第2章 芸術
1. フランスに学んだ芸術家たち
明治に入り文明開化の流れの中で西洋の美術作品が本格的に制作されるようになった。我国初の官立美術学校である工部美術学校では、体系的な西洋の絵画・彫刻の教育が行われ、当初国粋主義による排斥の動きもあったが、洋行帰りの画家や彫刻家たちにより、次第に「洋画」や造形美術としての「彫刻」が確立されていった。彼らの多くは、当時芸術の中心地であったフランスに渡っている。アール・ヌーヴォーのガラス工芸家エミール・ガレ(1846-1904)、近代彫刻の第一人者オーギュスト・ロダン(1840-1917)、外光派の画家ラファエル・コラン(1850-1916)、歴史画家ジャン=ポール・ローランス(1838-1921)らの下で高度な技術と自由の精神を学んだ。日本とは趣の異なる風土に身を置くことで、彼らは在来の美術とは異なる独自の世界を創り上げた。
画家
高島得三『欧洲山水奇勝』金港堂,明治26(1893)【16-179】
日本画家・高島北海(得三、1850-1931)は、工部省鉱山寮、内務省地理局、農商務省山林局等の技師としても活躍した。父から南画の手ほどきを受けたほか画業は独学であったが、こよなく山岳を愛し、鉱山寮のフランス人技師フランソワ・コワニエ(1837?-1902)から学んだ地質学や、ナンシー森林高等学校留学時代に習得した林学の知識に裏打ちされた客観的視線で対象を捉え、独自の世界を築いた。ナンシーでは芸術家らと親交を結び、エミール・ガレに植物辞典『日本植物名彙』【75-65(洋) 】を貸したことが知られている。また、リモージュ美術館に自作の水墨画10幅を寄贈するなど、文化交流への貢献が評価され、明治21(1888)年に日本人として初めて、フランスの「教育功労章」を受章した。本書は、業務でヨーロッパ各地の森林調査を行う傍らスケッチした風景の中からフランス、イタリア、スコットランドの景勝40枚を選んで彩色木版画とした画集。
[浅井忠画]『浅井忠画帖』浅井忠[製作年不明]【寄別3-1-2-1】
石井柏亭編『浅井忠』 芸艸堂, 昭和4(1929)【553-116】
洋画家・浅井忠は、工部美術学校画学科でイタリア人教師アントニオ・フォンタネージ(1818-1882)から本格的な絵画指導を受けた。明治33(1900)年から2年間、フランスに留学し、うち半年間は、黒田清輝、和田英作(1874-1959)ら日本人画家や英・米・北欧の芸術家が数多く滞在した、パリ南東に位置するグレー・シュル・ロワン村で過ごし、代表作となる風景画を描いた。帰国後は、京都高等工芸学校(現京都工芸繊維大学)教授、関西美術院初代院長として後進の指導にあたり、門下から石井柏亭(1882-1958)、梅原龍三郎(1888-1986)ら多くの有名画家が輩出した。日本画、陶磁器や染織の図案、雑誌の表紙や挿絵なども手掛けている。『浅井忠画帖』は、布や和紙に描いた水彩画11枚を台紙の表裏に貼付し、折本仕立てにしたもの。『浅井忠』は、門弟による伝記で作品図版を多数載せている。
松岡寿先生伝記編纂会編『松岡寿先生』松岡寿先生伝記編纂会, 1941【723.1-Ma86ウ】
工部美術学校でフォンタネージの指導を受けた洋画家・松岡寿(1862-1944)は、明治13(1880)年に渡欧し、ローマ国立美術学校を卒業した。同20(1887)年10月から約1年間フランスに滞在し、宮内省の依頼でヴェルサイユ宮殿画廊の歴史戦争画の模写を制作した。本書は、松岡が教授を務めた東京高等工業学校の卒業生らによって刊行された。前半には、洋画排斥に対抗する十一字会の創立、内国勧業博覧会や文展の開催、さらに明治美術会が白馬会・太平洋画会に分裂した経緯を描いており、松岡の伝記を通じて明治前半の洋画界の通史を見ることができる。巻頭には昭和16(1941)年5月、78歳の時の自画像を掲載する。
