概説

第4章 帝国議会における審議

枢密院への諮詢

1946(昭和21)年4月17日、「憲法改正草案」は、枢密院に諮詢された。しかし、4月22日に幣原内閣が総辞職し、5月22日に吉田内閣が成立したため、先例にしたがって草案はいったん撤回され、5月27日にそれまでの審査結果に基づく修正を加えて再び諮詢されることとなった。6月8日、「憲法改正草案」は、枢密院本会議において美濃部達吉顧問官をのぞく賛成多数で可決された。

総選挙と衆議院における審議

憲法改正の全文を説明する金森大臣

衆議院で帝国憲法改正案の提案理由を説明する金森大臣(1946年7月1日) 『吉田内閣』所収

1946年4月10日、女性の選挙権を認めた新選挙法のもとで衆議院総選挙が実施され、5月16日、第90回帝国議会が召集された。開会日の前日には、金森徳次郎が憲法担当の国務大臣に任命された。

6月20日、「帝国憲法改正案」は、明治憲法第73条の規定により勅書をもって議会に提出された。6月25日、衆議院本会議に上程、6月28日、芦田均を委員長とする帝国憲法改正案委員会に付託された。

委員会での審議は7月1日から開始され、7月23日には修正案作成のため小委員会が設けられた。小委員会は、7月25日から8月20日まで非公開のもと懇談会形式で進められた。8月20日、小委員会は各派共同により、第9条第2項冒頭に「前項の目的を達するため」という文言を追加する、いわゆる「芦田修正」などを含む修正案を作成した。翌21日、共同修正案は委員会に報告され、修正案どおり可決された。

8月24日には、衆議院本会議において賛成421票、反対8票という圧倒的多数で可決され、同日貴族院に送られた。

貴族院における審議と憲法の公布

「帝国憲法改正案」は、8月26日の貴族院本会議に上程され、8月30日に安倍能成を委員長とする帝国憲法改正案特別委員会に付託された。特別委員会は9月2日から審議に入り、9月28日には修正のための小委員会を設置することを決定した。

小委員会は、いわゆる「文民条項」 の挿入などGHQ側からの要請に基づく修正を含む4項目を修正した。10月3日、修正案は特別委員会に報告され、小委員会の修正どおり可決された。修正された「帝国憲法改正案」は、10月6日、貴族院本会議において賛成多数で可決された。改正案は同日衆議院に回付され、翌7日、衆議院本会議において圧倒的多数で可決された。

その後「帝国憲法改正案」は、10月12日に枢密院に再諮詢され、2回の審査のあと、10月29日に2名の欠席者をのぞき全会一致で可決された。「帝国憲法改正案」は天皇の裁可を経て、11月3日に「日本国憲法」として公布された。

憲法改正問題に対する極東委員会の関与

衆議院における「帝国憲法改正案」の審議開始にあたりマッカーサーは、6月21日、「審議のための充分な時間と機会」、「明治憲法との法的持続性」および「国民の自由意思の表明」が必要であると声明した。これら議会における憲法改正審議の3原則は、極東委員会が5月13日に決定した「新憲法採択の諸原則」と同一のものであった。このことは、マッカーサーが極東委員会の要求をある程度受け入れたことを意味した。

衆議院で委員会審議が始まったばかりの7月2日、極東委員会は、新しい憲法が従うべき基準として、「日本の新憲法についての基本原則」を決定した。その内容は、先に米国政府が作成した「日本の統治体制の改革」(SWNCC228)を基礎とするものであった。その後GHQは、極東委員会の意向に沿う形で改正案の修正を日本政府に働きかけ、その結果、主権在民、普通選挙制度、文民条項などが明文化されるに至った。

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