第1章 政治・法律
2. 中江兆民と自由民権運動の諸相
フランス政治思想への関心は、単に学問的なものにとどまらず、政治運動にも大きな影響を与えた。自由民権運動がそれである。自由民権運動は、明治7(1874)年、江藤新平(1834-1874)、板垣退助(1837-1919)、後藤象二郎(1838-1897)、副島種臣(1828-1905)らが「民撰議院設立建白書」を左院に提出したことに始まる。彼らは政府の「有司専制」を批判し、民選議院の設立を要求したほか、地方自治・地租軽減・不平等条約改正・言論の自由などを掲げて政府に対立した。当初は士族を中心とした運動であったが、次第に一般民衆にまで広がった。本節においては、自由民権運動に関わった人々の中から、「東洋のルソー」と呼ばれた中江兆民(1847-1901)、大井憲太郎(1843-1922)、植木枝盛(1857-1892)らを取り上げ、自由民権運動におけるフランス政治思想の影響を跡づける。
中江兆民
開成所関係書類【箕作阮甫・麟祥関係文書(寄託)180】
中江兆民(篤介)は、土佐藩足軽の子として弘化4(1847)年に生まれた。細川潤次郎(1834-1923)に蘭学を学んだ後、慶応元(1865)年9月、土佐藩留学生として長崎に派遣され仏学を学んだ。同3(1867)年には後藤象二郎の援助で江戸へ赴き、村上英俊(1811-1890)の達理堂に入り修学を続ける。その後、駐日フランス公使レオン・ロッシュ(1809-1901)の通訳などを務め、維新後の東京で箕作麟祥(1846-1897)に学んだ。
本資料は、明治2(1870)年12月に高知藩公用人の毛利恭助(1834-?)が箕作麟祥に提出した、兆民の身元を保証する書類である。兆民は、同3(1870)年5月には大学南校の大得業生(学士)として学生を指導する立場に就いており、フランス語の修学が進んでいたことをうかがわせる。
中江兆民書簡【中江兆民関係文書19-26】
兆民は、大久保利通(1830-1878)らの後援を得て、明治4(1871)年に岩倉使節団と共に横浜を出港し、フランス留学に旅立った。フランス滞在は、翌5(1872)年1月から同7(1874)年4月までの2年余りに及んだ。リヨン次いでパリにおいて法律学、史学、哲学などを学ぶ傍ら、ヴォルテール、モンテスキュー、ルソーなどの著作に親しみ、自由民権思想の基礎を築いた。また、西園寺公望(1849-1940)や松田正久(1845-1914)ら留学生との交流も深めた。
本資料は、留学中に国元の母と弟に宛てた絵葉書である。多くは自身の息災を伝える内容であるが、1872年12月10日付けのものには「このしゃしんをのこらずおんあつめおきなされ度、これはみな仏蘭西の名所にて御座候」と書かれ、フランスの風景を伝えることも意識されていた。
『東洋自由新聞』東洋自由新聞社,明治14(1881)【WB43-169】
フランスからの帰国後、兆民は仏学塾を開き、元老院書記官をしばらく務めた後、改めて漢文も学んだ。明治14(1881)年3月18日、西園寺らと急進的自由主義に立つ『東洋自由新聞』を創刊し主筆となる。兆民は、本紙において自由民権運動の論客として登場した。西園寺は高位の公家の生まれで、戊辰戦争に従軍した後、同3(1870)年フランスに留学しパリ大学で法律を学んだ。パリ到着後には、パリ・コミューン(1871年)に際会した。同14(1881)年、明治法律学校(現明治大学)講師に就任、同3月には社長として本紙創刊に参画した。しかし、華族である西園寺の参画は宮中の驚愕を招き、西園寺は明治天皇の内勅を受けてすぐに退社する。
なお、本紙は第34号(同年4月30日付け)まで発行されたが、当館の所蔵する原紙は創刊号のみである。