中村不折『不折画集』光華堂, 1910-1911【408-24】
中村不折(1866-1943)は、明治34(1901)年に渡仏。当初アカデミー・コラロッシでラファエル・コランに学ぶが、入門から半年後にはアカデミー・ジュリアンに移り、ジャン・ポール・ローランスに師事した。他にも、アルフォンス・ミュシャ(1860-1939)、アンリ・ロワイエ(1869-1938)、ガブリエル・フェリエール(1847-1914)らからも短期間教えを受けている。帰国後は、太平洋画会の会員となった。正岡子規(1867-1902)をはじめ多くの文学者と交流があり、島崎藤村(1872-1943)『若菜集』【68-511】、森鷗外(1862-1922)が創刊した雑誌『めさまし草』【雑8-17】などの装丁を手がけた。日本最初の新聞挿絵画家としても活躍し、本書には軽妙なスケッチが掲載されている。
和田英作編『黒田清輝作品全集』審美書院, 1925【16-268】
黒田清輝は、画家・教育者・美術行政官として日本の洋画界に絶大な影響を与えた。明治17(1884)年に法律研究のためパリに留学するが、画家として留学していた藤雅三(1853-1916)の通訳を引き受けたことでラファエル・コランの知遇を得、やがて自らも教えを受けるようになった。コランは、フランスの古典的アカデミズムに印象主義や象徴主義を取り入れた「外光派」と呼ばれる折衷的な画風の画家である。黒田が持ち帰った明るい色彩の画風は洋画界に変革をもたらし、画塾・天心道場や教授を務めた東京美術学校からは多くの門下生を輩出した。帝室技芸員、帝国美術院長、貴族院議員などを歴任し、美術行政の面でも活躍した。その死から4カ月後に開催された遺作展覧会では、在仏時代のデッサンから絶筆の《梅林》に至るまで440点余りが集められた。本書は、同展覧会に陳列された作品を収録した画集である。
芋洗生著・湯浅一郎画『巴里之美術学生』画報社, 1903【82-571】
美術史家・岩村透(芋洗、1870-1917)は、明治21(1888)年から米国に留学し、同24(1891)年渡仏、日本人で初めてアカデミー・ジュリアンで絵画を学んだ。アカデミー・ジュリアンはパリに古くからある画塾で、国立美術学校の教授を多く招聘し、外国人や女性にも門戸を開いていた。滞仏中から黒田清輝、久米桂一郎(1866-1934)らと親交があり、帰国後は白馬会の会員となる。森鷗外の後任として、東京美術学校・慶應義塾大学で西洋美術史の講師を務めた。2度目の外遊から帰国した翌年、同35(1902)年に出版された本書は、パリの美術学生の生活を明るく描き出す一方、芸術に理解のない日本社会を痛快に批判し、芸術家志望の青年たちの間にパリヘの憧れを植え付けた。同年創刊された雑誌『美術新報』【雑33-7】や後続の『美術週報』においては、編集者兼執筆者として美術批評や美術史論を発表している。
『岡田三郎助画伯傑作集』尚美堂, 1934【特278-106】
黒田清輝に師事し、白馬会創立にも参加した岡田三郎助(1869-1939)は、明治30(1897)年に文部省留学生としてフランスに渡る。黒田と同じくコランに入門し、留学期間は4年半に及んだ。後年、昭和5(1930)年に妻の小説家・八千代(1883-1962)とともに再度渡仏するが、その時はフランスに妻を残し一人帰国している。典雅な画風を特色とし、藤島武二(1867-1945)は岡田の表現について、「コランそっくりの絵を描いていたが其後は多分に印象派の影響が強かったようである。」と「逝ける岡田三郎助君の人と芸術」(『読売新聞』1939年9月24日)で述べている。
鹿子木孟郎『根底画集』文星堂, 1921【415-4】
