第1部 日本の近代化とフランス

第1章 政治・法律

3. 民法典制定

明治政府は、不平等条約の改正(治外法権の撤廃・関税自主権の回復)を目指したが、近代的な法制を欠くことが諸外国から問題視されたため、法典編纂が急務となった。政府は、ヨーロッパ各国において法制の模範とされてきたフランス法を参考にすることとした。まず箕作麟祥にフランスの法律を翻訳させ、独力で民法典の編纂を試みたが、それでは間に合わず、フランスからジョルジュ・ブスケ(1846-1937)、ギュスターヴ・ボアソナード(1825-1910)を相次いで招へいし、法典の起草に当たらせた。ボアソナードが中心となって起草された旧民法典には、フランス民法典(ナポレオン法典)の影響が強かったが、民法典論争が生じた結果、結局施行されずに終わった。その後制定された現行民法典には、ドイツ民法典第一草案の影響が指摘されるものの、起草者3名のうち2名がフランス留学経験者であった。

旧民法典の編纂

『民法仮法則全』表紙

『民法仮法則 全』【支部最高裁判所図書館所蔵】『民法仮法則 全』のデジタル化資料

明治政府において法典編纂を主導したのは、江藤新平であった。江藤は明治5(1872)年に司法卿に就き、司法省に民法会議を設置して民法編纂事業を行った。本資料は同会議の成果で、当時種々作成された草案の1つである。執筆に当たったジョルジュ・ブスケは、パリ生まれ、パリ大学卒の弁護士。司法省御雇顧問として同5(1872)年来日した。明法寮で法律学を教えたが、ボアソナード来日後の同9(1876)年に帰国した。本仮規則は、実際に施行することが予定されていたとみられるが、草案の内容は「身分証書」に関する部分に限られる。ボアソナードの民法典と同様に、フランス民法典(ナポレオン法典)を模倣しており、88条の前に序章6条を加えて全94条から成る。

『民法編纂ノ件伺書及決議』冒頭ページ

民法編纂ノ件伺書及決議【箕作阮甫・麟祥関係文書(寄託)110】民法編纂ノ件伺書及決議のデジタル化資料

江藤による民法典編纂事業が『民法仮法則』の成立をもって中絶した後、司法卿を引き継いだ大木喬任(1832-1899)の下で、箕作麟祥・牟田口通照(生没年不詳)による民法典の編纂が進められ、明治11(1878)年には草案が出来上がる。しかし、これはフランス民法典を直訳移植しようとしたもので、そのまま施行することは困難であったため、再度民法典編纂事業が行われることとなった。同13(1880)年2月に元老院議長に転じていた大木は、同年4月に民法編纂総裁を命じられ、ボアソナードを中心とする民法典編纂が開始される。
本資料は、その開始に当たり、大木が太政大臣・三条実美(1837-1891)に対して職権の範囲を伺う文書と、民法編纂局の章程がまとめて写され、箕作の手元に残されたものである。ボアソナードと箕作が属した同局第一課は、フランス語で法案を起草し、それを和訳することが任務であった。

『法政大学総理梅謙次郎感謝状』

法政大学からの感謝状(同大学総理・梅謙次郎名)【箕作阮甫・麟祥関係文書(寄託)219】法政大学からの感謝状のデジタル化資料

箕作麟祥は、蘭学者・箕作阮甫(1798-1863)の孫として、弘化3(1846)年江戸の津山藩邸で生まれた。漢学・蘭学・英学を修め、文久元(1861)年蕃書調所英学教授手伝並となる。後に仏学を学び、慶応3(1867)年パリ万博の際に徳川昭武(1853-1910)に随行して渡仏した。帰国後、家塾を開き大井憲太郎・中江兆民らを教えた。フランスの法律書の翻訳に従事したほか、貴族院議員などを務めている。
本資料は、明治42(1909)年4月25日に、当時の法政大学総理・梅謙次郎(1860-1910)から麟祥の息子俊夫(?-1923)に宛てた感謝状であり、和仏法律学校(同大学の前身)創立時に校長を務めた麟祥を顕彰する内容である。梅は麟祥の下で、校長を補佐する学監を務めた。

