大正初期までは興行的な単独飛行が中心だった日本の飛行機でしたが、操縦技術・設計技術の発達により乗客や物を乗せて運ぶことが可能となり、産業として活用する道が拓かれます。まず郵便飛行、そして貨物・旅客輸送が始まり、高価ではありましたが、飛行家に限らず一般の人々も空の旅を楽しめる時代が訪れます。また、記録樹立などを目的とした国外への長距離飛行にも挑戦し、その成功は航空先進国であった欧米諸国にまで驚きを与えました。
第2章では、大正以降の郵便飛行開始から定期航空開通までの航空路線の発達の様子や、日本の飛行機が成し遂げた大飛行の数々を紹介します。
1914(大正3)年以降、次々と定期の航空輸送を始めた欧米諸国に比べ、日本の民間航空は長距離飛行や旅客輸送の面で大きく立ち遅れていました。1920(大正9)年8月の陸軍省内への航空局の設置、翌年4月の航空法制定といった制度面の整備に並行して、定期航空による旅客・貨物・郵便の輸送を始めようという動きが出てきます。その中でも他に比べ軽量で負荷が少ないこともあり、遠方との通信手段の中心である郵便を「より早く」届けるための手段として、まずは航空郵便の実用化を目指して試行が始められます。
公式の記録では、1919(大正8)年10月22日が初の郵便飛行の日とされています。帝国飛行協会による懸賞郵便飛行競技大会が行われ、競技に参加した水田嘉藤太・山懸豊太郎・佐藤章の3名が、郵便飛行による東京-大阪間の往復を試みました。水田は往路で不時着し失格となったものの、他の2名は成功しました。なお水田機の郵便物は、翌23日に鉄道で大阪まで運ばれました。このときはまだ郵便物を飛行機で運ぶことがイベント的な扱いでしたが、競技大会はその後も第4回まで開催され、その成果はその後の定期航空郵便の実現へと活かされていきます。
続ああヒコーキ野郎 : 大空のロマン・人間航空秘史/ 鈴木五郎著 東京 : グリーンアロー出版社, 1977.12 (グリーンアロー・ブックス) 【DK211-32】
初の民間定期航空路の開通は1922(大正11)年11月15日でした。井上長一の日本航空輸送研究所による堺-高松線です。週に往復3便ずつの運航で、旅客・貨物を取り扱い、運賃は片道40円でした。
続いて翌年1月11日に朝日新聞社が設立した東西定期航空会が東京-大阪間で、同年7月10日には川西清兵衛の日本航空株式会社が大阪-別府間で、それぞれ開業しました。
これらの定期航空の順調な運航を見て、逓信省は1925(大正14)年4月20日から、各路線を利用した郵便物の航空輸送を試験的に始めました。
本書には、こうした井上・川西・朝日新聞社らの航空路開発競争の様子が詳しく書かれています。1922(大正11)年7月に川西の設立した日本航空輸送研究会が、井上より先に営業開始をもくろんでいた矢先、飛行機を壊してしまい遅れをとったというエピソードなどが紹介されています。
各民間会社による航空路線は、天候や機体の整備状況などにより欠航となることも多く、定期といっても試行的な色彩の強いものでした。それらの開業後に航空局の管轄が陸軍から逓信省へ移ったことも手伝い、各地の民間航空の路線をまとめた大手航空会社の設立の機運が高まってきました。
1929(昭和4)年4月1日、官民合同の日本航空輸送株式会社が定期郵便・貨物輸送を開始しました。輸送ルートは同年6月21日には東京-大阪-福岡-蔚山-京城-大連となり、その後も各地へと延伸を続けました。この際、東西定期航空会は東京-新潟間、日本航空輸送研究所は堺-高松-松山間に運航区間が変更となりました。
同年7月15日には、定期旅客輸送も開始されています。東京-大阪が30円、大阪-福岡が35円でした。この旅客輸送は順調だったようで、同年秋ごろからは主要都市上空での遊覧飛行も実施されました。掲載資料では、そのような会社設立後10年間での航空路線の発展の様子がカラフルに紹介されています。
なお、1938(昭和13年)11月には大日本航空株式会社へと改組されますが、このときに各地のローカル線を運航していた各民間航空会社は営業を終了し、これをもって同社による国内の航空路線の統合がなされました。
