」を楽しんでいるように思えるかもしれません。それでも、その根本にある「推しを近くに感じたい」という気持ちは、今も昔も変わっていないのではないでしょうか。
次へ 第3幕
魅了する推し 女義太夫