明治33(1900)年に渡米した鹿子木孟郎(1874-1941)は、英国を経て翌年5月にフランスへ移った。和田英作の紹介でアカデミー・コラロッシに入学し、コランやミュシャらに師事するが、同年11月にはアカデミー・ジュリアンへ移籍しローランスに学んだ。帰国後の明治39(1906)年、関西美術院の創立に加わり、浅井忠の没後は院長を引き継いで関西洋画壇を主導した。本書のタイトルは、画材の「クレイヨンドコンテイ」(コンテ)に掛けたもの。
黒田重太郎『憧憬の地』日本美術学院, 1920【395-82】
鹿子木孟郎、浅井忠に師事した黒田重太郎(1887-1970)は、大正5(1916)年に初めて渡欧した。ロンドンでは松方幸次郎(1865-1950)を訪ね、コレクション収集の手助けをした。松方は、元老・松方正義(1835-1924)の3男で川崎造船所等の社長を務めた。美術品収集で知られ、戦後フランス政府から寄贈返還された松方コレクションは、国立西洋美術館で収蔵、一般公開されている。
黒田は翌年フランスに渡ると、フォーヴィスムやキュビスムといった芸術の新思潮を目の当たりにする。日本に書き送った滞欧記は、雑誌『中央美術』【雑33-29】、『制作』【Z11-971】などに掲載され、同9(1920)年12月に本書にまとめられ出版された。パリで画学生として過ごした気ままな日常の回想とポール・セザンヌ(1839-1906)、フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)、ポール・ゴーギャン(1848-1903)の足跡をたどった南仏紀行に、絵葉書や作品図版が添えられている。
彫刻家
荻原守衛『生命の芸術』木星社書院, 昭和4(1929)【586-276】
彫刻家・荻原守衛(碌山、1879-1910)は、同郷で後に新宿中村屋を創業する相馬愛蔵(1870-1954)宅に飾られた長尾杢太郎(1868-1919)の油彩画《亀戸風景》に感動。当初洋画家を志すが、フランス留学中、ロダンの《考える人》に衝撃を受けて彫刻に転向した。アカデミー・ジュリアン彫刻科で学ぶ傍ら、何度かロダンのアトリエも訪れている。「彫刻の本質は形の模倣ではなく内なる生命や力の表現」とのロダンの教えを受け、日本彫刻の「静」と欧米彫刻の「動」との調和を理想として帰国後も創作活動に励むが、30歳で夭折した。訃報に接したロダンは、自分の芸術の理解者であった荻原の死を惜しんだと言う。愛蔵の妻・黒光(1876-1955)をモデルとした絶作《女》は、後に近代彫刻として初めて重要文化財に指定された。本書には、荻原自身の芸術観やロダンに関する論文、日記、作品図版の他、荻原が兄事した井口喜源治(1870-1938)による小伝を付す。
正木直彦『回顧七十年』学校美術協会出版部, 昭12(1937)【729-208】
彫刻家・工芸家の沼田一雅(1873-1954)は、東京美術学校教授で木彫家の竹内久一(1857-1916)に師事し、明治27(1894)年同校助手、後に助教授を経て、教授に就任した。同33(1900)年のパリ万国博覧会において、鋳銅作品《猿廻し置物》が一等金牌を受賞。同36(1903)年及び大正10(1921)年に渡仏し、国立セーヴル陶磁器製作所等で、彫刻を陶磁器に応用する「陶器彫刻(陶彫)」を研究した。ガラス成形法「パート・ド・ベール」を体得し、優れた作品を創作した功績により昭和6(1931)年レジオン・ドヌール勲章を受章した。
本書は、沼田の代表作となった《正木直彦陶像》のモデルであり、東京美術学校校長を31年間務めた正木直彦(1862-1940)の回顧録。「沼田一雅と陶像とメダル」に沼田が日本で初めて等身大の陶像を作った経緯が述べられている。