第二話 日本の創作探偵小説の賑わい

明治時代以降、海外の作品が翻案・翻訳され、探偵小説が多くの人たちに読まれるようになったことがわかりましたね。
第二話では、探偵小説が国内で盛んに創作されるようになった頃の話をしましょう。江戸川乱歩や横溝正史といった、著名な探偵小説家が登場する時代です。

大正末期からの創作探偵小説の隆盛

明治20年代にも、須藤南翠『殺人犯』、黒岩涙香『無惨』などの創作探偵小説の端緒が見られましたが、盛んに書かれるようになるのは大正末期のことです。

殺人犯 : 硝烟劔鋩

無惨


翻訳探偵小説で人気を博した青年雑誌『新青年』の初代編集長である森下雨村は、江戸川乱歩を筆頭に新人作家を次々と発掘していきます。

探偵小説四十年

『新青年』創刊号を手にする森下雨村

江戸川乱歩

江戸川乱歩は、大学卒業後十数種の職業を転々とした後、森下雨村に『二銭銅貨』の原稿を送りました。これを読んだ雨村は「尋常一様の作者ではないと思つた、と直ぐその後から或は翻案ではないかナといふ気もした。それ程も、私は驚いたのである。」(「序にかへて」『創作探偵小説選集』第3輯(1927年版)【特211-462】)と語っています。
雨村は、友人で、探偵小説の評論などを発表していた小酒井不木に原稿の感想を求めました。『二銭銅貨』は不木の推薦文と共に『新青年』に掲載され、乱歩は大正12年にデビューします。

書物展望
江戸川乱歩

二銭銅貨

探偵小説四十年
雨村とともに乱歩を見出した小酒井不木

デビュー後の乱歩は、「屋根裏の散歩者」など『新青年』に発表した作品で好評を得た後、『陰獣』『蜘蛛男』などの中長編作品、少年向け「少年探偵団」シリーズなど、多くの人気作品を発表し、探偵小説界を代表する存在となります。

石榴 : 他二編

蜘蛛男

少年探偵團

乱歩は、黒岩涙香の翻訳をはじめとする海外探偵小説から影響を受けたほか、谷崎潤一郎佐藤春夫らの作品にも高い関心を持っていたと言われます。

途上

指紋

谷崎潤一郎、佐藤春夫による、探偵小説色のある作品

横溝正史

『新青年』誌上では、創作探偵小説の懸賞募集も行われました。大正10年に入選したのが横溝正史です。横溝は、大阪薬学専門学校に通うかたわら執筆活動を行っていました。後に上京し、森下雨村の後を継いで「新青年」の二代目編集長を務めます。代表作となる金田一耕助シリーズを著すのは40歳を過ぎた昭和20年代からですが、探偵小説家としての素地は、戦前期に育まれていました。

日本推理小説大系
横溝正史

恐ろしき四月馬鹿
『新青年』の懸賞で入選したデビュー作
『恐ろしき四月馬鹿(エイプリルフール)

広告人形

このように、日本の創作探偵小説の世界は、明治時代以降の海外作品の翻訳・翻案作品、黒岩涙香や当時の探偵小説以外の分野の作家たちの影響を受けながら、発展しました。

科学への関心と探偵小説をめぐる論争

大正時代後期には、『新青年』誌上に科学に関する読み物が多く掲載されるなど、科学や技術への関心が高まっていました。特に医学、心理学などの人間を科学的に分析する学問、そして犯罪学や科学捜査の知識は、探偵小説の構想やトリックにもアイディアをもたらしました。江戸川乱歩は、心理学への関心をもとに、「心理試験」という短編を作っています。

心理試験


また、科学者・技術者としての職歴を有する作家も多く現れます。

甲賀三郎と「本格探偵小説」

甲賀三郎は、東京帝国大学工科大学で応用化学を学んだのち、農商務省臨時窒素研究所に技師として勤務していました。その傍らで探偵小説を執筆し、化学的知識を活かした作品も執筆しています。

日本推理小説大系
甲賀三郎

琥珀のパイプ

甲賀三郎は、「本格探偵小説」「変格探偵小説」の区別を論じたことでも知られています。彼は、「犯罪捜査小説であり、それに適当な謎とトリツクを配し、読者に推理を楽しませるもの」(「探偵小説講話 第一講」『ぷろふいる』3巻1号[復刻]【Z79-B445】)を「本格探偵小説」として差別化しようとしました。逆に、謎解き以外の要素に魅力を持たせた「変格物」は、小説としての価値、文学的な表現の可能性などを認めつつも、「探偵小説」として扱うことに疑義を呈しました。

