人物紹介

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芦田均 あしだ・ひとし
芦田均[肖像]

1887年11月15日-1959年6月20日

外交官、政治家。京都府出身。東京帝国大学卒業後外務省に入り、ロシア・フランス・トルコ・ベルギー大使館などに勤めて1932年に辞職。同年の総選挙で当選し、立憲政友会に所属。以後死去まで衆議院議員の地位にあった。1933年から39年までジャパン・タイムス社長。

戦後すぐに鳩山一郎らと新党樹立を計画し、1945年11月日本自由党結成。同年10月から翌年5月にかけて幣原内閣の厚相を務めた後、6月衆議院帝国憲法改正案委員会委員長、12月憲法普及会会長。翌1947年に自由党を脱党して民主党結成に加わり、5月に同党総裁、翌月片山内閣の副総理・外相に就任。片山内閣総辞職後の1948年3月には首相兼外相となるが、同年10月昭和電工疑獄事件で総辞職。以後、改進党を経て、日本民主党最高委員、自由民主党顧問などを歴任。

写真は『画報近代百年史.第18集』 国際文化情報社 (1952)より

ジョージ・アチソン, Jr Atcheson, George, Jr.
ジョージ・アチソン, Jr.[肖像]

1896年10月20日-1947年8月17日

外交官。連合国最高司令官政治顧問。コロラド州デンバー出身。カリフォルニア大学バークレー校を卒業。記者を経て、1920年から通訳として北京の米国大使館に勤務。以後、1924年から1939年まで中国で外交官を務め、1941年に国務省極東部次長、1942年に在重慶米国大使館公使と、おもに中国在勤。

戦後は、1945年9月7日に国務省からマッカーサーの政治顧問として日本に派遣された。1946年4月18日、GHQ内に外交局が設置されたことにともない外交局長に就任。同年4月22日からは、マッカーサーの代理として対日理事会議長も務めた。1947年8月、公務で帰米の途中、ハワイ沖で航空機事故により急逝。

写真は『占領期:首相たちの新日本』 読売新聞社 (1997)より

安倍能成 あべ・よししげ
安倍能成[肖像]

1883年12月23日-1966年6月7日

教育家、哲学者。愛媛県出身。東京帝国大学在学中から文芸評論を発表。1920年法政大学教授、1926年京城帝国大学教授、1940年第一高等学校校長などを歴任。

戦後の1945年12月貴族院議員に勅選され、翌1946年1月から5月まで幣原内閣の文部大臣として教育制度の改革にあたった後、8月に貴族院帝国憲法改正案特別委員会の委員長となる。また、同年10月より死去まで学習院院長。

写真は『画報近代百年史.第18集』 国際文化情報社 (1952)より

入江俊郎 いりえ・としお
入江俊郎[肖像]

1901年1月10日-1972年7月18日

法制官僚。東京都出身。東京帝国大学卒業後内務省に入り、1927年法制局参事官。1945年9月法制局第一部長、同年11月法制局次長、翌1946年3月法制局長官。この間、日本国憲法制定、憲法付属法令の立案責任者として尽力した。1946年5月、貴族院議員に勅選。1948年以降、国立国会図書館専門調査員、衆議院法制局長、最高裁判事などを歴任。1971年の退官後は、駒沢大学教授に就任。

写真は個人蔵。

片山哲 かたやま・てつ
片山哲[肖像]

1887年7月28日-1978年5月30日

社会運動家、政治家。和歌山県出身。東京帝国大学卒業後、弁護士を開業。1926年社会民衆党結成に際し書記長に就任。1930年衆議院議員に当選。1932年社会大衆党中央執行委員となるが、1940年反軍演説を行った斎藤隆夫の除名を可決した衆議院本会議に欠席したことで、党を除名された。

戦後の1945年11月の日本社会党結成で書記長に就任、翌年9月中央執行委員長。1947年4月の総選挙で同党が第一党になると、翌月首相に就任し連立内閣を組織。内務省の解体など官僚制度の改革を行ったが、社会党左派の反発で翌年2月に総辞職。1951年社会党最高顧問、1954年憲法擁護国民連合議長、1960年民主社会党最高顧問、1961年憲法擁護新国民会議議長。1963年総選挙に落選して政界を引退。

写真は『画報近代百年史.第18集』 国際文化情報社 (1952)より

金森徳次郎 かなもり・とくじろう
金森徳次郎[肖像]

1886年3月17日-1959年6月16日

法制官僚。国務大臣。愛知県出身。東京帝国大学卒業後、大蔵省を経て1914年法制局に入る。1924年法制局第一部長、1934年法制局長官となるが、翌年の天皇機関説問題で、著書に、美濃部説的な表現があるとして批判され、1936年辞職。