『日本民法義解第1冊』標題紙

ボアソナード訓定(富井政章校閲,本野一郎・森順正・城數馬合著)『日本民法義解』明治23(1890)【26-337ロ『日本民法義解』のデジタル化資料

ギュスターヴ・ボアソナードはフランスの法学者。パリ郊外ヴァンセンヌ生まれ、パリ大学卒。明治6(1873)年政府の招きで来日し、明法寮等でフランス法学を講義した。また、治罪法(刑事訴訟法典)・旧刑法を起草し、拷問の廃止に尽力した。同12(1879)年には民法草案の起草を開始し、10年余りの作業を経て完成した。ボアソナードが起草したのは財産法部分のみであるが、日本人委員の起草した家族法部分にも影響を与えた。この草案は同23(1890)年に公布されるが、その前年には大学間の対立などを背景に様々な批判が始まり、予定どおり実施すべきという派(断行派)と延期を主張する派(延期派)に分かれて対立した(民法典論争)。本書は、ボアソナード旧民法典の解説である。

『Projet de Code civil pour le Japon, accompagné d’un commentaire』標題紙

G. Boissonade, Projet de Code civil pour le Japon, accompagné d'un commentaire, 1880【J-45Projet de Code civil pour le Japon, accompagné d'un commentaireのデジタル化資料

ナポレオン法典は、ナポレオン・ボナパルト(1769-1821)が自ら編纂に関与して1804年に制定され、各国において民法典の模範とされた。同法典は、第1編人、第2編財産、第3編財産取得から成る。このように「人」、「物」、「行為」に分けた構成を「インスティトゥティオネス方式」という。ボアソナードの手になる旧民法典も、同方式によるが、5編から成るなど若干の相違がある。イタリア民法等の影響もあると言う。本書は、ボアソナードによるフランス語の草案(第2巻のみ)である。
なお、現行民法典は、ドイツ民法典第一草案に倣い、法典全体の体系性を重んじ個別規定に先立って「総則」を置く「パンデクテン方式」に則っているが、内容については旧民法典を通じてフランス法の影響が少なくないとも指摘される。

『民法商法ノ実施延期ニ関スル意見』冒頭ページ

民法商法ノ実施延期ニ関スル意見【大木喬任関係文書(書類の部)52-7】民法商法ノ実施延期ニ関スル意見のデジタル化資料

民法典の施行をめぐって、穂積八束(1860-1912)らの延期派と梅謙次郎ら断行派との間の論争が激しさを増す中、明治25(1892)年4月30日にボアソナードから外務大臣・榎本武揚(1836-1908)に宛てて提出された意見書である。本資料は蒟蒻版による複製で、当時文部大臣を務めていた大木喬任の手元に残された。施行延期に反対する理由を3か条にわたって述べているが、その中の1つが条約改正には民法・商法の存在が必要というものであり、司法大臣ではなく外務大臣に自らの訴えを述べている。しかし、翌5月には施行延期の法律案が議会に提出され、貴衆両院で延期が議決された。この結果、旧民法典はついに施行されず、新たに民法典を編纂し直すこととなった。

『ボアソナード答議』冒頭ページ

ボアソナード答議【大木喬任関係文書(書類の部)2-12】ボアソナード答議のデジタル化資料

本資料は、法律顧問としてのボアソナードの答申書である。治外法権に関する法学的疑問に対し、ボアソナードは「先ツ条約書ヲ調フベシ、疑問ノ事ニ関ル条目ヲ掲クル事アルヘシ」と述べたうえで、条約に定めのない場合の一般的な原則について、具体例も交えながら回答している。本資料は、司法省の罫紙に墨書で記されており、旧蔵者・大木喬任が司法卿を務めた時期のものと思われる。大木は佐賀藩出身で、文部卿として学制制定に関与したほか、東京府知事や司法卿、元老院議長などの要職を歴任した。

