概説

第3章 GHQ草案と日本政府の対応

極東委員会の設置とアメリカ政府の対応

1945(昭和20)年12月16日からモスクワで始まった米英ソ3国外相会議で、極東委員会FEC)を設置することが合意された。その結果、対日占領管理方式が大幅に変更され、同委員会が活動を始める翌年2月26日から、憲法改正に関するGHQの権限は、一定の制約のもとに置かれることが明らかになった。

1946(昭和21)年1月7日、米国の対外政策の決定機関である国務・陸・海軍3省調整委員会SWNCC)は「日本の統治体制の改革」と題する文書(SWNCC228)を承認し、マッカーサーに「情報」として伝え、憲法改正についての示唆を行った。

GHQ草案の作成

憲法改正草案

憲法改正草案(1946年4月17日)

2月1日、憲法問題調査委員会の試案が毎日新聞にスクープされ、「あまりに保守的、現状維持的なものに過ぎない」との批判を受けた。このスクープをきっかけに、ホイットニーGHQ民政局長は、マッカーサーに対して、極東委員会が憲法改正の政策決定をする前ならば憲法改正に関するGHQの権限に制約がないと進言し、GHQによる憲法草案の起草へと動き出した。

2月3日、マッカーサーは、憲法改正の必須要件(マッカーサー三原則)をホイットニーに示した。翌4日、民政局GS)内に作業班が設置され、GHQ草案(マッカーサー草案)の起草作業が開始された。

GHQは、起草作業を急ぐ一方で、日本政府に対して政府案の提出を要求、2月8日、憲法問題調査委員会の松本烝治委員長より、「憲法改正要綱」「憲法改正案ノ大要ノ説明」等がGHQに提出された。

GHQ草案の受け入れと日本政府案の作成

2月13日、外務大臣官邸において、ホイットニーから松本国務大臣、吉田茂外務大臣らに対し、さきに提出された要綱を拒否することが伝えられ、その場で、GHQ草案が手渡された。後日、松本は、「憲法改正案説明補充」を提出するなどして抵抗したが、GHQの同意は得られなかった。

そこで、日本政府は、2月22日の閣議において、GHQ草案に沿う憲法改正の方針を決め、2月27日、法制局の入江俊郎次長と佐藤達夫第一部長が中心となって日本政府案の作成に着手した。3月2日、試案(3月2日案)ができ上がり、3月4日午前、松本と佐藤は、GHQに赴いて提出し、同日夕方から、確定案作成のため民政局員と佐藤との間で徹夜の協議に入り、5日午後、すべての作業を終了した。

日本政府は、この確定案(3月5日案)を要綱化し、3月6日、「憲法改正草案要綱」として発表した。その後、ひらがな口語体での条文化が進められ、4月17日、「憲法改正草案」として公表された。

憲法改正問題をめぐるマッカーサーと極東委員会の対立

3月6日の「憲法改正草案要綱」発表とこれに対するマッカーサーの支持声明は、米国政府にとって寝耳に水であった。同要綱は、「日本政府案」として発表されたものだが、GHQが深く関与したことが明白であったため、日本の憲法改正に関する権限を有する極東委員会を強く刺激することとなった。マッカーサーと極東委員会の板挟みとなった国務省は、憲法はその施行前に極東委員会に提出されると弁明せざるをえなかった。

極東委員会はマッカーサーに対し、「日本国民が憲法草案について考える時間がほとんどない」という理由で、4月10日に予定された総選挙の延期を求め、さらに憲法改正問題について協議するためGHQから係官を派遣するよう要請した。しかしマッカーサーはこれらの要求を拒否し、極東委員会の介入を極力排除しようとした。

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