戦後は1946年2月貴族院議員に勅選され、同年6月に第一次吉田内閣で憲法担当の国務大臣に就任し、議会において憲法改正草案に関する答弁をほとんど1人で行った。1948年から59年まで、国立国会図書館の初代館長。

写真は当館所有。

チャールズ L. ケーディス Kades, Charles L.
チャールズ L. ケーディス[肖像]

1906年3月12日-1996年6月18日

陸軍大佐。GHQ民政局次長。ニューヨーク州ニューバーグ出身。コーネル大学とハーバード大学ロースクールを卒業後、ニューヨークで弁護士となった。1930年代は、ルーズベルト政権で内務長官、財務長官を補佐。35歳で兵役につき、大戦中は陸軍省民事部やヨーロッパ戦線で活躍。戦後は、民政局行政課長から同局次長となった。民政局ではホイットニー局長とともに、公職追放、憲法改正、内務省解体などの民主化政策を強力に推進。GHQ草案の作成作業では、現行第9条の試案(当初は、前文中)を起草するなど中心メンバーとして重要な役割を演じた。新憲法施行から2年目の1949年5月3日に退役し、帰国後は弁護士業に復帰。マサチューセッツ州ヒースの自宅で、90歳で亡くなった。

写真は『昭和20年/1945年』 小学館 (1995)より

近衛文麿 このえ・ふみまろ
近衛文麿[肖像]

1891年10月12日-1945年12月16日

政治家。東京都出身。公爵近衛篤麿の長男。1916年貴族院議員。1917年京都帝国大学卒業後内務省に入り、1931年貴族院副議長、1933年貴族院議長に就任。1937年6月政局収拾を期待されて首相に任命され、国家総動員法の制定や国民精神総動員運動を進めた。1939年1月総辞職。1940年7月第二次内閣を組閣。翌年7月には、独ソ開戦への対応等をめぐる閣内不一致のため、総辞職し、翌日第3次内閣を組閣。10月、日米交渉に進展なく総辞職し、東条内閣が成立した。太平洋戦争末期には、東条内閣打倒の動きに加わり、1945年2月に早期和平を奏上している。

戦後は、1945年8月東久邇宮内閣に副総理格の無任所国務大臣として入閣。10月の同内閣総辞職後は内大臣府御用掛として憲法改正案作成に当たる。12月6日戦争犯罪人容疑者として逮捕令が出され、出頭日の16日早朝に服毒自殺。

写真は『失はれし政治:近衛文麿の手記』 朝日新聞社 (1946)より

佐々木惣一 ささき・そういち
佐々木惣一[肖像]

1878年3月28日-1965年8月4日

憲法学者、行政法学者。鳥取県出身。1903年京都帝国大学卒業。1906年同助教授、1913年同行政法講座担当教授となり、1927年憲法講座を兼担。厳密な文理解釈と立憲主義を結合した憲法論を説き、東の美濃部達吉とともに、大正デモクラシーの理論的指導者として活躍した。1933年「滝川事件」に抗議して辞職。同事件では法学部教授団の抗議運動の中心として活動するなど、大学自治の擁護に努めた。1934年から36年まで立命館大学学長。

戦後、近衛文麿の要請に応じて内大臣御用掛に任命され、近衛とともに憲法改正案の起草にあたる。1946年貴族院議員として日本国憲法の審議に参加した。

写真は『佐々木憲法学の研究』 法律文化社 (1978)より

佐藤達夫 さとう・たつお
佐藤達夫[肖像]

1904年5月1日-1974年9月12日

法制官僚。福岡県出身。東京帝国大学卒業後、内務省に入省。1932年法制局参事官となる。

法制局第二部長の時に終戦を迎え、1945年11月法制局第一部長、翌年3月法制局次長となる。この間日本国憲法の制定に終始深く関わった。1947年法制局長官。1954年に法制局を辞した後、国立国会図書館専門調査員を経て、1962年から74年まで人事院総裁。

写真は『吉田内閣記念写真帖』 聯合写真通信社 (1953)より

幣原喜重郎 しではら・きじゅうろう
幣原喜重郎[肖像]

1872年9月13日-1951年3月10日

外交官、政治家。大阪府出身。東京帝国大学卒業後外務省に入り、1915年から外務次官として第一次世界大戦の戦時外交と講和条約の準備にあたった。1924年加藤高明内閣の外相に就任、以後第一次若槻内閣、1929年の浜口内閣、続く第二次若槻内閣の外相としていわゆる「幣原外交」を推進、日中関係の改善、ロンドン海軍軍縮条約の締結に尽力した。

