第3章 皆があこがれた飛行機―こんなところにも飛行機が

飛行機が日本の空を飛び始めた明治時代、一般民衆にとって飛行機はまだまだ遠い存在で、乗るものではなく見るものでした。そのころの人々には、人間が空を飛ぶというのは衝撃的だったことでしょう。全国の曲芸飛行や郵便飛行競技会の会場には観客が溢れんばかりに押し寄せました。また、飛行機の知名度が上がるにつれ、一種の飛行機ブームが起こりました。飛行機にちなんだ商品などもこのころ多く登場したようです。
第3章では、作家の作品や新聞記事などを通じて、当時、飛行機は世間にどのように捉えられていたのかを紹介します。

飛行機と作家たち

第1章でも触れましたが、明治から大正にかけて全国で曲芸飛行が数多く行われました。会場に詰めかけた見物人の中には、志賀直也や田山花袋、夏目漱石など有名な作家たちもいました。また昭和に入り定期航空が始まると、斎藤茂吉、内田百閒、林芙美子など、実際に飛行機に乗った作家も現れ始めました。飛行機は印象的なものだったようで、しばしば作品の中に取り上げられています。空を飛ぶ未知の乗り物に触れた作家たちは、自著の中で飛行機をどのように紹介しているのでしょうか。

石川啄木

石川啄木日記 第3巻 / 石川正雄編 東京 : 藤森書店, 1982.3 【KH197-21】

1911(明治44)年、石川啄木は腹膜炎のため入院し、退院してからも自宅療養を続けていました。そのため3月に来日したマースの飛行を実際に見ることはなかったようですが、4月2日の日記には「新聞には花の噂と飛行機の話が出てゐた」とあり、啄木は新聞でこの飛行を知ったと思われます。啄木の日記に飛行機が出てくるのはこの1回のみですが、後に「飛行機」という詩を著しています。死の前年、1911(明治44)年6月27日の作で、啄木の最後の詩となりました。病床で知った飛行機という存在に、啄木は何を思ったのでしょうか。この詩は『呼子と口笛:石川啄木のノート』(1975)【KH197-8】に収められています。

志賀直哉

暗夜行路 前,後篇 / 志賀直哉著 東京 : 岩波書店, 1951 【913.6-Si283a】

志賀直哉の唯一の長編小説で、着手から完成までに17年もかかっています。自身がモデルとなっている主人公、時任謙作は、小説の中で何度か飛行機を目撃し、また飛行機に思いを馳せる場面があります。前篇には、マースの飛行を初めて見たときのことが謙作の日記の中で触れられています。飛行機が飛び立った瞬間、「不思議な感動から泣きそうになった」と記してあり、人類の英知の結晶として飛行機が肯定的に捉えられています。しかし後編に入ると、墜落した飛行家の遺品を見るシーンなどが出てきて、謙作の飛行機に対する考えは変わっていきます。謙作は科学の発展を否定し、自然に惹かれ始め、クライマックスの大山の場面では、悠々と舞う鳶に比べて人間の考えた飛行機は醜いものだと思うようになります。

夏目漱石

日記及断片 下 (漱石全集 第26巻 / 夏目漱石著 東京 : 岩波書店, 1957 【918.6-N659s-i(s)】

1912(明治45)年6月1日に行われたアットウォーターの「飛行通信」は、当初5月25日に予定されていました。結局、この日は機体の故障のため中止となったのですが、飛行機の雄姿を見ようと会場に駆け付けた夏目漱石はかなりがっかりしたようです。5月25日の日記には「わざわざ案内をして理由もなく中止す。驚ろくべき無責任なり。(中略)カーチスなるものは恐らく山師ならん。」とあり、憤慨している様子が窺えます。なお、カーチスというのは機体の名前で、漱石は飛行家の名前(アットウォーター)と間違えているようです。
漱石が実際に飛んでいる飛行機を見たのはそれから4年後、アート・スミスの飛行でした。その様子も日記に記しており、宙返りするさまを、凧がぐるぐる回るのとは違い「なだらかな大きな円を描いて、ふわりと飛首が上がりつゝ又進みつゝ故の位地に復す」と言っています。またスミスの得意技であった錐揉(きりもみ)飛行を見て、落ちたのではないかと思ったことなどが記されています。

