海を越えた琳派

「琳派」は西洋芸術へ影響を与えた日本文化の一つであり、「アール・ヌーヴォー(Art Nouveau)」やその要因となった「ジャポニスム(Japonisme)」の流行に関係しています。「アール・ヌーヴォー」とは19世紀末から20世紀初めにフランスを中心に欧州で流行した、植物文様や流れるような曲線を特徴とした美術運動であり、「ジャポニスム」とは万国博覧会などを通じて19世紀に欧州で見られた日本趣味のことです。また、海外で日本文化が好評であったことから、日本国内での「琳派」の再評価につながりました。
ここでは、江戸時代後期から明治時代にかけて、「琳派」を見出した人物を紹介します。

海外への広がり

フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト

江戸後期の鎖国下で日本文化の海外への窓口の一つとなったのは、長崎の出島で交流のあったオランダです。 オランダから派遣された医師シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold, 1796-1866)は日本の科学的調査を行い、その集大成として外部サイトボタン日本』を記しました。シーボルトが日本から持ち帰ったコレクションの中に複数の『光琳百図』があり、現在でもオランダ・ライデン市にあるオランダ国立民族学博物館に保存されています(田邊由太郎「シーボルト・コレクション(文献)の現状一オランダ・イギリス・フランス―」『参考書誌研究』22号(1981.6)』【Z21-291】)。また、コレクションの中から日本文献の一部をイギリスやフランスに売却した記録も残っており、現在フランス国立図書館が所蔵する外部サイトボタン光琳百図』もその一つです。

シイボルト肖像
シーボルト肖像

9) 尾形光琳画;酒井抱一編『光琳百図』前編,博文館,明治27(1894)【特67-186】

光琳百図
「扇面蓮」

光琳百図
「おき上げ菊(盛り上げ)」

酒井抱一が文化12(1815)年の尾形光琳の百回忌の際に刊行した光琳の図案集。ジャポニスムが流行している欧州で、芸術家たちが扇の図案を参考にするなど、光琳は欧州でも広く評価されていました。

アーネスト・フェノロサ

明治維新後、欧米文化の摂取による急速な近代化を図る明治政府により招聘された外国人技術者・学術教師等「お雇い外国人」の一人がアーネスト・フェノロサです。米国・ボストン在住時から東洋美術に多大な興味を持っていたフェノロサは、大学で政治・経済・哲学を教える傍ら日本絵画について研究し、東洋美術全般について『東亜美術史綱』にまとめました。彼は「琳派」について、日本人の意識していなかった工芸と美術の一致という点を高く評価しました。
フェノロサは日本画などを収集していましたが、これらのコレクションをボストン美術館(Museum of Fine Arts, Boston)への寄託を条件に売却しました。コレクションの一部は購入者の名前とともに、「フェノロサ・ウェルド・コレクション(Fenollosa-Weld Collection)」として現在もボストン美術館が所蔵しており、国宝級である尾形光琳筆「松島図屏風」も含まれます。

写真明治大正60年史
フェノロサの肖像画

10) アーネスト・フランシスコ・フエノロサ[他]『東亜美術史綱』下巻 フェノロサ氏記念会,大正10(1921)【509-1】

東亜美術史綱

東亜美術史綱

琳派と狩野派について書かれたページの挿絵には、光琳の絵と乾山の陶器の写真が載っている。

原題はEpochs of Chinese & Japanese art : an outline history of East Asiatic design【K141-A16】であり、これをフェノロサの教え子たちが訳したものが『東亜美術史綱』です。
フェノロサは体系的に琳派をまとめた先駆者であり、琳派を「日本の真の『印象主義』」として高く評価しました。当時の欧米では本阿弥光悦・尾形光琳・尾形乾山の3人が有名であったと説明していますが、フェノロサ自身はそこに欧米では無名であった俵屋宗達を加えた4人が琳派という大きな流派を形成したと考えていました。
また「貴族美術」より「平民美術」をより高く評価していたフェノロサは、江戸時代の美術について、琳派とともに狩野派を大名やその臣下達「貴族」から生まれた文化であるとしながらも、過去の時代の大天才たちと名を並べられるのは光悦のみだとして琳派の中でも特別に評価していました。当時は「光琳派」と呼ばれていたことについて、「光悦光琳派」と呼ぶことが「正当」だと述べています。

ジャポニスム、アール・ヌーヴォーへの影響

19世紀後半、ウィーンやパリで数次にわたって開催された万国博覧会への出品などを通じて欧州へと広がった日本美術は、「ジャポニスム」の流行を生み出します。欧州にはなかった植物文様の構成法や自然との深い関わりを持った造形様式は欧州に受け入れられ、印象派の表現などに用いられました。その流れの中で「装飾性」を特徴とする「琳派」も西洋人に影響を与え、新「デザイン」すなわち「アール・ヌーヴォー」へと繋がったのです。

