ブラジル野球
サッカーが国技とされるブラジルにあって、野球は日本ほどには盛んなスポーツではない。しかし日系移民が集団で入植した日系植民地では、昔とった杵柄とばかりに休みの日には、日本から肌身につけて持ち込んだグローブやお手製のバット(注1)を手に、空き地、運動場あるいはサッカー場などで野球が楽しまれていた。入植者がうなぎのぼりに増えていった1930年代後半には「全伯野球大会」という日系移住地対抗のトーナメント大会が開催されるようになる。移民50周年記念の1958年(昭和33)に早稲田大学野球部が渡伯した際には、16戦全敗で全く歯が立たなかったブラジル野球界だが、地道な発展の結果、1995年(平成7)から広島で活躍した玉木エンリケ重雄(投手・広島カープ‐楽天)のような好選手を生むに至っている。その黎明期の歴史の中から、2人の野球人に着目してみたい。
笹原憲次とミカド倶楽部
では日系移民が初めてブラジルに野球を持ち込んだのかというと、実はそうではなく、19世紀末から20世紀初頭にかけてアメリカ合衆国からやってきた電力会社や電話会社の技師たちによって、日系移民の渡伯以前に野球は行われていた。日系移民の多いサンパウロでも、現在のパルメイラスのサッカー場の前身であるパレストラ・イタリアサッカー場などで、技師達は領事館の野球愛好者などと草試合を楽しんでいた。1917年(大正6)頃、そのサンパウロの米国人野球界に一人の日本人青年が混じってプレーするようになる。彼の名は笹原憲次。日本人としては大柄・頑健だった彼は、加入するとたちまち中心的存在として活躍するようになった。その活躍ぶりは、後に笹原がチームを離れた後にも、米国人同士のサンパウロ対リオデジャネイロの対抗戦を行う際には、決まって彼にピッチャーの助っ人を頼んだほどだった。
1889年(明治22)静岡県生まれの笹原が渡伯したのは1915年(大正4)。1912年(大正元)に慶応大学の予科を家業の都合で中退した後、同郷の友人とヨーロッパに渡り、そこから共にブラジルに辿りついたという、いわゆる単独移住だった。ブラジルに着いた当初は煙草栽培など農業で身を立てようとしたがうまくいかず、サンパウロに出てきてアメリカ人と野菜の売買の商売を始め、その縁で米国人野球チームへの加入となる。
一方、サンパウロ在住の日系人の中にも野球愛好者は沢山おり、1916年(大正5)、サンパウロの青年会の結成式の後に、当時日系人が固まって暮らしていたコンデ・デ・サルセーダス街の坂を下った先にあった、後に通称「赤土ヶ原」「スダン球場」などと呼ばれることになる煙草工場敷地内の空き地で野球部結成の始球式が行われ、「野球のような遊び」を行っていた。笹原がサンパウロにやってくるのはその翌年。しばらくは米国人チームで活躍していた笹原だが、程なくサンパウロ在住の日系の野球愛好者と知り合うようになる。それまでの青年会の野球部では、なかなか試合に必要な人数が揃わず、定期戦を行えるような状態ではなかったため、笹原らは日本人による本格的な野球チーム結成を思い描くようになった。
そして1920年(大正9)5月、笹原を部長として「ミカド運動倶楽部」(注2)が発足することになる。翌月の記念すべき第一戦、米国人チームとの対戦では敗れてしまったものの、笹原もピッチャーとして出場した。ミカド倶楽部の主な活動は、サンパウロ在住の米国人チーム、サントスに入港した日米船員のチームとの対戦や、紅白戦で、米国人チームとの対戦では同好の士のよしみか、彼らも対戦相手に飢えていたのか、送迎飯付きの至れり尽くせりの時もあったという。翌年の11月にはライバルチーム「ラッパ野球団」が誕生し、ミカド対ラッパの定期戦が行われるようになる。米国人相手ではピッチャーを務めた笹原だったが、日本人同士の対決は力を均衡させるためか、専らキャッチャーを務めている。
運動家としての活躍ぶりが認められたのか国策会社の海外興業の職員となった笹原は、1923年(大正12)にレジストロ支店に転勤になり、もちろんレジストロでも野球振興に励んだ。建築業者の鮫島直哉の寄贈旗をめぐって1924年(大正13)にアクリマソン公園で開催された第一回の鮫島旗争奪戦では、レジストロチームを率いてサンパウロに出向き、見事第一回の優勝者となっている。温厚で指導にも熱心だった彼の影響で一時レジストロだけで7,8チームできるほど野球が盛んになったが、1926年(昭和元)6月、笹原は突然の脳溢血で早世してしまう。いまだ結婚もせず、その短い生涯はブラジルでの野球の普及のみに捧げられたといって過言でない。彼の死去を伝える新聞には「海興職員としてより、元気な運動家としてよく知られている笹原憲次氏」と敬意をこめて紹介されていた。
