1903(明治36)年のライト兄弟による動力飛行の成功以降、日本においても動力付きの飛行機の研究が行われるようになりました。日本人が、日本国内で動力付き飛行機による飛行に初めて成功したのは、1910(明治43)年12月19日の軍による飛行演習でのことです。また、1911(明治44)年5月には早くも、国産民間機の初飛行が成功しました。一方、明治から大正にかけて来日した海外の飛行家による飛行会は、多くの観客を魅了しただけでなく、日本の航空界に刺激を与え、さらなる発展を促しました。第1章では、初飛行から大正初期にかけて手探りで研究開発をした人々や、来日した海外飛行家の足跡をたどります。
ライト兄弟の初飛行後、欧米各国では飛行機の研究開発が活発に行われ、目覚ましい発展を遂げており、日本でも飛行機の研究がスタートしました。1909(明治42)年7月30日には、陸海軍の共同で、飛行機や飛行船の研究開発を行うため、臨時軍用気球研究会が創設されました。会長は、陸軍少将(当時)の長岡外史で、東京大学教授の田中舘愛橘らが委員として選ばれました。
日本人による国内で最初の動力付き飛行機による飛行は、臨時軍用気球研究会の2名の委員によって成し遂げられたものです。また、日本初の飛行場の開場も軍によるものでした。
1910(明治43)年12月19日、東京・代々木練兵場において、陸軍軍人で臨時軍用気球研究会の委員の徳川好敏と日野熊蔵が、日本人による国内初の動力付き飛行機での飛行に成功したことを報じている新聞記事です。最初に、徳川が海外派遣先のフランスで購入したアンリ・ファルマン式飛行機で試験飛行を行いました。初飛行の記録は、最高高度70m、時速53kmで、飛行距離約3km、飛行時間4分でした。
同日の午後、日野も派遣先のドイツで購入したハンス・グラーデ式飛行機での試験飛行に成功しました。なお、日野は同年12月14日と同月16日にも試験飛行を行いましたが、すぐに着陸したという理由で正式の飛行とは認められませんでした。そのため、12月19日が航空100年の公式な起算点になっています。
日本航空事始 / 航空同人会編 ; 徳川好敏著 東京 : 出版協同社, 1964 【687.21-To426n】
初飛行の快挙を成し遂げた両名は、1910(明治43)年4月から4か月間、飛行機の購入と操縦法の習得のため欧州に派遣されていました。
フランスに派遣された徳川は、アンリ・ファルマンの飛行学校に入学し、操縦法を学びました。学校と言っても、所有飛行機は2機で、教官も1人しかおらず、教官と練習生が同乗して行う飛行練習を10回程度行っただけで単独飛行に臨むという簡素なものだったようです。徳川は、本書で、最初の単独飛行の際の気持ちを「私はなんとなく拠りどころのない淋しさを空中で感じていた。話し相手のないひとり旅のような淋しさだ」と述懐しています。このような練習内容であったものの、徳川は無事に飛行機操縦者免許状を獲得して帰国し、快挙を成し遂げました。
雄飛 : 空の幕あけ所沢 / 所沢航空資料調査収集する会編 [所沢] : 須澤一男, 2005.4 【YQ5-H53】
911(明治44)年4月1日、所沢に日本初の飛行場が開場され、臨時軍用気球研究会・所沢試験場となりました。わずか4機の輸入飛行機からスタートした所沢飛行場でしたが、格納庫の増設や飛行場の拡張工事が行われるなど、飛行機開発の中心地としての整備が進められました。この資料は、日本帝国陸軍の公式写真として撮影された所沢飛行場や飛行機の記録写真を中心に、飛行機の構造図や所沢陸軍飛行学校に関する資料等もまとめられています。初期の飛行訓練で用いられている木製の骨組みで、操縦席やエンジンがむき出しのシンプルな構造の飛行機が、装備が充実して性能が向上し、流線型の胴体に包まれた近代的な機体に変わっていく様子が見られます。
当初、飛行機の機体はすべて輸入に頼っていましたが、1911(明治44)年5月5日には、国産民間機の初飛行が成功しました。また、翌年には稲毛海岸に民間飛行場が開場されるなど、飛行家を育成する環境も徐々に整備されました。1913(大正2)年には、民間主導による航空振興を目的として、帝国飛行協会が創設され、協会が開催した懸賞飛行や、補助金の交付、懸賞論文の募集、海外飛行家の招致等の事業は、民間航空界の発展に大きく貢献しました。
設計者の証言 : 日本傑作機開発ドキュメント 上巻 / 東京 : 酣灯社, 1994.8 【NC111-E54】
1911(明治44)年5月5日、男爵奈良原三次によって製作された奈良原式2号が、所沢飛行場で高度約4m、距離約66mの飛行に成功しました。奈良原は、元は海軍に所属し臨時軍用気球研究会の委員でもありましたが、飛行に成功したときには、自作飛行機の開発に専念するために軍を除隊し研究会も辞しており、製作費も自費であったので、この飛行が国産民間機の初飛行であるといわれています。奈良原の助手の伊藤音次郎は、本書で、奈良原式の各号機等の黎明期の飛行機の開発にまつわる苦心談等を披露しています。特に、奈良原式2号機での飛行訓練については、エンジンの回転の調節が難しく、「ブウ」と滑走して浮き上がっては落ちて、「ガチャン」と脚を壊すという繰り返しで、このころを「ブウ・ガチャン」の時代として振り返っています。