戎雅屈・婁騒(ジャン・ジャック・ルーソー)(中江兆民訳解)『民約訳解』仏学塾出版局,明治15(1882)【25-260】
『東洋自由新聞』の休刊後、兆民は雑誌『政理叢談』【特47-619】を創刊し、ルソー『社会契約論』の翻訳を連載した。本書は、それを元に明治15(1882)年に刊行された。兆民には、同7(1874)年にも『民約論』と題する片仮名交じりの漢文書き下し訳がある(未刊行)が、本書は漢訳したもの。第2編6章までの部分訳にとどまるものの、兆民自身による長大な「解」を付しており、独立した作品とも考えられる。その後、兆民は大阪で『東雲新聞』を創刊、同23(1890)年の第1回衆議院議員総選挙では大阪から出馬して当選するが、自由党土佐派が政府の予算案に妥協したことに怒り、「アルコール中毒」を口実としてすぐに辞職した。その後、札幌などで事業を起こすが失敗に終わり、同34(1901)年に癌で没した。遺著となった『一年有半』【91-177】、『続一年有半』【91-177】も名高い。享年55歳。
中江兆民編『革命前法朗西二世紀事』集成社,明治19(1886)【33-123】
概ねルイ15世(1710-1774)の治世から三部会召集までのフランス史を扱い、モンテスキュー、ヴォルテール、ルソーなどの「小伝」を含む。「二世」とはルイ15世・ルイ16世(1754-1793)の時代の意で、フランス革命そのものではなく、革命がどのように準備されたかを論じる。当時の日本社会をアンシャン・レジーム(旧体制)下のフランスになぞらえる趣旨か。兆民の「編著」とあるとおり一次史料は用いず、第二帝政期の文部大臣ヴィクトル・デュリュイ(1811-1894)らの著書によっている。しかし、デュリュイがルソーに冷淡なのに対し、兆民はルソーへの共感を表明しており、例えば『社会契約論』を「人心決断ノ自由ヨリ見ヲ起シテ、以テ民主政治ノ最モ理ニ合スルコトヲ主張シ」た書として紹介する。ルソーのテクストと直接向き合った成果がうかがえる。
中江兆民『三酔人経綸問答』集成社,明治20(1887)【26-139】
本書は兆民の主著で、洋学紳士君、南海先生、豪傑君という3人の架空人物による酒を飲みながらの談議という形をとった政治論。「民主家」である洋学紳士君が人類の進歩に信を置く理想主義的な主張を行うのに対して、「侵伐家」たる豪傑君は富国強兵論を説き、南海先生はそれらを受けて、漸進的な立憲主義の実現を説いて議論を締めくくる。対話体というスタイルについて、政治学者・丸山眞男(1914-1996)は、兆民以前の問答体の「法論」と比較し、本書の対話体は絶対的真理・ドグマへ導くための手段ではなく、さまざまな視点から問題を把握するためのものだと指摘した。「絶対主義者」とされる兆民は、実際には成熟した政治眼をもっており、具体的な政治判断においては「相対主義者」福沢に近いと論じている。近年、フランス語の翻訳(『Dialogues politiques entre trois ivrognes』【A22-B9】)も刊行された。
大井憲太郎と植木枝盛
大井憲太郎『自由略論』鍾美堂,明治22(1889)【17-181】
大井憲太郎は、政治家・自由民権運動家。豊前(大分県)に農家の子として生まれ、長崎で蘭学・舎密学(化学)、江戸で仏学・舎密学を学んだ後、明治元(1868)年箕作麟祥に入門し兆民と出会う。陸軍省に出仕後、フランス書の翻訳に携わった。同7(1874)年、「民撰議院設立建白書」をめぐる論争において建白を支持し、加藤弘之(1836-1916)らの時期尚早論と対立した。弁護士として活躍したほか、自由党にも加わった。後に対外硬の主張を強め、同27(1894)年には衆議院議員に当選。