これにより、現代まで続く定期旅客航空が確立されたわけですが、乗り心地はどうだったのでしょうか。『飛行機とともに』【NC111-18】p.85~88には、日本航空輸送株式会社が発行した「旅客航空輸送案内」が引用されています。一方、『読売新聞』1929(昭和4)年6月2日号【YB-41】には、記者の試乗体験記が載っています。「滑らか」「快絶」とほめちぎっていますが、実際はどうだったのか、気になるところですね。
ギャラリー航空郵趣 / 東京 : 日本郵趣協会, 2000.11 【DK321-G94】
定期航空郵便の開始に合わせて、通常の郵便料のほかに航空料金を徴収し、航空機による高速郵送を行う「航空郵便」制度が始まりました。それに伴い、1929(昭和4)年10月6日には初の航空切手が発行されました。この切手には芦ノ湖上空を飛ぶ日本航空輸送機が描かれ、その図柄の特徴から「芦ノ湖航空」と呼ばれました。
1938(昭和13)年5月に航空郵便制度が廃止となるまで、人々に親しまれました。
本書は2000(平成12)年の全国切手展を記念して出版された本で、芦ノ湖航空の他にも飛行機を扱った切手を数多く図版付で紹介しており、見た目にも楽しめます。
青春を翔ける : ドキュメント・日本のスチュワーデス / 鈴木五郎著 東京 : 集英社, 1989.11 【DK221-E13】
1938年に大日本航空株式会社が設立されるまで、上述の主要路線以外にも、小規模な航空路がいくつか存在しました。中でも特筆すべきは、東京航空輸送会社です。羽田-下田-清水を運航したこの会社は、1931(昭和6)年4月に「エア・ガール」を4人乗りの飛行機に搭乗させ、乗客に軽食や紅茶などを提供しました。現在のフライトアテンダントの先駆けで、大変な人気となりました。このサービスは1年間で終了となりますが、1937(昭和12年)10月には 日本航空輸送株式会社により本格的に実施されました。このときは神風号が東京-ロンドン間の国際記録を達成した直後ということもあり、10名の募集に対し2,000人以上の応募という高倍率となりました。
航空技術の発達は、当時欧米諸国で盛んとなっていた外国への親善飛行や、飛行記録の樹立への挑戦をも可能としました。大正末期から昭和初期にかけて、それらを目的とした海外への長距離飛行の企画が次々に持ち上がりますが、その多くは新聞社が主催したものでした。現代から見ると不思議に感じますが、取材ニュースの輸送を高速化してより速報性を高める目的のほか、イメージアップにより購読部数の拡大を目指す思惑もその背景にあり、さながら新聞社間の「空中戦」の様相を呈しました。記録達成のニュースの数々は、多くの読者の心を奪いました。
朝日新聞訪欧大飛行 上・下 / 前間孝則著 東京 : 講談社, 2004.8 上:【DK211-H13】 下:【DK211-H14】
1920(大正9)年以降、伊・仏・英・露の各国からの訪日親善飛行が相次ぎました。これに対する訪問答礼を兼ね、1925(大正14)年、朝日新聞社所有のフランス製機「初風」「東風」が日本人による初の訪欧飛行に成功しました。7月26日に日本を出発、モスクワ、ベルリン、パリ、ロンドンなどを訪問し、10月27日にローマに到着しました。実飛行時間は116時間でした。日本初の海外への長距離飛行とあって、国を挙げての一大イベントとなり、それまで危険なイメージだった飛行機が国民に広く受け入れられるきっかけとなりました。
本書は、この大飛行が成功した理由の一つとして、謙譲の精神など日本人ならではの資質が、チームワークの良さを生んだことを挙げています。また、世間の注目を集めるため、当時は危険視されておりどの国も未達成だったシベリア経由をあえて選んだことや、到着した先々で歓待を受け、ときには二日酔いに苦しめられたことなど、エピソードも豊富に紹介されています。
朝日新聞社訪欧機神風 : 東京-ロンドン間国際記録飛行の全貌 / 山崎明夫編著 東京 : 三樹書房, 2005.1 【NC111-H48】