男爵の愛した翼たち : 航空遺産継承アーカイブス : a photographic memoir. 上(civil aircraft 1920-1945) / 文化財研究所東京文化財研究所監修 東京 : 日本航空協会航空遺産継承基金, 2006.3 【DK211-H48】
1912(明治45)年5月に、奈良原により開かれた稲毛飛行場には、多くの民間飛行家が集いました。奈良原の助手であった白戸栄之助や伊藤音次郎らも、この飛行場で研鑽を積んで活躍した飛行家です。白戸は、日本人で初めて見物料を徴収する興行飛行を行った民間飛行家として人気があり、大勢の見物人が訪れ、街道に露店が並ぶという騒ぎだったようです。ライト兄弟の飛行を伝える活動写真を見て感激し、飛行家を目指した伊藤は、白戸の指導のもとで操縦を学びました。彼らは後に、飛行機の製作や後進の指導・育成にも尽力しました(出典:平木国夫著『日本飛行機物語 首都圏篇』(1982.6)【DK211-45】)。
本書は、昭和初期から飛行機やグライダーの設計や製作に取り組み、大戦後も自作航空機の普及活動に貢献した男爵宮原旭の写真コレクションを紹介するものです。白戸や伊藤が製作した飛行機や飛行練習の写真が多数掲載されています。
飛行家武石浩玻三十年の命 / 金井重雄著 東京 : 金井重雄, 1913 【348-56】
明治後期から大正初期にかけて、飛行家を目指して欧米の飛行学校で学んだ民間人がいました。武石浩玻もその一人で、アメリカのカーチス飛行学校で操縦を学び、1913(大正2)年5月、大阪・京都間の長距離連絡飛行に挑みました。しかし、着陸に失敗して命を落としてしまいます。本書は、武石の功績を紹介するもので、武石がアメリカでボーイやコックの仕事を転々としながら放浪の末に飛行機に出会い、飛行家を目指すようになった経緯や、雑誌に掲載された武石の論文等が紹介されています。武石の死は、日本人による長距離飛行の快挙を期待していた市民に衝撃を与え、一周忌には琵琶歌もつくられました(出典:永井重輝著 天囚居士曲『武石浩玻 : 薩摩琵琶歌』(1913)【YD5-H-特105-702】)。
1911(明治44)年のJ.C.マースの来日を皮切りに、海外から飛行家が次々と来日し、全国各地で飛行会を開催して大盛況を博しました。彼らは、宙返りや横転、旋回飛行などの曲芸飛行を行い、見せ物として多くの人々を熱狂させただけでなく、高い飛行技術を見せつけ、日本の航空界に大きな刺激を与えました。
日記から / アート・スミス著 佐々木弦雄編 東京 : 新橋堂, 1916 【360-493】
1916(大正5)年3月には、アメリカの飛行家アート・スミスが来日し、4か月間で東京、鳴尾、名古屋、大阪、金沢等、全国各地を巡業しました。スミスは、親孝行な若者として雑誌等で紹介されたこともあり、非常に人気がありました。本書は、日本滞在中のスミスの日記を翻訳編集したもので、夜間飛行を行った鳴尾の夜景が素晴らしかったことや、金沢の上空では家の屋根の上に積雪対策のための石が置かれていることに驚いたこと、札幌で墜落し負傷したことなどが綴られています。
女流飛行界の現状とカザリン・ステインソン嬢 / 渡部一英編 東京 : 国民飛行会出版部, 1916 【特111-235】
1916(大正5)年12月には、アメリカから、女性飛行家キャサリン・スティンソンが来日しました。スティンソンは、各地で得意技の夜間飛行や宙返り、空中に黄煙で文字を書く等の曲技を披露し、その可憐な風貌とも相まって人気を集めました。本書には、当初、音楽学校への進学のための資金稼ぎのために飛行家になったというスティンソンの経歴のほか肖像や夜間飛行の写真も掲載されています。また、当時、欧米で活躍した女性の飛行家も紹介されています。スティンソンの来日後しばらくして、日本でも女性飛行家が活躍するようになります。(第2章コラム)
独自の研究を重ねて飛行機の開発を目指していた陸軍軍人二宮忠八は、1894(明治27)年8月、飛行機の開発を促す上申書(「軍用飛行器考案之儀ニ付上申」)を提出しました。上申書の完成予定図では、自転車のような足踏み式の人力飛行機として描かれていますが、二宮はより強力な動力として、エンジンを設置しようと考えていたようです。しかし、日清戦争の最中であったこともあり、上申書は上層部から却下されます。軍を退いた後も二宮は、有人飛行を目指して研究を続けましたが、ライト兄弟の飛行成功を知り、開発を断念してしまいます。
しかし、この研究は再評価され、1920(大正9)年に雑誌『帝国飛行』に取り上げられます。歴史に「もし」はありませんが、二宮の上申書が受け入れられて開発が進んでいたら、ライト兄弟に先駆けて、人類初の動力飛行を日本人が成し遂げていたかもしれません。
なお、二宮の上申書では、「飛行機」という表記が一般的になる前だったため、「飛行器」という表記になっています。
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航空産業の発展・新記録への挑戦