『ボアソナード氏意見書』冒頭ページ

ボアソナード氏意見書【箕作阮甫・麟祥関係文書(寄託)125】ボアソナード氏意見書のデジタル化資料

条約改正を目指して法制の整備や内閣制度の確立、欧化政策などが進められ、明治19(1885)年からは外務大臣・井上馨(1835-1915)の主導で、諸外国の代表者を集めた条約改正会議が回を重ねた。しかし、そこで審議された条約案は日本側の譲歩が多いものであったため、そのまま締結されることを危惧したボアソナードが提出した反対意見が本資料である。
改正案については、閣内からも司法大臣・山田顕義(1844-1892)や農商務大臣・谷干城(1837-1911)から反対の声が上がり、条約改正交渉は中止された。これらの内容は民間にも伝わり、三大事件建白運動等で民権派の反政府機運が高まる中、「板垣退助上奏文」や「勝安房口演覚書」と共に、『西哲夢物語』【特70-26】等政府攻撃を目的とした小冊子として流布した。政府はこれを取り締まり、同20(1887)年暮れから翌年にかけて、星亨(1850-1901)ら約50名が逮捕された(秘密出版事件)。

『ボアソナード雇契約書(写)』表紙

ボアソナード雇契約書(写)【伊東巳代治関係文書 315】ボアソナード雇契約書(写)のデジタル化資料

ボアソナードは当初司法省に雇われたが、その実力が知られると正院法制局、外務省、元老院、陸軍省など他の官庁からも顧問として用いられるようになり、ついには官庁間での争奪戦の様相を呈した。明治6(1873)年以来3年ごとに更新された雇用契約は、同21(1888)年11月でいったん満了するが、民法典が未完であったため、司法省内の声を受けて、翌22(1889)年12月から新たに5年間の雇用契約が結ばれた。ちなみに、年間の俸給は1万4千円であった(同24(1891)年の巡査の月給は8円である)。
同28(1895)年、ボアソナードは自ら手掛けた民法典の挫折に失望して帰国し、1910年南仏アンチーブで没した。

現行民法典の編纂に向けて

『法学綱論上巻』標題紙

富井政章『法学綱論』時習社,明治20(1887)【22-74『法学綱論』のデジタル化資料

明治25(1892)年旧民法典が施行延期に決した後、翌年には内閣に法典調査会が設置され、現行民法典の編纂が始まった。同28(1895)年確定案を得て、翌29(1896)年に第一編総則・第二編物権・第三編債権が成立、同31(1898)年には第四編親族・第五編相続が成立した。穂積陳重(1856-1926)・富井政章(1858-1935)・梅謙次郎の3名が現行民法典の起草委員である。
富井は京都生まれ。貧困のため苦学したという。私費でリヨン大学に留学し、明治16(1883)年、契約の解除に関する論文で博士号を取得した。帰国後、東京大学法学部教授を務め、民法典論争に当たっては延期派に与した。富井自身はドイツ法に傾いていたとも言われる。本書は、論争に先立つ時期の著作で、法律と道徳の区別、憲法・刑法などについて概要を記す。

『De la transaction』標題紙

Kenziro Ume, De la transaction, L.Larose et Forcel, 1889【96-37(洋)De la transactionのデジタル化資料

梅謙次郎は、現行民法典の起草者の1人。出雲(島根県)生まれ。東京外国語学校でフランス語を学んだ後、司法省法学校に進む。明治18(1885)年にドイツ留学の発令がなされたが、自らの希望で渡航先をフランスに変更し、リヨン大学で3年半学んだ。本書は、同22(1889)年リヨン大学に提出された『和解論』と題する博士論文である。現在もフランス民法の解釈論として通用するという。なお、梅はその後、ベルリン大学でも学んでいる。民法典論争に当たっては断行派に属したが、迅速な民法施行を重んじ、現行民法典の起草委員に加わることとなる。3名の起草委員の中では最もフランス法寄りで、後に現行民法典に対するフランス民法典の影響の大きさを指摘している。