日本と西洋―イメージの交差

アール・ヌーヴォーの立役者であるサミュエル・ビング(Samuel Bing(本名:Siegfried Bing), 1838-1905)が企画した展覧会の図録

アール・ヌーヴォーと近代における琳派

浅井忠

浅井忠(あさいちゅう)(1856-1907)は近代日本において西洋美術の発展に大きく寄与した人物であり、明治の洋画の基礎を築いた代表的な画家です。
浅井は洋画家としてパリに留学した際に、パリ万博やアール・ヌーヴォーに魅せられました。アール・ヌーヴォーの要因にジャポニスムがあることを理解し、さらにその根底に琳派を見出しました。
明治35(1902)年に京都に居を移し、洋画を描く傍ら多数の工芸図案を生み出しました。琳派だけではなく狩野派風、大和絵風など様々な出典の図案を生み出しましたが、自らのデザインを確立する前に亡くなりました。

国史肖像大成
浅井忠の肖像

11) 石井柏亭編『浅井忠 画集及評伝』芸艸堂,昭和4(1929)【553-116】

浅井忠 画集及評伝
琳派の影響がみられる浅井の工芸図案

浅井忠の下で絵画を学んだ石井柏亭(いしいはくてい)による浅井の画集及び評伝で、浅井の二十三回忌の年に出版されました。浅井の生い立ちから京都での晩年までが、作品とともに語られています。帰国後は京都で、洋画・日本画・工芸図案の三足の草鞋を履きながら生活していたことが読み取れます。工芸図案には、そのモチーフや丸みを帯びたデザインに琳派の影響がみられるものがあります。

神坂雪佳

浅井と同じように近代化の進む西洋を目にしながらも、アール・ヌーヴォーへの感じ方が異なるのが、「近代琳派」を打ち立てたといわれる神坂雪佳(本名:神坂吉隆)です。絵画よりも工芸品としての図案、すなわち「デザイン」を意識していた雪佳は、伝統工芸の近代化という流れの中で、本阿弥光悦・尾形光琳を研究し、琳派の造形面での独自性を高く評価していました。雪佳は、パリや英国・グラスゴーへの視察で体感したアール・ヌーヴォーや西洋人の琳派に対する装飾意識を「新奇を好む欧州人の常」という一時的な流行として捉え、美術としては否定する意思を表明していました(「神阪(原文ママ)雪佳氏の意匠工藝談」『図按』2号,明治35(1902).2.25,【雑34-6】)。
柔和な色彩と簡潔な線描を特徴とする伝統的な日本の美である琳派を継承した雪佳は、工芸デザイナーとして呉服、陶器、漆器など暮らしを彩る様々な分野の装飾や意匠に手腕を発揮し、今でいうところのコラボレーション(共同制作)を自然に実行していました。雪佳は常に共同制作によるものづくりを志向していたと言われます。

別好京染都の面影
雪佳の着物図案

12) 神坂雪佳『滑稽図案』山田芸艸堂,明治36(1903)【83-230】

滑稽図案
「ヌー坊主式」

滑稽図案
「マカロニ美術」

欧州から帰国した後に、多色木版出版された図案集。神坂雪佳のアール・ヌーヴォー観を見出せる内容となっています。
雪佳は、アール・ヌーヴォーが欧州で「ヌイユ(麺類)様式」や「マカロニアール・ヌーヴォー」と批判されていたことを基に、図案に名前を付けています。雪佳自身はアール・ヌーヴォーを「饂飩(うどん)美術」と呼んでおり、「マカロニ美術」という図案には「噴水にあらぬ饂飩 丼より湧出する体をご覧じませ」と記し、アール・ヌーヴォーを揶揄しています。

13) 神坂雪佳『百々世草』山田芸艸堂,明治42-43【406-32】

福来友吉
「狗児」

国立国会図書館月報
「朝顔」

『百々世草(ももよぐさ)』は雪佳の先進性や温かみも感じられる図案集です。また、近代版画を先導する役割も果たした雪佳の作品集のなかでも、集大成というべき版本です。全3巻の構成で、巧みな構図や誇張、そして動植物や生活風景など多彩な題材、版画芸術としての雪佳の意匠世界が見られます。雪佳は琳派を研究し、筆遣いやモチーフの扱いを正統的に継承しました。「朝顔」の図案では絵の具のにじみやぼかしを利用した「たらし込み」という技法が見られ、また竹の格子の向こうから朝顔が恥ずかしそうにこちらを覗いている構図が特徴的です。ビングの朝顔と比較すると、雪佳の意図するところが伝わってきます。

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付録 本にみる、かわいい琳派



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