「初風」「東風」による訪欧飛行の後、国内では「純国産機による飛行記録の達成」への期待が高まっていました。それを成し遂げたのが1937(昭和12)年4月の朝日新聞社「神風」号です。東京-ロンドン間を実飛行時間で51時間、途中の休息や燃料補給に費やした時間を含めた全所要時間では94時間を記録し、 都市連絡飛行の国際記録を樹立しました。それまで日本-ヨーロッパの飛行は、そのほとんどが全所要時間で10日以上かかっていただけに、この記録は世界中 に驚きを与え、国産機の名声を上げました。
本書によると、訪欧飛行を盛り上げるとともに朝日新聞の部数拡大をにらんで、「飛行時間を当てよう!」から「神風音頭」まで、全国で大規模なキャンペーンが行われたようです。時代の一大寵児となっていた飛行機を、メディアの視聴者拡大に結び付けようとする様子は、現代のメディアミックスの手法の先駆けといえるかもしれません。
航研機 : 世界記録樹立への軌跡 / 富塚清著 東京 : 三樹書房, 1998.11 【NC111-G41】
1938(昭和13)年5月13日~15日、東京帝国大学航空研究所の「航研機」が約62時間かけて、関東上空にて11,651kmもの無着陸周回飛行を続け、周回長距離の世界記録を樹立しました。翌年にイタリア機に破られることになりますが、日本が現在までに航空に関して唯一勝ち得た世界記録です(注:航空に関する記録の認定は、航空スポーツの発展のために1905(明治38)年に設立された国際航空連盟(FAI)が行っています。当時、FAIが「世界記録」として公認したのは、3kmコースでの速度、高度、周回距離、直線距離など六種目の記録のみでした。それ以外の多くの種目における記録は「国際記録」とされ、神風号の「東京-ロンドン間94時間最短飛行」はこちらにあたります)。
本書には世界記録の樹立を唯一の目的とした航研機の、開発から記録達成後までの成り行きが事細かに記されています。65時間にわたる飛行での食事は?記録はどうやって測ったか?といった素朴な疑問にも応えてくれます。
なお、『読売新聞』1938(昭和13)年5月17日夕刊【YB-41】に、航研機に搭乗した操縦士ら3人の鼎談記事が載っています。見出しは「長時間の飛行は頭が変になる 願ひは一つ"歩きたい"」となっており、軽妙なやりとりの中にも、記録達成時の彼らの苦労が垣間見られます。
1939(昭和14)年、大阪毎日新聞・東京日日新聞が世界一周大飛行を企画し、海軍機を改造した「ニッポン号」が、長年の悲願であった国産機による日本人初の世界一周を成し遂げました。8月26日の羽田出発から10月20日の帰還まで、全航程52,860km・194時間の大飛行でした。
本書からは、世界一周飛行の実施にあたり、飛行ルートなどの決定に入念な検討がなされた様子がわかります。太平洋横断中に酸欠で乗員が一時人事不省となったり、インドで間一髪衝突を免れるなど、幾度もの試練を乗り越え帰還した一行に、全国が感動と興奮を覚えました。飛行に併せて公募した歌詞をレコード化し、大ヒットした「世界一周大飛行の歌」の歌詞も載っています。
2010(平成22)年7月、日本初の女性の旅客機機長が誕生して話題となりました。では、女性の操縦士が生まれたのはいつごろだと思いますか?実はもう90年近くも前のことなのです。
徳川・日野の初飛行以降、空に憧れ、飛行技術の発展に取り組んだのは男性に限りませんでした。飛行学校などで訓練を積んだ女性たちが、次々と独力で空に羽ばたいていき、世間の注目を集めました。
飛行家をめざした女性たち / 平木国夫著 東京 : 新人物往来社, 1992.11 【NC111-E39】
戦前の女性パイロットたちの評伝です。日本の女性操縦士第一号である兵頭精(ひょうどう ただし)は、飛行機の図面を描いていた父に影響を受け、伊藤飛行機研究所に入学し、1922(大正11)年に三等飛行機操縦士の免許を取得しました。
その他にも、男装で知られ、プロマイドになるほどの人気だった木部シゲノや、エアガールも経験した及位(のぞき)ヤエなど、実に多彩な女性たちの人生が紹介されています。1976年には、彼女らをモデルとしたとされる、『雲のじゅうたん』【Y82-3955】という女性飛行家の生涯を描いたNHKドラマが 放送され、大変な人気を博しました。
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皆があこがれた飛行機