斎藤茂吉

空中競詠としゃれた四歌人 (朝日新聞 1929(昭和4).11.29朝刊 p.2 【YB-2】)

1929(昭和4)年11月28日、斎藤茂吉を含む4人の歌人が朝日新聞社機に搭乗し、機上で歌を詠みました。立川飛行場を出発し、関東上空を飛び廻る約2時間15分の飛行でした。このときが茂吉にとっての飛行機初体験でしたが、記事によると、「一行は箱根上空で干杯をあげたり、ありつたけの空中彌次喜多ぶりを発揮しいづれも大元気」と、初フライトを大いに楽しんでいたようです。その際に詠んだ茂吉の歌約60首は「虚空小吟」と名付けられ、後に歌集『たかはら』【911.168-Sa266t 】に収録されました。

巻き起った飛行機ブーム

飛行機が人々に知られるようになるとともに、さまざまな分野に飛行機が登場するようになりました。チラシやポスターに飛行機の図案が使われはじめたり、飛行機が新記録を達成すると、その快挙をたたえて「神風音頭」や「世界一周大飛行の歌」などの歌がヒットするなど、目でも耳でも飛行機に接する機会が増えました。またこのころ、子ども向けの飛行機に関する読み物や小説も数多く出版されました。人々は生活のあちこちで飛行機に触れるようになり、飛行機熱はますます加速していったようです。ここからは、飛行機の流行を示すエピソードをいくつかご紹介します。

模型飛行機

飛行機模型のつくりかた / 河本清一著 東京 : 南井商店, 1911 【特48-660】

飛行機が世の中に登場すると、子どもたちの関心は、それ以前に流行していたゴム風船や紙製の落下傘から模型飛行機に移っていきました。1911(明治44)年7月には大阪の中之島公園で日本初の模型飛行機の競技会が開かれ、多くの人々が参加しました。競技会はその後日本各地で開催され、昭和に入ると全国大会も開かれるようになりました。
本書では紙飛行機、主翼が1枚の単葉機および主翼が2枚の複葉機全8種類の作りかたを図入りで説明しています。中にはブレリオ式、ファルマン式など実際の飛行機を模したものもあります。紙飛行機以外はすべてゴム動力で、プロペラを100回前後回して飛ばす仕組みになっており、舵も付いています。また、骨組みや翼、プロペラ、車輪の作りかたなども個別に説明があり、骨組みや翼はヒノキ、プロペラはホウの木がよいなどと書かれています。はしがきには「少年諸君は之れにより種々造つたり飛したりして飛行機なるものゝ趣味を覚えだんゝに実物を造つて日の本の空を飛び廻られんことを望む」とあり、実際の飛行機制作の前段階として、模型飛行機作りに親しんでもらうため書かれた本のようです。

双六

図案と手工練習の応用

明治から大正にかけて、雑誌や新聞の新年号には付録として双六が付けられることが定番となっていました。その中には時代を反映して、飛行機が描かれているものも多くあります。朝日新聞社の訪欧飛行や、郵便飛行大会など、実際に飛行機が飛んだルートを盤上でたどるような双六も作られました。
こちらは、当時試行が進められていた郵便飛行を模したと思われる双六で、新聞の本紙に掲載されたものです。盤面には所沢-大阪間の地名が書かれており、所沢から大阪へ向かい、また所沢まで戻ってきます。右下には少年パイロットの写真もあり、駒は飛行機が描かれたカードとなっています。ルールによると、サイコロの代わりに「飛行珠」というものを使用するとあります。飛行珠はサイコロと同じく正六面体で、それぞれ目は「日本晴」(4ます進む)「はれ」(3ます進む)「雨」(2ます進む)「霧」(1ます進む)「突風」(1ます戻る)「故障」(1回休み)となっています。また、ところどころ悪気流・大悪気流の場所が設定されており、そこに止まったときには、他の場所に止まったときよりたくさん戻らなければならなかったり、出た目によっては墜落してしまいます。