弓場勇とアリアンサチーム
サンパウロで笹原の追悼試合が「赤土ヶ原」で行われた同じ頃、新聞に「アリアンサに数十名の猛者がおり日本から野球用具一式を取寄せてチーム結成との報」が伝えられた。この「猛者」の中心となっていたのが、後に「弓場農場」(注3)の創設者として知られることになる弓場勇だった。甲子園出場はならなかったものの、旧制中学で豪腕としてならした弓場の野球への入れ込み方は半端なものではなかった。他の移住地チームがメンバー不足やサンパウロ市までの遠征の負担を理由に辞退を続ける中、弓場のアリアンサは山伐りを請け負って遠征費を稼ぎ出すなどして鮫島旗争奪戦に出場を続けた。鮫島旗争奪戦という名前は立派だったが、アリアンサの初参加から3年に渡ってサンパウロとアリアンサ2チームのみの一騎打ちが続くというような状態。意気込んで臨んだ初参加の1926年(昭和元)には、練習不足のミカドチームに敗れ、弓場は人目もはばからず悔し涙を流したという。
「時に五時、笑うミカド、泣くアリアンサ。運命の神の裁きはこれか。唯一回の練習なき烏合の連合軍勝つ。それは技量の差か、否唯それはスパイクの有無である」
と日伯新聞はおどけ気味に評じた。スパイクなど用具の揃っていた都会のミカド倶楽部に対し、地方の農村からやってきたアリアンサは用具が揃わず、ズックで試合に臨んでいたのだ。また、整地不足のでこぼこのグラウンドでは、守備の差が大きく勝敗を分けた。この悔しさを糧に猛練習を積んだアリアンサは、以後他を寄せ付けず3連覇することになる。特に3連覇のかかった1929年(昭和4)には大会前にわざわざリンス市に出向いて1ヶ月間の合宿を行うほどの入れ込みようで、後に理想主義に燃えて協同農場を興すことになる弓場のリーダーシップと一本気さを、既に20代前半にしてみることができる。
弓場は、後に慶応大学に入り水原茂らと共に名を馳せることになる強打者の山下実から、日本での中等野球時代に三振を奪ったことを自慢話にしていた。その話は伊達ではなく、オーバースローからの豪速球にドロップボールを交えたピッチングで、ブラジルでも容赦なく三振の山を築いた。素人混じりの対戦チームがたまらず編み出した弓場攻略法は、バント戦法。速球自慢の弓場だったが、一球に入魂しすぎるのか投球直後のフィールディングに難があり、ピッチャーへのゴロを拾った後の一塁送球は決まって大暴投だった、と多少大げさに伝えられている。
全伯野球大会
1930年(昭和5)以降、サンパウロ市近郊の聖市野球選手権、アリアンサなどのあるサンパウロ州ノロエステ(北西)地方のノロエステ野球大会、とそれぞれの地方で大会が行われるようになった。これは遠征が負担だったことに加えて、日本人移民の拡大に伴って地方の入植地でも野球人口・チーム数が増えたことが背景にある。そのような地方での拡大期を経た1936年(昭和11)、バストス、チエテ、パラグアスー、サンパウロが参加して初の「全伯野球大会」がサンパウロで開催された。地方ごとの予選方式を主張して第一回に不参加だったアリアンサも、予選方式が採用された第2回から参加、第3回からは日伯新聞社主催となり入場料もとって盛大に行われるようになった。全伯野球大会(注4)は1941年(昭和16)の第6回まで開催されたが、日米開戦により日系人の集会もままならなくなり、戦前の公式戦はこれが最後となってしまった。
注1 | ブラジルに自生している樹木を片っ端からバットとして使用してみる試行錯誤の結果、重かったり折れやすかったりするものが多い中、意外なことにグァバの木が適木と判明した。 |
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注2 | 「運動倶楽部」なので野球だけではなく、テニス・卓球なども活動に含まれていた。 |
注3 | 弓場農場:「日本民族による新しい文化の創造」という理想のもと、弓場勇らによって1935年に創設された協同農場。1960年代以降には、農場で働く人々自身が踊り手となる弓場バレエ団によってブラジル国内でも有名になった。現在も農場内では日本語による生活が営まれている。 |
注4 | 会場となったのは、先述のパレストラサッカー場、スダン球場、工場や牧場の空き地など。蹴球場では左翼だけ極端に短かったり、牧場の空き地は整地不十分の為、でこぼこでイレギュラーが頻繁に起こった。そんなサンパウロとは逆に、用地の確保が容易だった地方の日系入植地では、娯楽用施設として真っ先に専用の野球場が作られた。 |
【参考文献】(<>内は当館請求記号)
- ブラジル野球史編集委員〔編〕『ブラジル野球史. 上巻』 Sao Paulo 伯国体育連盟 1985 <FS35-544>