第1章 戦争終結と憲法改正の始動
対日占領政策の立案
米国は、日米開戦後の早い時期から国務省を中心に対日戦後政策の検討に着手していた。国務省内の知日派は、天皇制の存置など日本に対して寛大な戦後政策を構想していた。一方、陸軍省や海軍省などでは、天皇制廃止や広範な経済改革など徹底的な占領改革を提唱する者もいた。両者は、国務・陸・海軍三省調整委員会(SWNCC)などの場で激しく対立し、政府首脳において調整が図られた。しかし最終的には、連合国が、1945(昭和20)年7月26日に発したポツダム宣言において、天皇制存続を明示せずに、既存の日本の統治機構を通じて占領政策を遂行するという方針を確定した。
ポツダム宣言の受諾と占領の開始
厚木飛行場に降り立つマッカーサー(1945年8月30日) 『画報近代百年史』第17集 所収
日本政府ははじめ、米・英・中の3か国によるポツダム宣言を「黙殺」していたが、広島・長崎への原爆投下やソ連の参戦を経て、8月14日に、第2次世界大戦が終結した。敗戦とともに日本は米軍を中心とする連合国軍の占領下におかれ、連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーに、ポツダム宣言に基づいて占領管理を遂行する全権が与えられた。日本政府はポツダム宣言の受諾にあたり、大日本帝国憲法(明治憲法)上の天皇の地位に変更を加えないこと、すなわち「国体護持」を条件にすることを求めた。しかしポツダム宣言は、「平和的傾向を有する責任ある政府の樹立」、「民主主義的傾向の復活強化」、「基本的人権の尊重の確立」などを要求しており、これらを受け入れることは、必然的に明治憲法の根本的な改革に道を開くこととなっていく。
終戦直後の日本政府の動き
もっとも、終戦直後に発足した東久邇宮稔彦内閣は、連合国最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)への対応に追われ、憲法を見直す意図も余裕もなかった。そして、いわゆる「自由の指令」が出されたことを重要なきっかけとして、組閣から2か月足らずで総辞職を余儀なくされ、幣原喜重郎内閣に交替した。
この終戦直後の短い期間、政府においては法制局と外務省が、いち早く憲法問題に気づき、その検討を始めていた。法制局では、入江俊郎第一部長のグループが非公式に憲法を見直すための事務的な検討を行った。外務省条約局は、日本みずからの意思で民主主義体制を整備する必要があるとの判断から、独自の検討を進めた。しかしこれらの動きは、内閣の消極的な姿勢のもとで具体的な成果には結びつかなかった。
近衛文麿と松本委員会
マッカーサーは10月4日、「自由の指令」を出す一方で、近衛文麿元首相と会談し、憲法の改正について示唆を与えた。近衛はこれを受けて、佐々木惣一元京大教授とともに内大臣府御用掛として憲法改正の調査に乗りだす。
マッカーサーは、また、10月11日、新任の幣原首相との会談において、「憲法の自由主義化」について触れた。幣原内閣は、前内閣と同様に憲法改正には消極的であったものの、内大臣府が憲法改正問題を扱うことへの反発もあり、政府としてこの問題に対応することとした。こうして松本烝治国務大臣を委員長とする憲法問題調査委員会(いわゆる松本委員会)が10月25日に設置され、政府側の調査活動がスタートする。
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