幕末・明治の絵双六 / 加藤康子, 松村倫子編著 東京 : 国書刊行会, 2002.2 【KD958-G664】

絵双六121点がカラーで紹介されています。その中に、ルールに飛行機が使われている双六として「家庭教育世界一周すごろく」(大阪毎日新聞 1926(大正15).1.1 【YB-7】付録)があります。日本とロンドンを往復して最初に日本に戻ってきた人が勝ちですが、まず出発点を東京か大阪か決めます。それにより東京出発の人はアメリカ回り、大阪出発の人はヨーロッパ回りとなり途中通過しなければならない都市も変わってきます。また、移動に使う乗り物はサイコロの目によって決まり、1~5なら汽車または汽船を、6なら飛行機を使います。
汽車や汽船は出た目により次に進む都市が決まっていますが、飛行機であれば汽車や汽船が通っているところならどこにでも進めるというルールになっており、移動手段として飛行機は汽車や汽船に比べ特別であったことが窺えます。

流行に与えた影響

新案束髪『初風巻』と『東風巻』 / 大場静子 (婦女界 大正14年10月号 1925(大正14).10.1 p.290-291 【YA5-1084】)

遊びだけではなく、さまざまなところに飛行機は影響を及ぼしました。女性のファッションに飛行機の名前が付けられた例があります。
当時の女性の間では髪を七三に分けたり、オールバックにしたりするのが主流でしたが、一歩進んだ新しい髪型として、髪を中央から分けて結いあげる方法が図入りで紹介されています。ちょうどこのころ、朝日新聞社の訪欧飛行が成功したことから、機体名にちなみ「初風巻」「東風巻」と名づけられました。誰にでもよく似合う髪形とされていますが、特に「初風巻」は若い人向け、「東風巻」は奥さま向けとのことです。『朝日新聞』【YB-2】1925(大正14)年9月25日の記事でもこの髪形が写真入りで紹介されています。

日本初の機上結婚式

三々九度の様子

この写真は一見普通に結婚式が執り行われているように見えますが、実は式場は飛行機の中でした。

今度は空中結婚 外史将軍の媒酌で (朝日新聞 1931(昭和6).4.1朝刊 p.7 【YB-2】)

明治神宮上空で三々九度の杯 昨日先端的な飛行機上の結婚式 (朝日新聞 1931(昭和6).4.13朝刊 p.11 【YB-2】)

昭和に入って旅客航空輸送が始まると、一般の人々も飛行機に乗る機会が少しずつ出てきましたが、1931(昭和6)年4月12日、日本初の機上結婚式が行われました。記事によると新郎が「ウンと変った方法で式を挙げようと」考え陸軍の長岡外史に相談、日本空輸会社の飛行機を使い、式が執り行われることとなりました。新郎新婦を乗せた飛行機は午後2時半に立川飛行場から離陸、明治神宮の上空で三々九度の杯を交わし、その後台場、玉川の空を巡ったのちに立川飛行場に戻りました。飛行場には友人、知人が待ち受けており、用意してあった天幕の中で披露宴が開かれたそうです。

コラム航空の未来予想図

空中警察による巡空の様子

当時の人々は、日本の空を飛び始めた飛行機が今後どのように発展していくと思っていたのでしょうか。当時の著名人250人に対しアンケートを行ったこの特集の中には、航空界の将来について言及しているものもあり、多くの人が飛行機が重要な交通機関になると予想しています。履物を履いて歩くように気軽に空を往来できる1人乗り飛行機ができる、大型の600人乗り飛行機ができる、火星との交通が開ける、空中に静止することができるようになり空中市場ができるなど、さまざまな予想が挙がっています。画像で紹介したのは、この特集に付けられた挿絵で、空中警察ができて、巡査が巡回ならぬ「巡空」している様子です。

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参考文献



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