親米的でアメリカでの知名度も高く、英語力も抜群であった幣原は、終戦後、東久邇宮内閣総辞職の後を受けて、1945年10月9日首相に任命された。幣原内閣は10月11日のマッカーサーによる「5大改革指令」と「憲法の自由主義化」への示唆に始まり、財閥解体、農地改革などの指令を実施。その一方天皇制存続に努め、天皇の人間宣言、GHQによる憲法改正草案の受入を行った。1946年4月の総選挙後、政権維持を図ったが果たせず、選挙の結果第2党となった進歩党総裁に就任し、後継の第一次吉田内閣の国務大臣に就任。1947年総選挙で代議士となり、民主党名誉総裁、民主自由党最高顧問を務め、1949年2月衆議院議長となったが、在任中に亡くなった。

写真は『吉田内閣』 吉田内閣刊行会 (1954)より

東久邇稔彦 ひがしくに・なるひこ
東久邇稔彦[肖像]

1887年12月3日-1990年1月20日

元皇族。陸軍大将。京都府出身。久邇宮朝彦親王の9男。1906年東久邇宮家を創設。1914年陸軍大学校卒業、各地の部隊勤務を経て1920年フランスに留学、1922年にフランス陸軍大学卒業。帰国後、連隊長、旅団長などを歴任。太平洋戦争勃発とともに防衛総司令官となる。

戦後の1945年8月17日初の皇族内閣を組織し、降伏文書の調印など一連の終戦処理を行ったが、同年10月4日GHQの発した「自由の指令」に対応できず、翌5日総辞職した。1947年10月14日に皇族の身分を離れ、後に新興宗教の教祖となって話題をまいた。

写真は『画報近代百年史.第18集』 国際文化情報社 (1952)より

コートニー・ホイットニー Whitney,Courtney
コートニー・ホイットニー[肖像]

1897年5月20日-1969年3月21日

陸軍准将。GHQ民政局長。ワシントンD.C.生まれ。1917年陸軍入隊。1927年除隊。その間にジョージ・ワシントン大学で法律の学位を取得し、1927年からマニラで弁護士を開業。1940年軍役に復帰し、1943年マッカーサー司令部幕僚(いわゆるバターン・ボーイズ)として、フィリピン群島内の反日ゲリラ活動を指揮した。

1945年8月、マッカーサーとともに厚木飛行場に到着し、同年12月GHQ民政局長に就任。以後、占領初期の民主化政策を推進する。日本国憲法制定の際には、民政局による憲法草案作成作業を指揮し、1946年2月13日、松本ら日本側にいわゆるGHQ草案を手交する。1951年、マッカーサーの解任と共に退役。

写真は『Political reorientation of Japan, september 1945 to september 1948』 U.S.Government printing office (1949 )より

ダグラス・マッカーサー MacArthur, Douglas
ダグラス・マッカーサー[肖像]

1880年1月26日-1964年4月5日

米陸軍元帥。連合国最高司令官。米国アーカンソー州リトルロック出身。ウェストポイント陸軍士官学校を首席で卒業し、フィリピン勤務の後1905年日露戦争観戦武官となった父アーサーの副官として来日。第一次世界大戦では陸軍省広報部に勤務、1919年には陸軍士官学校校長、1930年には陸軍参謀総長に就任、大将に昇進した。1935年フィリピン国民軍創設のため軍事顧問としてマニラに赴任。1937年、本国召還を避け軍事顧問としてとどまるため米陸軍を退役したが、1941年現役に復帰し、米極東陸軍司令官となる。

1942年マニラ陥落とともにオーストラリアに脱出するが、米・豪・蘭連合の南西太平洋軍総司令官として反攻を開始、1944年10月にはレイテ島に上陸、翌1945年2月マニラを解放した。8月13日、トルーマン大統領により連合国最高司令官に任命され、8月30日厚木飛行場に到着、以後1951年4月朝鮮戦争をめぐる方針の相違からトルーマン大統領と対立、解任されるまで、事実上、占領下の日本の最高権力者であった。引退後レミントンランド社会長に就任。

写真は『Political reorientation of Japan, september 1945 to september 1948』 U.S.Government printing office (1949 )より

松本烝治 まつもと・じょうじ
松本烝治[肖像]

1877年10月14日-1954年10月8日

商法学者。東京都出身。1900年東京帝国大学卒業。農商務省参事官を経て、1903年東京帝国大学助教授、1909年同教授。1919年帝大を辞して満鉄に移り、1921年副社長となる。1923年第二次山本内閣で法制局長官。1924年以降1946年まで貴族院議員。1934年斎藤内閣商工大臣。その他、多数の会社の役員や日銀参与・理事等を務める。この間、商法改正やその他の立法に貢献した。

戦後、1945年10月幣原内閣の憲法担当国務相として、憲法問題調査委員会委員長に就任し、1946年2月8日GHQに提出する「憲法改正要綱」作成の中心となった。1946年5月、公職追放となり、1950年10月、追放解除。同年12月、公益事業委員長として電気事業の再編などに当たった。

