明治期の女性教育者
女子教育の必要性が意識されるようになった明治時代、この時期に活躍した女性教育者を、私立の女学校の創立者を中心に紹介しましょう。
幕末に女児の寺子屋の就学率は上昇しましたが、その内容は手習いや裁縫、礼儀作法などの教養が重視され、男子とは異なるものでした。明治維新後、政府内では女子教育の近代化、特に男女の教育内容の平準化の必要性が意識されました。例えば、明治5(1872)年に「学制」とともに出された「被仰出書」の中では、一般市民=「華士族農工商婦女子」の中に、不学の者なきを目指すとしています。また明治4年には女子英学塾(後の津田塾大学)の創立者となる津田梅子や大山捨松らを含む女児5名をアメリカに留学させ、翌年に西洋人を教師とする官立の東京女学校を開校しました。東京女学校では、後に共立女子大学を創立した鳩山春子が教育を受けています。
こうした女子教育向上の要請に応えた女学校には、女性教育者によって創立されたものが少なくありません。その先駆けとしては跡見学校(後の跡見学園女子大学等)を創立した跡見花蹊や、華族女学校(後の女子学習院)を創立した下田歌子が挙げられます。また、吉岡弥生は自身の開業した病院内に東京女医学校(後の東京女子医科大学)を創立し、女医養成に貢献しました。
実業家として著名な広岡浅子は、日本で最初の日本女子大学校(後の日本女子大学)の創立に携わっています。社会活動家や歌人としても知られる九条武子は、京都女子専門学校(後の京都女子大学)の設立に関わっています。
キリスト教系教育者の動きも見逃せません。外国人宣教師によっていち早く女学校が開設されましたが、その一つである新栄女学校で教えていた矢嶋楫子は、女子学院の設立にあたって院長に就任しました。また新島八重は同志社女子大学の基礎を作りました。東京女子高等師範学校(後のお茶の水女子大学)で学んだ安井てつは、東京女子大学の学監を務めたのち、新渡戸稲造に代わって、2代学長に就任しました。
他にも大妻学院(後の大妻女子大学)の創立者大妻コタカや芳野菅子は、良妻賢母、女子の裁縫教育に力を入れました。