本書は同22(1889)年の著作で、朝鮮での政変をもくろむ「大阪事件」により服役した際に執筆された。「他國ノ侵犯侮辱ヲ禦ギ」自国の「安寧幸福」を保つために「自由平等ノ新社會」を目指し、「自由ハ人性タリ。天賦固有ノモノタリ」と述べている。
植木枝盛『民権自由論』集文堂,明治12(1879)【特39-278】
植木枝盛は、明治の政治家・自由民権運動家。土佐(高知県)生まれ。漢学を学んだ後、独学で政治・経済について学び、上京して福沢諭吉の講演に列席し影響を受ける。板垣にも近しく、明治14(1881)年「日本国国憲案」を起草したほか、自由党結成に参加して指導的役割を果たした。同23(1890)年の第1回衆議院議員総選挙において当選するが、まもなく36歳で早世した。公娼廃止論でも知られる。
植木は兆民・西園寺らと異なり、フランス留学の経験をもたず、フランス語の原書を読んだこともなかった。しかし、兆民訳のルソーを筆写することにより、徹底した人民主権論者になったと評される。本書は、植木の最初の著書で、民権思想を大衆向けに極めて平易な文体で説明している。
東洋大日本国々憲案【牧野伸顕関係文書(書類の部) 89】
自由民権運動の高揚を背景に設立された国会期成同盟は、明治14(1881)年10月の大会において憲法案を議論することを予定し、それに向けて同盟参加の各政社は憲法案(私擬憲法)を作成した。本資料はそれらの中の一つで、立志社の憲法起草委員であった植木が起草した憲法案である。軍事及び外交の総裁として皇帝を位置付ける一方、地方自治を尊重して米国やスイスに倣う連邦制国家を構想していること、国会中心の統治体制構築を提案していること、アメリカ独立宣言・フランス人権宣言の影響の下、第4編において人民の「自由権利」をきめ細かく保障し、かつこれを担保するための抵抗権・革命権を認めていることなどの点に特徴がある。私擬憲法中最も民主主義的な内容をもつ憲法案と評される。なお、実際には同年10月12日に国会開設の詔が出されたことを受けて憲法案の審議はなされず、大会のため上京した代表者らは自由党を結党した。
植木枝盛『一局議院論』明治17(1884)【30-150】
これから開設される国会に、一院制と二院制のどちらを採用すべきか。自由民権運動の内部でも意見は分かれていた。本書において植木は、一院制を支持する。かつてギゾーは安定性に優れるとして二院制を擁護したが、植木は欧米各国の例を参照しながらギゾーらに反論する。植木は二院制を「封建ノ遺物」と呼び、人民に自由と権利を保障するには一院制の採用が最善であると考えた。植木にとって二院を置くことは国家意思の分裂を意味したのである。ここには、植木が人民主権論の影響を受けたことを見てとることができる。こうした一院制擁護論は、帝国憲法下において貴族院が果たす保守的な役割をあらかじめ批判するものだったと言われる。しかし、後に自由民権運動が挫折すると、植木は二院制支持へと転じることとなる。
植木枝盛日記【憲政資料室収集文書 1297】
本資料は、植木が海南私塾選抜生として上京した明治6(1873)年から亡くなる同25(1892)年までの日記を筆写したものである。原本は戦災で焼失したが、本資料等の写本により内容が伝えられた。本資料の翻刻が『植木枝盛日記』【289.1-U286u-K】として昭和30(1955)年に刊行されている。
内容は外面的な行動の記録が主であるが、青年時代の修学やその後の多彩な文筆・演説活動の記録、交友関係をうかがうことができ、自由民権運動を知る貴重な史料である。明治15(1882)年10月13日条には「夜仏蘭西ニ遊ヒ斯辺撒ニ会シ談話シタル事ヲ夢ム」との記述が見える。「斯辺撒」は、英国の哲学者ハーバート・スペンサー(1820-1903)を指すと思われるが、夢の話であり前後の整合性には欠ける。夢の舞台としてフランスが挙げられているのは興味深い。