木々高太郎と「探偵小説芸術論」

昭和10(1935)年頃に登場した探偵小説家に木々高太郎がいます。木々高太郎は、パヴロフに師事したことのある条件反射などを専門とする生理学者、医師であった一方で、探偵小説の創作にも力を注ぎました。
本格探偵小説は、「一面からいえば、文学としては幼稚で窮屈で、千篇一律的のものである」(「探偵小説講話 第一講」『ぷろふいる』3巻1号[復刻]【Z79-B445】)という甲賀三郎の所論に反対し、探偵小説は芸術たり得る―「探偵小説は、一定の条件(形式)をそなえた文学である。」(『人生の阿呆』【711-100】)と、探偵小説芸術論を主張しました。

日本推理小説大系
木々高太郎

人生の阿呆

このように、大正末期から昭和初期にかけては、創作探偵小説の隆盛にともない、探偵小説のあるべき姿をめぐる論争が盛んになります。当時、怪奇小説や冒険譚にあたるような作品が、翻訳して雑誌に掲載される際に一括りに「探偵小説」と銘打たれたり、あるいは乱歩のような人気のある探偵小説家が、怪奇小説の影響を強く受けたりと、探偵小説として捉えられる幅が広がっていました。

探偵小説を支えた出版環境

探偵小説を取り巻く出版環境も大きく変化しました。前述の『新青年』だけではなく、大阪の『探偵趣味』(大正14)、京都の『ぷろふいる』(昭和8)をはじめとして、探偵小説に関する雑誌が次々と創刊されます。また、大衆文化の発展にともない、1冊1円で全集を出版する円本ブームが起きた時代でもありました。平凡社の「現代大衆文学全集」(昭和2年配本開始)には江戸川乱歩等の作品が収録されています。

黒岩涙香集

日本探偵小説全集

春陽堂と改造社の「探偵小説全集」

江戸川乱歩全集
個人全集である『江戸川乱歩全集』

探偵小説の全集も多数刊行されました。改造社からは日本の創作探偵小説を中心とした「日本探偵小説全集」(昭和4年)全20巻が刊行されています。このほかにも平凡社からは翻訳探偵小説を集めた「世界探偵小説全集」、博文館からは「世界探偵小説全集」、春陽堂からは「探偵小説全集」が刊行されています。


しかし、昭和12(1937)年からの日中戦争以降、出版物の検閲が厳しくなり、探偵小説も処分を受けることが目立つようになりました。探偵小説家たちはそれぞれ別の分野に転じて執筆を続けたり、休筆期間に入ったりします。

大正末期から昭和初期は、綺羅星のごとく多数の創作探偵小説家が現れ、まさに探偵小説の万華鏡というべき時代であったことがわかりましたね。戦争が影を落とした後に、「探偵小説」はどのような歩みをたどったのでしょうか。

「探偵小説」から「推理小説」へ

終戦後の探偵小説家たちは、探偵小説の復興を期待し新たな作品の執筆へと踏み出しました。
江戸川乱歩は、昭和22(1947)年に東京で「探偵作家クラブ」(後の日本推理作家協会)という作家団体を結成し、多くの出版企画に協力するほか、「少年探偵団」シリーズの『青銅の魔人』で、探偵小説の執筆を再開します。このほか、「類別トリック集成」等の研究、評論集『幻影城』、年代ごとの記録と回想である『探偵小説四十年』など、探偵小説に関係した幅広い執筆活動も行いました。

横溝正史は、本格探偵小説を書こうと「トリックの鬼」と化して、雑誌『宝石』(昭和21年創刊)に『本陣殺人事件』を連載し、昭和23年の第一回探偵作家クラブ賞(後の日本推理作家協会賞)長編賞を獲得します。

本陣殺人事件

「探偵小説」という言葉は、戦後に曲がり角を迎えます。昭和21年時点の当用漢字に探偵の「偵」の字が含まれていなかったことをきっかけに「推理小説」という呼称が広まり始めたと言われており、昭和30年代になると、後進作家たちによる推理小説が人気を博します。
仁木悦子の『猫は知っていた』は、江戸川乱歩賞を受賞し、ベストセラーとなりました。
松本清張は、動機を重視し、従来の推理小説の非現実性を徹底的に排除した「社会派推理小説」や、精力的な執筆活動によって「清張ブーム」を巻き起こしました。

猫は知っていた
仁木悦子

芥川賞作品集
松本清張

乱歩は、昭和30年代の推理小説ブームについて「毎月十数冊の推理小説単行本が出版されるという、この現在の盛況は、昭和初期のそれを遙かに越すものである」(『探偵小説四十年』【910.28-E22t】)と述べています。

探偵小説の命脈がどう受け継がれたか、その結末にたどり着いたようですね。
閑話休題。お次は名探偵の出番です。

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名探偵



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