写真は『会社法の諸問題:松本先生古稀記念』 有斐閣 (1951)より

美濃部達吉 みのべ・たつきち
美濃部達吉[肖像]

1873年5月7日-1948年5月23日

憲法学者、行政法学者。兵庫県出身。東京帝国大学卒業後、内務省に入省するが、辞職してヨーロッパに留学。在外中の1900年東京帝国大学法科大学助教授となり、帰国後の1902年教授。天皇機関説を唱え、天皇主権説をとる上杉慎吉との間で論争となった。明治憲法の自由主義的解釈に努め、その立憲主義的運用に尽力した。1924年から27年まで東京帝国大学法学部長、1934年退官。その間の1911年から34年にかけて法制局参事官を兼任し、多くの立法に関与した。1932年貴族院議員に勅選されるが、その学説が軍部、右翼団体より排撃され、1935年著書が発禁処分となるとともに、不敬罪の告訴を受けて貴族院議員を辞任した(いわゆる天皇機関説事件)。

戦後は1945年10月憲法問題調査委員会顧問、翌年1月枢密顧問官に任命されて日本国憲法の制定に関与した。

写真は『あたらしい憲法のはなし』 朝日新聞社 (1948)より

宮沢俊義 みやざわ・としよし
宮沢俊義[肖像]

1899年3月6日-1976年9月4日

憲法学者。長野県出身。1923年東京帝国大学卒業。1925年同助教授。公法研究のため欧米諸国に留学し、1934年同教授。美濃部達吉の後任として、東京帝国大学で憲法を講じた。教授になった直後、天皇機関説事件が起こり、国家による理論学説の「公定」を批判することで、権力に抵抗した。しかし時局の進展とともに、その合理主義的な憲法学説を展開する基盤は失われてしまった。

戦後、政府の憲法問題調査委員会の委員として、「憲法改正要綱」等のとりまとめ作業に当たった。1946年5月、「八月革命説」を提唱し、ポツダム宣言受諾により、すでに帝国の「国体」は否定されていたと主張。また、1946年8月勅選議員として、憲法の審議に参加し、日本国憲法の国民主権主義は、天皇主権主義の明治憲法を根本的に変革するものだとし、憲法は変わっても「国体」は変わらないとする政府の態度を批判した。憲法制定後、憲法に関する標準的教科書、注釈書を著した。1959年東京大学退官後立教大学教授。1965年にプロ野球コミッショナーに就任するなど、学界以外でも幅広く活動した。

写真は『神々の復活』 読売新聞社 (1955)より

吉田茂 よしだ・しげる
吉田茂[肖像]

1878年9月22日-1967年10月20日

外交官、政治家。東京都出身。土佐出身の民権家竹内綱の五男に生まれ、実業家吉田健三の養子となる。1906年外務省に入省し、天津総領事、奉天総領事などを経て、1928年田中義一内閣の外務次官となる。その後駐イタリア大使、駐英国大使を歴任し、1939年退官。日米開戦に反対し、戦時下で和平工作を行い憲兵に拘束されたこともあった。

1945年9月に東久邇宮内閣の外相に就任し、続く幣原内閣でも外相を務めた後、翌年5月鳩山一郎の公職追放により日本自由党総裁となり、第一次吉田内閣を組閣。片山・芦田両内閣を経て1948年に再び組閣、1954年まで首相の地位にあった。その間GHQと折衝しつつ民主化政策を実施し、1951年にサンフランシスコ講和条約・日米安全保障条約に調印。戦後復興の基礎を築き、後継政治家の育成にも尽力した。

写真は『吉田内閣』 吉田内閣刊行会 (1954)より

マイロ E. ラウエル Rowell, Milo E.
マイロ E. ラウエル[肖像]

1903年7月25日-1977年10月7日

陸軍中佐。GHQ民政局法規課長。カリフォルニア州フレズノ出身。スタンフォード大学卒業後、ハーバード大学ロースクールに入学。2年次に転入学したスタンフォード大学ロースクールで法学博士号を取得。1926年からフレズノで弁護士となり、1943年に兵役についた。大戦中は、占領行政などを学び、教官も務めた。また指揮官としてフィリピン戦線にも参加した。1945年に民政局法規課長に着任。おもに憲法問題を担当し、明治憲法の分析や憲法研究会案の検討などを行った。GHQ草案の作成の際は、運営委員会のメンバーであった。

1965年には、憲法改正に関するGHQ側の記録が記された「ラウエル文書」が、所蔵していたラウエル本人から、英米法学者で政府の元憲法調査会会長の高柳賢三東大名誉教授に届けられたことにより、それまであまり知られていなかった憲法制定過程でのGHQ側の活動実態が明らかとなった。

写真は『マッカーサー』 日本放送出版協会 (1982)より

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